雪が降るから君の手を

氷でもいいからお前の手を




 雪の中に墜落するようなその感覚を、空を飛ぶ彼に教えてやれるだろうか。
 高層タワーを貫くエレベーターは剥き出しの鉄骨の向こうに街の景色を映し出す。おもちゃのブロックを並べて、ぎゅうぎゅうに敷き詰めたかのようなハートランドシティ。そこに、雪が降る。
 エレベーターは下る、真っ逆さまに。遊馬はガラスの壁面に背中を押しつけ、上を見上げる。空から雪が降ってくる。灰色の空から。雪より速くエレベーターは落ちる。オレの身体は墜落するみたいだ、空からどこまでも底なしに。
 昔、大昔、父親に連れられて海外の山を登る前は、空から落ちるのが怖かった。きっと観た映画の影響だろう。映画では飛行機も宇宙船も何でも、空を飛んでいても、その下は雲で隠れていて地面があるなんて思わなかった。空から落ちたらどこまでも空を落ちるのだ。そして死んでしまう。どんな映画でも、ハッチから突き落とされた悪役は空の中で死ぬ。墜落して肉体がへしゃげてバラバラになって死ぬところなんか描かれなかったから。空に落ちたら、死ぬ。
 エレベーターが揺れる。本当は揺れるというほどの振動もなかったのだけれど、慣性の法則で遊馬の身体はひどく揺れたように感じる。チン、と軽やかな音をたてて両開きのドアが開いた。吹き込んでくる冷たい風。目の前には雪の降り積もった街の景色。
「行こう」
 何故か呟いて外に出る。斜め後ろにアストラルの気配を感じる。
 タワーから撮った写真はすぐに明里に送った。OKの返事が来たから、今日のパシリはこれで終了。ハートランドシティの初雪のニュース、もう一時間もすれば夕方のヘッドラインに載る。遊馬はポケットに手を突っ込んでベンダーの前に立った。ベンダーの電光表示を流れるニュースはまだ二時間前の配信のままだ。
 ポケットの中でぬくもったコインを取り出し、投入口に転がす。少しあたたかい缶はコーヒーがほとんどだ。遊馬は隅にあるココアのボタンを押す。出てきた缶は熱い。両手で交互に持ちながらベンチに座った。
「寒くはないのか」
 傍らに浮かぶ、そちらこそ寒そうな格好のアストラルが言う。夏は別になんとも感じなかったが、季節が移るにつれてアストラルの姿は見ているこちらが寒々しい。遊馬は顎まで覆っていたマフラーをずり下ろし、頬に熱いココアの缶を当てた。
「寒ぃよ」
「ならば早く駅に向かった方がいいだろう。構内ならば雪を防ぐことができる。モノレールの車内は暖房が効いているぞ」
「い、わ、れ、な、く、て、も、わ、か、っ、て、ま、す!」
 大声で答えると道行く人々がぎょっと振り返ったが、遊馬は気にせずココアを飲んだ。熱い液体が流れ込む感触に食道と胃の位置が分かる。身体のこんなところにオレは内臓があるんだ。
 横目に見上げたアストラルは軽く腕を組み遊馬を見下ろしている。内臓があるかなんて分からない。雪がすり抜けても冷たくないし寒くない、アストラルの身体。薄い水色。
 タワーの展望台から写真を撮りながら、寒風に吹かれているこいつが吹き飛ばされやしないかと、このまま凍ってしまわないかとあらぬ心配をした。
「アストラル」
 遊馬は膝の上に頬杖をつき、言った。
「オレの目の前に来いよ」
 返事もせず、しかしアストラルは遊馬の言葉を叶える。目の前にしゃがみこむように現れる。この世界において希薄な存在は、往来の景色をその身に透かす。遊馬は自分のマフラーを外した。
 両手に持ったそれをかけてやる、ふり。
「遊馬…」
 アストラルはかすかに微笑みのようなものを目元に刷いた。その細められた目に映る、映っている自分の姿。それが滲む。
 細い水色の指が触れる、ふり。自分の頬に顎に、そっと。唇が触れる、ふり。
 本当なら冷たいのかもと想像するのはその姿が水のようだから、だろうか。それでも構わない。遊馬は触れたい。凍えそうなくらい冷たくたって、アストラルに触れたいし触れて欲しい。頬に触れる指も。キスをする唇も。それからなんでもやる。このマフラーも、ダウンコートも、クローゼットの中のセーターは多分アストラルには少し小さいから――こいつの方が背が高ぇんだもん!――買いに行く。靴だって、靴下だって、とにかく何でもだ。
「お前にさ」
 遊馬の吐く息は白い。アストラルはぱっちりと見開いた目で自分を見ている。
「オレの秘密、教えてやるよ」
「君の秘密」
「…今、何でも知ってるって言おうとしたろ」
「おおむね、その通りだが」
「小さい頃の、オレの秘密」
 ベンチから立ち上がり、缶をベンダー脇のゴミ箱に捨てる。
 遊馬が歩き出すと、アストラルはすぐ隣、遊馬の視界に入る距離に浮かぶ。
「昔、空から落ちるのが怖かった」
「空から…落ちたのか?」
「実際に落ちたんじゃなくて、映画とかテレビとかでさ」
 見上げると雪が三次元の中を降ってくるのが分かる。高いビルに挟まれて自分のいる場所がテレビの中でもスクリーンでもなく、厚みのある現実の世界だと。視界の端にはさっきまで上っていた高層タワー。
「空から落ちても、地面に激突するなんて知らなかった。分かってなかった。ただ、空から落ちたら死んじゃうんだ。空をどこまでも落ち続けて、そして死ぬ。死ぬってこともちゃんと分かってなかったからさ、ただ怖かったな」
「怖い…」
「ああ」
 思い出し、声を上げる。
「お前と会ったばっかりの頃、お前デュエルに負けたらこの世界から消滅するとか言ってただろ。あの頃、お前とはぶつかってばっかだったから、けんか腰で訳分かんねーこと言うなとか喚いたけど、そういう恐怖感?思い出したよなあ、お前の科白に」
「…君の秘密とは?」
「恐がりだったってこと」
 アストラルを見上げ、遊馬は苦笑した。
「空から落ちる夢見て泣くくらい怖かった」
「君が泣いた…」
「昔、な」
 昔の話だよ、昔の、と遊馬は繰り返す。
「その後、父ちゃんと海外の山とか登ってさあ、空の下には雲に隠れててもちゃんと地面があるし、まあ空から落ちたら死んじゃうだろうけど、ちゃんと墜落することも分かったしさ」
 駅が近づく。遊馬は時計を見て、発車時刻が近いことを知った。目の前の信号は赤だ。
「いっか、一本くらい」
 信号が変わる前にモノレールは駅に滑り込んだ。
「いいさ」
 遊馬は呟く。
 駅に入る前、アストラルが指さした。肩にうっすらと雪が積もっている。遊馬は肩を払い、ありがとな、と呟いた。
 駅のホームは明かりが点いているのに存外暗く感じる。ホームを抜けた向こうはまるで明るい中に雪が降っているようで、昼と夕の景色が混同して入れ替わったような不思議な心地だった。遊馬がくしゃみをすると、大丈夫か、と心の中に声が響く。
「うん」
 洟をすすり上げ遊馬は返事をする。
「帰ったらココア飲む」
「さっきも飲んでいた」
「じゃあ別の」
 モノレールが風と雪を巻き上げながら到着する。暖房の効いた暖かな車内に踏み込んだ途端、またくしゃみが出た。くしゃみを連発した後で席に座るのは気が引けて、ドアの側に立っていた。
 車窓から外を眺める。そうだ、立ったままの方がアストラルと並んでいられる。通り過ぎるライフ・イズ・カーニヴァルの広告。いつかも通った路線。
 窓のすぐ側の雪は流れるが、遠くへ焦点を合わせれば、ビルの谷に落ちる、降る、雪。
 さっき、オレ思い出したよ、エレベーターの中で、落ちる感覚、雪の中を墜落する感覚。
 遊馬が心の中で呟くと、返事も心の中に響く。
 現実の記憶ではないのに?
 ああ、と視線を合わせる。
 本当のことじゃないのに。
 アストラルの手が近づいて遊馬の手を握るふりをする。空飛ぶお前が掴んでいてくれるから大丈夫、ってことか?
 遊馬は軽く微笑んで、手を繋ぐ、ふり、ではなく本当にその手を繋ぐつもりでアストラルの手を包み込んだ。






2011.12.11