ブラック・プール・ドラウニング




 うんざりするほど正気、だったのだ。
 どこかで聞いた言い回しだった。自分が真っ当な世界にいられた時のことかもしれないし、もしかしたら潰れたゲーセンで陸王が口にした言葉かもしれない。記憶は、今となってはアメーバのようにあちこち側にあるものなんでもお構いなしに接触し、緑色の触手でべたべたとへばりつく。やがて混濁し色もどす黒く自分の首まで埋める泥だ。ねばつくそれを、しかし凌牙は不快に思わない。確かにちょっと変な匂いがするが、これはどれもこれも遊馬の記憶じゃないか。両手にすくって飲み干したいくらいだ。
 両手を目の前に持ってくると、それがぼんやりとまだら模様に光っている。特殊な文字の形が犇めき合っているから不可解な模様に見えるだけで、その一つ一つは解読可能だ。真夜中の部屋でも分かるほど、それは煌々と光っている。水族館に閉じ込められた深海魚のように。凌牙はその掌の上に嘔吐する。吐き出したものがなにかなど、もう考えることはしなかった。食ったものだろうが血だろうが、もうそれはオレに必要ないものなんだろう。オレは遊馬を取り戻せればそれでいい。キッチンのシンクに覆い被さり、腹の底に溜まっていた余分なものを全て吐き出した。些か、気分が晴れた。
 カーテンを開く。狭い空を占領するようにハートランドのタワーが見える。月が串刺しにされている。青い月の光。クソッ、クソッ、青い光なんて、と小さく悪態を吐きながら蹴りを繰り出すと、足が網戸を突き破った。ガラスなどとっくに割れてしまっていたのだ。
 月光に照らされた部屋には遊馬のいない椅子と遊馬のいないベッドと遊馬のいない床の上に遊馬の服だけが散らかっていて、蝉の抜け殻を集めて壊したような記憶が蘇るが、それだって本当に自分の記憶かは分からない。遊馬の記憶かもしれない。そうでなければこの胸に収められたナンバーズのどれかの元の所有者の記憶。そんなものだとしたら要らない。また吐き出し捨てる必要がある。凌牙は空っぽの椅子を持ち上げ、窓から投げる。それは狭いベランダの柵に一度ぐわんと音を立ててぶつかり、それから路地に向かって落ちた。木っ端微塵のばらばらに砕ける音。ざ、ま、あ、み、ろ!と声に出すと一瞬だけハイな気分になれたが、それはすぐに遊馬への渇望に変わる。
 禁断症状を抑えるのにナンバーズは役に立たない。むしろ逆効果だ。ナンバーズは凌牙の欲望をかき立て増悪させる。欲しくてたまらない、もう、どう手に入れたらいいのか分からないほど。手に入れてどうしよう。その手を掴んで抱きしめて、二度と離れないためには何をすればいい。
「違う」
 凌牙は口に出す。
「違う、違う」
 オレは遊馬に、側にいてほしいだけだ。いや、恋人のようなものなど望んじゃいない。望んでなどいないはずだった。
「オレは…遊馬を…」
 守りたい。愛したい。手に入れたい、大事にしたい、敬いたい、崇めたい舐めたいキスをしたい抱きたい犯したい。
「違う…」
 声を絞り出し、凌牙は後ずさる。ゴミの山に躓いて尻餅をつく。伸ばした手がベッドからシーツを引きずり下ろす。頭から包み込むシーツはまだかすかに遊馬の匂いがした。子どもっぽい体臭と、饐えた匂い。凌牙は自分を包み込むシーツを抱きしめる。
 凌牙は知らない。シーツを越してぼんやりと光が漏れている。身体の至る所に犇めくナンバーズの刻印が、凌牙の感情を得て明滅している。遊馬…、と呟くとそれは一斉に呼応した。さあ、お前を寄越せ神代凌牙。お前の魂の奥で淀む闇を俺たちに開放しろ。そうすれば俺たちはお前の求めるものを与えるだろう。遊馬を。九十九遊馬を。
「遊馬…」
 シーツの下で凌牙が呻く。
「遊馬…!」
 伸ばした手が、爪の先がシーツを裂き凌牙は夜気の中に顔を出す。
「遊馬!」
 夜の中に凌牙は叫ぶ。
「遊馬!」
 自分が何者であるか忘れても進むべき道は見失わない、やるべきことは忘れられない。それは遊馬が照らしてくれたものであり、その先にこそ遊馬がいるのだから。黙れ黙れ黙れ、耳元でがなる有象無象ども!オレに必要なのは遊馬だけだ、お前らの力など。凌牙は胸元に強く爪を立てる。
「貴様らなんぞ…道具にすぎない」
 遊馬を取り戻すための手段に過ぎない。
「遊馬が帰ってくれば、オレは」
 オレはまた太陽の下を恐れず歩き出せる。そして。
「遊馬」
 遊馬を愛するのだ、心の底から。愛していると言おう、伝えよう、全ての感謝と共に。
「オレは」
 オレはお前を。
「取り返す」
 オレは、お前を。
「愛しているんだ」
 お前を。
「遊馬」
 タワーに貫かれた月が建物の向こうに消える。部屋の中は急に暗くなり、ナンバーズの刻印もその光を消す。凌牙は床の上に四つん這いになり、懸命に息をした。
「遊馬」
 吐息と共に名前を呼びながら。
 夜は眠れない。遊馬の記憶に首まで浸って泳ぎ続ける。どす黒く変色した混濁の記憶は遊馬のスープで、凌牙はその中で溺れてしまいたいと切に願う。溺れて、気を失った絶対的な眠りの中で遊馬に会いたいと思った。夢の中でなら、邪魔も入らないだろう。もう少しマシな服、マシな舞台を用意してやれるだろう。駅前で待ち合わせよう。モノレールに乗って買い物にでも行こう。駅ビルでドーナツでも食べるか?そんな夢が見たい。夢の中でくらい、夢らしい夢を。
 凌牙は頭まで沈む。吐き出した息は小さな月のようにゆるゆると立ち昇った。






2011.12.22 跳ね箸様から、猟奇じゃない凌遊はどうでしょう。という訳でナンバーズの刻印だらけのシャークさん。