ファースト・エデュケーション 金曜の夜、だったから。 何故かそう思い出しながら遊馬は廊下の真ん中に突っ立っている。 土曜、の、朝だ。 サンルームに射す光が照り返し、早朝の廊下を明るくしている。それだけではなく、バスルームの扉も開いていたから、その様子ははっきりと見えた。まるで夢の中の光景だ、とも思ったけれど。 目の前に立つ足は小刻みに震えていた。白い肌だ。昨夜もそう思ったけれど、それはこの世に生まれたばかりの光を纏っていたせいかと思った。本当に白い。白い肌。きっと今初めて太陽の光に触れている。 廊下に広がった液体もまた照り返しの柔らかい朝日を受けて、雨上がりの水たまりのように光っていた。 「ゆう、ま」 震える声が呼んだ。 「これは、一体…?」 震える白い足。貸し与えたスウェットがくしゃくしゃになって落ちている。手はTシャツの裾を強く握りしめ、脚の間を隠していた。 「遊馬…っ」 アストラルが困惑した目で見つめていた。 「大丈夫」 その縋るような瞳に、遊馬は反射的におおらかな笑みを浮かべた。 「大丈夫だからな、アストラル」 「私は…」 「なにも心配することじゃないぜ。ほら」 こっち、と遊馬はアストラルをバスルームに促した。 「汚れたらここで身体を洗うんだ」 「私は、汚れたのか…」 ぽつりと呟かれた科白はまるで別の意味を持つようで、遊馬は妙に胸をどきどきさせながらアストラルの背に触れる。ちらっと見下ろすと内股から濡れて流れた跡が見えた。 「オレがちゃんと教えてやるから、心配しなくていいよ」 相手を落ち着かせるように、遊馬はアストラルの肩を掴み目を合わせて言った。優しい物言いが瞳に映った困惑の色を消し、うなずきによって浮かぶものは信頼へと変わる。遊馬の言葉にアストラルは頷く。 「ありがとう」 「服は脱げるよな。これを捻ったらお湯が出るから、それ浴びて。火傷するなよ。温度調節はここな」 立て続けの説明になったがアストラルはもう落ち着いていて、しっかりと返事をした。 バスルームの扉を閉じた遊馬はそれにもたれかかり、溜息をついた。まだ姉も祖母も起きていない。大丈夫、と胸に言い聞かせる。 タオルで床を拭いた。不思議なことに汚いとは思わなかった。それに気づいて、あ、と独り言を漏らす。匂いがしない。恐る恐る鼻を鳴らしたが、何の匂いもしなかった。 濡れたタオルと廊下に脱ぎ捨てられていたズボンを洗濯機に放り込む。あ、Tシャツと思って、またとって返した。 バスルームの扉を開けると、ガラス戸の向こうにぼんやりとした人影が見える。 「アストラル」 遊馬は呼びかけた。 遊馬、と籠もった声。濡れた掌がガラス戸に触れる。 「あのさ」 遊馬は言った。 「入ってもいい?」 自分でも思いもしない言葉だった。遊馬はそう言葉にした自分を信じられず、ぽかんとして脱衣場に立ち尽くした。自分は突然何を言い出すのだろう、そう思っていたのに。 「…お願いしたい」 ガラス戸の向こうから、アストラルははっきりとそう返事したのだ。 急いで服を脱いだ。ランドリーバスケットの底にはアストラルの脱いだTシャツが畳まれて、ちょこんと置かれていた。どうしてこんなことは学習したんだろう。遊馬はくらくらしながら自分の服をバスケットの底に落とす。 ガラス戸を開けると熱い湯気が全身を覆った。シャワーの下に佇んだアストラルが正面からこちらを向いている。遊馬はシャワーに手を伸ばし、ちょっと悲鳴を上げた。 「熱い」 温度調節のつまみを捻る。 「熱くなかったのか?」 驚きながら尋ねる。アストラルは平気そうな顔をしていたが、ちょっと眉を寄せた。 「よく…分からなかった」 遊馬はアストラルの腕に触れる。熱い。 「多分、熱かったんだよ」 遊馬は少しぬるくなったシャワーが肌を流れ落ちるのと一緒に、赤くなったその腕を撫でる。 「熱すぎると痛いとか感じるんだ。痛いとか辛いとか、我慢しなくていいんだからな」 「分かった」 「分かんねえこととかあったら遠慮無く訊いていいんだぜ。お前は昨夜人間になったばっかりなんだからさ」 さっきのも…、と言いかけて遊馬はアストラルの下半身を見下ろす。 今までの日々、アストラルの姿など見慣れてきたと思っていた。まずアストラルは地球の生き物ではなくて、だからその姿も当たり前だったのだ。しかし人間の肌の色をした、人間の身体が目の前にあった時。 遊馬の視界は霞んだ。湯気のせいだけではなかった。沸き上がった熱い血が目を霞ませ頭の中を白くした。なにもついてない、なにも…。 「起きて、さ」 声が裏返る。 「すぐ分かったのか、トイレ行きたいって」 「トイレ…」 「その…エネルギー排出」 「ここが…」 アストラルは目を伏せ、下腹を撫でる。 「痛かった」 「痛かった?」 「痛み…だったと思う」 そう答えながらも自信がなさそうにアストラルは遊馬の顔を覗き込む。 「人間はエネルギー排出の際に痛みを感じるのか?」 「痛くなるのは我慢のしすぎ」 廊下の水たまり。慌てて脱いだズボンはくしゃくしゃだった。Tシャツは丁寧に畳まれていたのに。よほど慌てていたのだろう。理解ができなかったに違いない。 遊馬は微笑む。安心させるための笑みを浮かべ、ゆっくりと言い聞かせる。 「このへんとか」 遊馬は自分の下腹に掌を当てた。 「あと脚の間の、その…、おしっこ漏れたとことか」 「おしっこ」 「わああ!」 そのままアストラルが繰り返す。その言葉は遊馬の全身をビリビリとさせた。思わず出た大声がそれを打ち消そうとしたが、アストラルの発した言葉はしっかりとその耳に届いていた。 「エネルギー…排出の…」 「排泄物をそう呼ぶのか?」 「………」 またくらくらした。 遊馬はアストラルの両肩をしっかり掴んだ。 「オレ以外の人間の前で、そういうこと言っちゃダメだからな」 「…分かった」 遊馬はもう一度説明し、痛くなくても変な感じがしたらすぐに自分に教えるようアストラルに言った。 「変とはどんな感じなのだろう」 「分かんなくても、いつもと違うとか、ちょっと変とか…、とにかくすぐオレに教えること。実際違ってたっていいんだから。オレ、怒んないから。一つ一つ全部教えてやるから」 「全部?」 「ちゃんとついてってやるからさ」 その言葉はさらりと出た。 「一人でできるようになるまで、オレがついてて教えてやるから」 「…ありがとう」 花のほころぶようにアストラルは笑った。朝日にハレーションを起こす白い湯気の中で、その笑顔は本当に花のようだ。淡く、美しい微笑みが近づく。 「私の側にいてくれるのが君で本当によかった」 まだ熱のある腕が遊馬を抱く。 「感謝している、ありがとう遊馬」 シャワーの下、遊馬は制御の利かなくなりそうな腕をゆっくりとゆっくりとアストラルの背中に回す。熱いシャワーに打たれていた背中。掌でその温度を感じ取る。しかし遊馬の掌も、もう負けないほど熱く。 こういうこともオレ以外の人間としちゃ駄目、と教えなきゃ…。遊馬は目を瞑り、アストラルの首筋に顔を埋める。匂いがしない。まるでこのシャワーのように。もしかしたら廊下の水たまりも本当に、そうなのだろうか。 遊馬、と穏やかな声が呼ぶ。遊馬は瞼を開き、間近で輪郭のぼやけるアストラルのうなじを眺める。 シャワーを浴びたら、タオルの場所と、下着と、それからシャツのボタンの留め方。色々、教えることはまだ山ほどあった。それ全部オレが教える。 「楽しみだな」 「なに…?」 「やっぱりお前と一緒がいいよ、オレ」 同じ朝。最初の朝。シャワーの水音の向こうから朝の物音が聞こえ始める。まずはタオル。その前に、シャワーを止める前に、人間になる前から知っていたことを、愛情表現を一つやった。キスはシャワーよりもほんの少しだけ熱かった。
2011.12.23 けろさんのおっしゃったネタのノベライゼス
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