Over the Rain




 本当に遊馬の機嫌が悪いとき、それはいつもの不機嫌そうな表情でも諦念でもなく本当に表情がなくなってしまう。死体のように。転がる瓦礫のように。浜辺に打ち上げられた濡れた石のように。
 今夜は。
 月が食われる、と遊馬は言った。この星の影が月を食っちゃうんだ。
「いつもの白い光を食べちゃってさあ、冷たい満月が」
 パーフェクトみたいな丸い月がさ、と呟き遊馬はこの数時間何度空を見上げただろう。
 一面に蔓延る雲が月蝕の光景を隠していた。遊馬の頬を雨粒が打つ。冷たい水の雫が頬から首筋に流れる。遊馬は表情を消す。
 街には明かり一つない。天体ショーを邪魔する人工の光は全て96が破壊し尽くした。準備は万端、だったのだ。一番高いビルの上で、ベンダーを蹴っ飛ばして取り出したあたたかいコーヒーの缶だってその手に持って待機していたのに。
 遊馬はビルの屋上の縁に座り、無表情を天に向けていた。瞼を閉じ、それが雨粒に打たれるままにまかせる。
「オレは」
 遊馬が低く呟いた。
「お前も気に入ると思ったぜ」
「オレが?」
 遊馬は両手を離し、何もない背後に身体を傾がせる。
「食われた赤い月なんて、オレたちみたいだろ」
「オレは食われはしない」
 96が答えると、ふ、と笑った遊馬の身体がそのまま宙に消える。
 溢れるように飛び出した触手が中空で遊馬の身体をキャッチした。遊馬は仰向けに触手に抱かれたまま、やる気のなさそうに笑った。
「そうだな、食われるのはオレの方だ」
 ブラック・ミストの手が遊馬の身体を抱き、宙を飛ぶ。遊馬は目を開けて地上の暗闇も天の闇の境もなく自分の魂が泳ぐのを感じる。
 湿った雲の海を抜けた。遊馬はブラック・ミストの掌の上に立ち上がり、中天を見上げた。
 赤い月が見下ろしている。影の中で赤い熾きのように静かに燃やされ蝕まれた月が。周囲の星々は一段と冴え渡り冷たい光を落とす中、月だけがその異様な溶けるような赤い光を。
「遊馬」
 呼ぶと、遊馬は中空に浮いた96に向かって飛びかかるように抱きついた。
「…ッ馬鹿め、落ちるぞ!」
「96!」
 遊馬は96の首にかじりつく。その頬にキスの雨を降らせると、96は唇で触れたいらしい、なんとか自分の腕で遊馬を支えようとしたが四苦八苦して結局二人ともブラック・ミストの掌の上に落ち着いてからようやくキスを交わした。遊馬は珍しく自分から求めて96を離さない。
「やばい」
 笑い混じりの遊馬の声が96の耳を震わす。
「惚れ直した」
 再び月が満ちてゆくのには目もくれず、遊馬はキスを繰り返した。96は目の端に元の光を取り戻す月を眺めながら、ぎゅっとその手で遊馬の背を抱きしめた。






2011.12.10 月蝕、当方は小雨模様だった故に。