アンノウン・テイル




 昔、という表現を使うには自分の年齢は若すぎるのだろうけど、96にとってこの肌が黒くなる前、この模様が彫り込まれる前、ピアスが空けられる前のことは全て昔のことだった。
 昔々、ワンスアポンアタイム、賑やかな街の喧騒から隔絶された広い広い清潔なお屋敷に双子の子どもが住んでいました。子ども達は白い肌に金の瞳、鏡写しのようにそっくりで、お互いもお互いを見分ける術はありませんでした。それなのに、嗚呼それなのに、二人は全く違ってしまったのです。
 兄と呼ばれる彼は非常に優秀な子どもでした。口から出るのは決して間違いのない美しい言葉。彼の清潔な掌と同じく、皆がその言葉に触れたがり熱心に耳を傾けました。弟と呼ばれる彼もまた本来は清潔な掌の持ち主でした。しかし皆は握手をするとなるといつも兄の手を求めるのでした。兄の手は清潔な上に柔らかく、静かに触れては風のように去るのでした。弟は握手をした相手の手をしっかり握りました。なんなら相手にもっと触れていてほしかったし側にいてほしかったからそうしたのでした。しかし弟の握手は痛いと皆から静かに敬遠されるのでした。
 皆が愛しているのは兄なのだと、一年ごとに、いえ季節ごとに、いいえ一ヶ月、一日、それどころか一秒ごとに弟は強く感じるのでした。この顔はそっくりなのに。肌もひんやりと触り心地がいいのに。同じ瞳の色をしているのに。同じ声で歌うことができるのに。何が違うのだろう。器が違うと人々は言いましたが、弟の見る限りまったくそっくりの器なのです。ならば違うのはその中に入っているものなのだ。心が、魂が違うのだ。
 昔々、ワンスアポンアタイム、96はそのことを悲しみ泣いたものだった。かつて自分とアストラルは器どころか中身だってそっくり同じだと思っていた。互いの瞳を見れば何を言いたいのかが分かった。二人だけに通じる言語を持っていた。思考は混じり合い、感情は常に交感され、二人という意識さえなかった。アストラルと自分は溶け合ったまったく一つの存在だった。
 昔の話だ。別々の存在であることくらい疾うに理解している。引きずる思い出が蘇ることのないように、肌を焼き、アイデンティティを刻み込み、石で飾った。もう鏡を見ても間違えようがない。目の前には自分がいる。96は姿見の前に裸身を晒す。誰も自分の手を握らなくても、自分が相手の首根っこを捕まえればもう放すことはない。自分から視線を逸らさせることも。命の限り忘れられないようにしてやる。命、の、ある限り…。
 血まみれの服は浴室のタイルの上でまだシャワーに打たれている。96は右手のナイフの雫を払った。この身体を汚す血や汗や精液を洗い流すのと一緒に、べったり赤く濡れたそれも清めていた。
「あ」
 汚す、って思ったな、今。96は顔をしかめる。今更穢れを気にするような身体ではない。しかしねっとりとまとわりつく不快感は洗い流さなければ。俺はこの身体を愛する。俺の身体、これが俺の唯一の所有物。刺青はしっかり肌に馴染み、官能的な有色の肌を彩る。闇の中のターコイズ。これを彩る赤があるとすれば、それは眉間から切り裂くように走ったこの二本の流線の他ない。だから、血は洗い流すのだ。
 96は絨毯に染みを作りながらゆっくりとベッドまで歩く。そして真っ赤に染まったシーツを引きずり下ろす剥き出しのマットの上に横になった。
 ノックの音がする。鍵はしていないが、誰も入ってくることのない部屋だ。ましてノックをする者なんて。しかしノックの音は続いた。そして自分の名を呼ぶ声。声の聞こえる前から誰かは分かっていた。固く瞼を閉じ、息を吐く。
 ノックが止み、躊躇いがちに扉の開く音。あまりに静かなので息を呑む音も聞こえた。
「96…」
 声が近づく。96は目をつむったままナイフを突きつける。足音が止んだ。片目を開くとアストラルがそこに立っている。張り詰めた金色の瞳が自分を見下ろしている。
「血が…」
 呟きが漏れたが、それが96のものでないことはまだしっとりと濡れた清潔な裸身を見れば分かることだった。アストラルは振り向き、開きっぱなしのドアの向こう、タイルの上に丸太のように転がる足を見た。そうだ丸太のように転がって、もう動かない足。
「お前が…」
「さあ」
 さあどうするんだアストラル、優秀な兄さん。昔々、兄は優秀な者としてアストラルの名前を与えられました。清潔な白い肌、星空を震わすような美しい声、誰もがその姿に言葉に跪き忠誠を誓ったのでした。アストラルの為すことこそ善であり、成すことこそ正義なのです。さあどうするアストラル、殺人という原初の悪を目の前に断罪するか、悲鳴を上げるか?
 アストラルの白い手が伸びる。そうだヤツはこうやって、このままオレの首を絞めたっていい、それさえ許されている。
 しかしその手は96がナイフを握った手を柔らかく、しかししっかりと包み込んだ。96は両目を開く。アストラルは刃を自分の唇に押し当て、表情のない美しい顔で96を見下ろした。右手は左手に、左手は右手に掴まれる。足の間に膝が割り込む。96が声を上げることもできないまま、アストラルは96の黒い身体を組み敷く。
「96」
 かすかに唇が動いた。そこから漏れる囁きは、他の人間には意味不明な音の連なりに聞こえただろう。しかし96は違った。アストラルの囁く音には意味があった。その言葉を96は知っていた。昔々、ワンスアポンアタイム、兄と弟は二人だけの言語で話し思考を交わらせ感情を交感していたのだ…。 
 どうすればいい?、とアストラルは囁く。細かく切り刻んで捨てに行こうか、森の中に。それとも川に流してしまおうか。トランクに詰めて車に載せ、遠くへ運ぼうか?私はお前が決めたようにしよう。私とお前が決めたとおりに…。
 96の手が震える。ナイフを掴んでいられない。とうとうそれは床に落ち、絨毯に抱きとめられる。
 金色の瞳が見交わし合う中に宇宙は、世界は存在する。その中で96は懐かしい言葉を、昔々の言葉を舌に載せる。縺れてしまいそうな舌で、一言一言、オレの思うとおりにするよ、オレとお前の思うとおりに、と。
 色の違う皮膚、アイデンティティを異にした刺青、しかし額を重ねれば目の前にあるのはかつて、昔々見つめたのと変わらない金色の瞳。声が溶ける、言葉が溶ける。瞼を閉じれば、器からこぼれだした中身も溶け合って白と黒の二つの器を正体がなくなるほど満たす。キスをすればもう言葉にすることも、考えることさえ必要ない。
 さあ、どこへ行こう。
 荷物が死体だけだなんて。
 ではナイフと、それから清潔なシーツ、あとは溶け合うように繋ぐ手があれば十分。
 昔々、ワンスアポンアタイム、街の喧騒を離れた大きな屋敷に双子の少年が住んでいました。住んでいました…。
 昔々のお話です。






2011.11.24 ニナさんのリクエスト「人間化パロで96アス双子」