真昼の断片




 指先を口の中に含む。舌先で傷口を撫でると、真っ直ぐ切り裂かれたそれを視覚のように感じることができる。アストラルは目を瞑る。視覚に頼らず、視覚以上のそれを感じ取るために。真昼の保健室の片隅で、糊の利いた真っ白なシーツの上、腰掛け。音はなにも聞こえない。光がどんな音も塗りつぶしてしまい、保健室は穏やかな静けさに満ちている。戸棚を漁り、消毒液や包帯を探す音さえも聞こえない。遊馬の気配は傷口の味と同じ感触で肌に触れた。鋭利な刃でつけた傷は確かに、その指の腹を真っ直ぐに切り裂いた、浅くはないけれども、血はもう止まってしまったのではないか。切り裂いてすぐ、遊馬が舐め取ったから。
 アストラル、と呼ぶ声が陽光のように頬に降って、アストラルは静かに瞼を開く。目の前には遊馬が立っていて、彼の淡い影が自分を覆っている。
「指」
 遊馬は言った。アストラルは指先をくわえたまま首を横に振った。遊馬はベッドの上に手の中のものを置くと、両手で掴んでアストラルの指を引き抜いた。唾液がぽとりとシャツの胸元に落ちた。
 小さな回転椅子を持って来て正面に座った遊馬は消毒液を含ませた脱脂綿で傷口を軽く拭い、包帯を巻く。加減を知らないから、巻き付けるそれは少し強く、また巻きすぎだった。指が動かせないほどだ。
 不格好なリボン形に包帯の端を結ばれる。アストラルはそれを口元に近づけ、そっと唇で触れる。視覚以上の視覚。消毒液の匂い。包帯の乾いた感触。
 キィキィと音を鳴らして軋ませて遊馬は椅子を回転させる。アストラルは包帯を巻かれたばかりの手を伸ばした。回転する遊馬の頬に、さらり、さらりと包帯の指先が掠める。遊馬の視線は自分を捉えては掠め、通り過ぎる。
 アストラルはぱたりと背中からベッドに倒れた。家庭科教室の喧噪から逃れた今、軽い疲労が彼を襲っていた。それにこの穏やかな静寂。遊馬が傍にいる安堵。
「アストラル…?」
 遊馬が呼ぶ。アストラルは包帯を巻いた手を伸ばす。撫でるように遊馬の手は触れた。
 衣擦れの音。隣に倒れ込む体温と気配。軽く手を繋ぐ。額を寄せる。触れ合うのは頬であってほしい。キスをしようとすると遊馬は照れたが、頬へのキス、触れ合いはその表情を柔らかくする。遊馬から触れるキスはまず額に降り、それから唇が軽く押し当てられた。
 遠くからざわめきが蘇る。世界が静けさを取り囲む遠景として。昼休みのざわめき。校内放送。廊下を駆ける足音。そしてすぐ傍に遊馬の吐息。手の中で彼の血流を。耳をすまし心臓の鼓動を。アストラル、と自分を呼ぶ声を。
「ゆうま、ゆうま…」
 呼ぶ。応える。抱擁とぬくもりと。また波のような静寂、遠いチャイム。
 アストラルは瞼を閉じる。
「ゆうま」






2011.11.31