冷たい水槽




「あいつは水族館に入るべきなんだ」と彼を逮捕した警察官が言う。
(『裸のランチ』ウィリアム・バロウズ)



 大きな水槽は隅の方から藻に侵蝕されガラスの壁面は半分緑色に曇っている。その中を黒い金魚が一匹、泳いでいる。金魚には目がない。時々ガラスにぶつかってはよろよろと進路を変え泳ぎ出す。広い水槽の只中に、行き場をなくして。
 凌牙は水槽を背に床にしゃがみこんだ。床は濡れていた。掃除をしたばかりだからだ。吐瀉物、排泄物、ちまちました掃除が面倒だったし匂いがつくと思ったから一面を水で流した。部屋の隅には水で寄せられたゴミが溜まっていた。汚水の染みた処方箋。カプセルや錠剤のカラ。巻き損ねた葉とライスペーパー。ポケットに手を突っ込むと、上手く巻けたのが二、三本残っていた。そのどれもくしゃくしゃになってしまっていたが、凌牙はそれを唇に挟む。
 火をつける前の煙草は柔らかく鼻先に香る。火はなかった。ライターは恐らくあのゴミの中だろう。探し出す気力も今はない。キッチンに足を伸ばせばコンロがあったが、どうしてもこの妖しい紫煙を吸いたいわけではないのだ。夢を見たいのはオレじゃない。凌牙は心の中で呟く。夢を見せたい、明るい、南の海のような夢を。オレはその様をしっかりと眺めたいんだ、ちゃんと目覚めて、この目で。
 顔を上げると汚れた膝が見える。ああ、吐いたのが染みているのだ。あのズボンも脱がせなければ。Tシャツも、全部脱がせて水で流して、傷口を洗ってやらなければ。そう思った時、椅子の脚に縛り付けられた足がびくりと動いた。まるでこちらの考えていることが伝わったかのようだ。遊馬、と凌牙は溜息を吐く。オレの心は通じているか、遊馬。煙草が濡れた床に落ちて、駄目になった。凌牙は足の間でじわじわと水の染みてゆく煙草を見下ろし、唾を吐くような息を吐いて立ち上がった。
 遊馬は椅子に縛り付けている。そうでなければ逃げてしまうからだ。足首を椅子に縛り付け、後ろ手に回した手首は手錠をかけている。おもちゃの手錠だ、潰れたゲーセンの景品の。それでも十分役に立っていた。猿轡はしない。声が聞きたいから。目隠しだけが本格的なものだった。黒いレザーのアイマスク。あの目は…傷つけたくない、見られたくない、仕舞っておかなければ、そんな焦燥に駆られる。タオルや粘着テープでは不安で仕方なかった。だから吟味して選んだ。
 凌牙はポケットに無造作に突っ込んでいたナイフを取り出し、水槽の水で軽く洗った。水音を聞いた遊馬が軽く顔を上げる。耳が自然と音源を辿るのだ。しかし凌牙は話しかけることをせず、黙って遊馬の前に跪くと足を拘束していた粘着テープを切り裂いた。急に自由になった遊馬の足は痙攣するように動いた。それから腹を括り付けていたロープを裂く。遊馬の身体は前にのめるが、背もたれの後ろで組まされた手が倒れるのを防ぐ。凌牙は抱きしめるように遊馬の身体を抱き上げ、バスルームに向かった。
 抱きかかえたまま片手でズボンを脱がせ、バスタブの縁に座らせた。パンツが膝のところで中途半端に引っかかっていた。それをずり下ろすと、遊馬の身体はびくりと震えた。手錠を外すつもりはない。この手を自由にさせてはいけない。凌牙は今一度ナイフを取り出し、下から遊馬のシャツを切り裂く。遊馬は静かに息を止めていた。タイル張りの狭い浴室に布を切り裂く音だけが響く。
 ボロ布となったそれを凌牙は後ろに押しやった。遊馬の身体がぐらりと傾いだ。止める間もなく、遊馬の身体はバスタブに転がり落ちる。しかし悲鳴の一つも漏れない。
 冷たい水で遊馬の身体を洗った。口を開けさせ、残った吐瀉物を洗い出す。ここに連れてきて椅子に縛り上げるまで争った時につけてしまった傷はもう紫色の痣になっていた。膿んでいるのは右手の傷。手首と、それから肘の内側。注射器は清潔なものを使った。だからきっと最初に使った薬が悪かったのだろう。赤い傷口から溢れる膿の色は黄色と緑だ。人間の身体に流れる血は、本当に赤一色なのだろうか。
 冷たく洗い流した身体をもう一度抱え上げ浴室を出る。部屋に入った途端、むっとした熱気と臭気が鼻をつく。部屋の窓は目張りをしてもう長いこと開けていない。キッチンで換気扇がのろのろと回る、それだけが換気だ。
 遊馬は気絶しているのか動かない。凌牙はその細い身体をベッドに横たえ、自分も隣に横になる。寝息だろうか、わずかに開いた唇から漏れるかすかな息。その匂いを嗅ぐ。饐えた匂いがする。くせえ、と思ったが嫌ではなかった。自分も同じ息をしているだろうと思った。おそろいだ、こんなところで。凌牙は遊馬の細い首の上に掌を置き、皮膚の下に打つ脈を感じた。遊馬の脈は子守唄のようで、瞼が自然と閉じる。
 夢のように思い出す。初めて会った日、鍵を壊したこと。駅前でのデュエル。遊馬は何度もシャークを追いかけた。決して諦めなかった。遊馬の言葉が眼差しが凌牙を肯定した。遊馬は、笑うな、と言った。あの叫びを今でも覚えている。忘れたことがない。なんならあの日あの夜からずっと鼓膜の奥に響き続けているのだ。遊馬が自分を塗り替えた。これまでの人生から、遊馬のいる人生へ。だから。
 凌牙は瞼を開く。深い目の底から遊馬を見つめる。
 失うわけにはいかない。遊馬の中のなにものも他人には奪わせない。それを守るためならば凌牙が戦う、デュエルもする、これ以上遊馬にカードをドローさせはしない。それと共に遊馬は自分から遠ざかってしまう。手を、離れてしまう。二度と掴めなくなる。
 何度も説得した。抱きしめた。それでも利かなかった。遊馬は自ら進んでそれらを失う道を選ぶ。もうどれだけのものを失っただろう。そのうち遊馬は人間ではなくなってしまう。
 だから縛り付けておかなくては。地上に留めておかなくては。
 自分には姿の見えないそれの姿が見え、聞こえない声が聞こえるというならば、その目の光を奪っても、その耳を奪っても、訳の分からない存在に遊馬を奪わせはしない。
 もうそいつの姿は見えないだろう。声は聞こえないだろう。あれからどれだけの時間が経ったと思う?遊馬は最近ものも食べなくなった。飲ませようとしても水も飲まない。だけど死なせはしない。真新しい注射器くらい幾らでもある。栄養剤も、アンプルも。右手が化膿してしまったというなら…いっそ切り落としてはどうだろうか。それならばもうカードをドローできない。
「いいことを思いついた」
 凌牙は囁く。
「遊馬…」
 寝そべったままナイフを持った手を伸ばし、刃で遊馬の右腕をなぞる。闇医者のところに行って切り落としてもらおう。きっとその右手はもう使い物にならない。緑色の膿まで出るのだ。きっともう駄目だ。だけど心配するなよ。オレがカードをドローする。オレが代わりに戦ってやるよ、お前を引き裂いてバラバラにして連れて行こうとする奴らからオレが守ってやる。オレはお前に借りがあるんだ。お前の一生に、オレの一生をかけて尽くしてやる。
 一眠りしたら行こう。パンツもズボンもオレのを貸してやる。シャツは着なくても上着で隠せばバレやしねえよ。そしたら帰りはどこかに寄って飯を食ってもいい。久しぶりのあたたかい飯だ。大丈夫だ、左手だけだからって心配することはない、オレが食わせてやるから。
 凌牙はそれらのことを、嗄れた声でぼそぼそと囁きかけ、遊馬とアイマスクの上にキスをした。
「遊馬」
 その時、饐えた息が喉を掠めた。凌牙は唇を見下ろした。遊馬の唇がわずかに動いている。
 シャーク、と。
 呼ばれた。
「ゆ……」
 カチャリ、と固い音がしてナイフが引っ張られる。手錠の鎖に絡まったのだ。引き抜こうとしたが、鎖に絡め取られる方が早かった。
 高い音が響いた。凌牙はベッドの上に起き上がった。折れたナイフが落ちている。それから千切れた鎖。水槽の明かりに照らされたシーツの上、ナイフが暗い影を落としている。
 ゆらりと影が揺れた。遊馬の上体が起き上がる。掌がシーツの上を滑り、違わず折れたナイフの刃を握った。持ち上げられた刃は遊馬の頬の上を撫でる。そして自分の視界を拘束する革と皮膚の間にすっと差し入れられる。
 革の裂かれる穏やかな音がした。アイマスクが、遊馬の頭部を拘束していた黒いレザーがシーツの上に落ちる。水槽の光を背に遊馬の表情は影になる。影の中、閉じていた瞼がゆっくり、ゆっくりと開く。
 赤い瞳が優しく凌牙を見た。
「ありがとな」
 刃を握った手と空の手が伸びる。その両腕は凌牙を抱きしめ、ゆっくりと近づいた顔は優しいキスをした。饐えた匂いのする息。水に濡れた冷たい遊馬の唇が優しく自分の乾いた唇に押しつけられる。冷たい唇は優しく何度も凌牙を食んだ。背後で床の上に刃の落ちる音がした。
「ありがとな、シャーク」
 遊馬が囁いた。
「愛してくれて」
 冷たい身体が離れる。それまで遊馬のいた場所に湿った熱気が滑り込む。しかし凌牙の身体は背筋まで凍える。急な寒さ。骨まで凍みる。
 遊馬は床の上に降り立つと、手錠を外して水槽の中に沈める。黒い金魚が急な対流に弄ばれ、方向感覚を失う。遊馬は水面に屈み、小さな声で金魚にバイバイと言う。乱暴に脱ぎ捨てられた凌牙の服の中からコートを引っ張り出して、遊馬はそれを羽織った。その足は迷わず玄関に向かっていた。
「遊…馬…!」
 追いかけようとしてベッドから落ち、縺れる足で凌牙は立ち上がる。
「行くな、遊馬…!」
 しかし遊馬はもう振り返らない。言うべき言葉は全て伝えられた後だった。拘束、注射、膿んだ右腕、どれも遊馬は恨まない。赦しもしない。最初からそれは赦す赦さないという対象ではない。凌牙が自分を愛していることを遊馬は知っている。そして骨の髄まで知った。細胞の一つ一つに刻みつけられるように感じた。だからそれを全て受け容れた。だから。
 ありがとうと言ったのだ。
 金魚に向かって言ったさよならの言葉さえ必要なかった。遊馬はドアの目張りを剥がし、鍵を開けて外へ出る。裸足に、少しサイズの大きい凌牙の靴を引っかけて。ドアの外は眩しくて、朝日が昇ったばかりなのかそれとも昼間なのか、真っ白な光に満ちていて、遊馬はその中に躊躇いもせず歩いて行く。
「遊馬!」
 がしゃんと大きな音を立てて鉄の扉が閉まった。部屋はまた噎せ返るような熱気と暗闇に閉じ込められた。その中に荒い呼吸が聞こえる。凌牙は喘いでいる。今にも死にそうなほど。
 よろめき倒れる。音を立てて頭が濡れた床にぶつかる。真横では緑色に曇った水槽の中、金魚が彷徨っている。それはもう泳ぐという体をなしていない。水の流れに流されているだけで、もうすぐ腹を晒し、水面に浮かぶのだろう。ゆっくり、くるくると回転している。

 ビルから出た遊馬は狭苦しくアパートの並んだ路地の、それまで凌牙といた部屋を見上げた。窓は真っ暗だ。その上には谷間から見上げる細長い青空。冷たく新鮮な、冬の匂い。寒さに肉体が勝手に反応して、思わず身震い。それから遊馬はふと表情を和らげる。
「だって教えても可哀想だろ」
 遊馬は少し悲しそうなトーンで、青空に向かって話しかけた。
「お前の声はずっと心の中に聞こえてたなんてさ」






2011.12.21 うどん子様のリクエスト。凌遊、猟奇で。