失楽のユビキタス 11




 遊馬の声が聞こえる。
 遊馬がオレを呼ぶ声。笑い声。歌う声。
 オレは手を伸ばす。そこに遊馬はいる。そこに遊馬はいない。
 オレは永遠の中を存在する。オレには時間という概念も、生も死も存在しない。記憶は過去未来と区別されない。思い出は現実と変わらない。そこには遊馬がいる。火柱と化した都市の只中に。冷たい冬のホテルに。海を行く船の上に。永遠の夕焼けの中に。羽毛に包まれた巣に。砂漠の上に。半分に割れた卵の殻の中。オレの腹の中。どこにでもいる。時々オレと目を合わせ、笑う、歌う、声を上げる。オレたちは交わる。遊馬の目が急に潤む。遊馬はオレの名前を呼ぼうとする。オレは耳を塞ぐ。
 風のような音が渦巻いている。星の震える音。銀河が互いに引き合い移動する冗長な音楽。
 どこまでも広がる闇、広大な牢獄、この宇宙。
 オレは瞼を開く。
 長い長い暇潰しだ。オレはどこまで語っただろうか。どんな遊馬を語っただろうか。オレは遊馬の肩を掴んで抱き寄せた。愛していると言った。それから、何があったろう。次はどんな永遠が待ち受けているだろう。どんな遊馬に会えるだろう。どんな物語をオレは語るのだろう。
 時のないこの世界で、遊馬がいるのも永遠なら、遊馬がいないのも永遠だ。オレは遊馬を失い続ける。
 オレは膝を抱える。何も考えたくない。光を目指すのも面倒だ。
 何も見たくない、思い出したくない。
 遊馬はここにいるはずなのに、いない。
 星々の上げる低い唸り声が消える。何か柔らかなような肌触り。暗黒物質がオレを包み込む。そこではオレには聞こえない歌が歌われている。オレに見えない力が好き勝手に遊んでいる。オレは膝を抱えたまま瞼を閉じる。そこで眠りでもない無思考の中に落ちる。穏やかに、静かに、際限なく。

 誰かがオレを呼んでいる。オレの名前を呼んでいる。しかしその声は聞こえない。
 オレは瞼を開けるが何も見えない。その代わり全身で感じ取る。オレの腹の奥、あつい熱を持った赤い光。それがオレを呼んでいる。今や存在さえ放棄しようとしているオレの身体がバラバラにならないように重力核のようにオレを引き寄せ、繋いでいる。オレを呼んでいる。
 今度こそ本当に瞼を開く。
 混沌とした暗闇が光に変わる。オレの周囲を取り囲むように百枚のカードが浮遊している。その光によってオレは今自分のいる宇宙がどのような姿をしているのか見ることができた。
 温度が失われつつある。全ては均衡に、平坦に帰そうとしている。星も銀河も互いに引き合う力を少しずつ手放し、繋がりを失った星が無為に闇を漂う。
 この永遠の牢獄にも終わる時が来たのだ。アストラル世界、そしてもう一つの世界とも断絶され孤独に彷徨う宇宙の末路の姿だ。
 なにも残せはしなかった。それどころか創り出すことさえ。
 これで終わりだ。破壊の後の終局。全てが失われた空虚。
 唇を歪めて笑う。それさえ何年ぶり、何万年ぶりの表情だろう。
 のっぺりとした無になるまで、せいぜい嘲笑って辞世の言葉でも残してやるか、と思った時、オレは自分以外の視線に気づいた。
 九十九体の視線。
 ナンバーズたちが姿を現し、オレを見ている。瞳のあるものもないものも、皆一様にオレを見ている。オレはその視線を全身に感じる。気づくとブラック・ミストが掌にオレの身体を抱えている。
 オレはブラック・ミストの掌の上に立ち上がる。ナンバーズたちが道を開く。その先にオレは見る。残った最後の恒星。そのまばゆい光。オレは軽く足で蹴り、宇宙へその身を投げ出す。光を目指して飛ぶ。やがてこの肌に太陽の熱が感じられるようになる。星々が歌を歌っている。微かな歌だ。その一つは懐かしい永遠の歌声、潮騒。
 青い星目がけてオレは下りる。大気の膜に包まれ、雲を抜けると、あの懐かしい音が、かつて永遠のように聞いた波の音がオレの耳をくすぐる。
 そこには海しかなかった。まだ幼い星。産まれて何億年だろうか。表面にはたっぷりと水を湛えたものの、陸地はまだ一欠片も姿を見せない。勿論生物の姿もない。
 生まれたての、なにもない星。
 オレは振り向く。ナンバーズたちがオレを見守っている。オレはそっと腹に手をやった。
 この身体に残った最後の遊馬。掌の上のわずかなゲル状の雫となったそれは、かつて遊馬だったもので遊馬がオレに残してくれたもので、オレと遊馬があの地球で全てを共にし交わり合った最後の証拠だった。
 掌をそっと傾けると、雫は熱い海の中に落ちた。水音は小さく儚く、しかしオレの耳には確実に届いて、オレをちょっと笑わせた。これが最後だと。
 熱い風が吹く。カードとなったナンバーズたちが青い空を舞う。
 オレは笑い、両手を広げ大声を発した。
「行け! どこへでも行くがいい!」
 あるものはマグマとなって海底へもぐり、あるものは凍てつく風に乗って極で氷と混じり合う。雷電となって雲を駆けるもの、オーロラとなって空を包むもの、虹となって海と空を繋ぐもの…、それぞれの姿をオレは全て見届けた。気づけばブラック・ミストさえその姿を消していた。闇の中へ、あるいは深い海溝の底へ…?
 オレは独りになる。
 しかし晴れ晴れした気分だった。空は快晴で、海の波は最初の生命の鼓動に揺れている。そう、熱い海に落ちた遊馬は生命としてその中で息づき始めていた。
 オレは腕を組み、ゆったりと空中を漂った。
 もう待つのは慣れていた。今更見守ることなど苦痛ではない。あと四十億年ばかり待てばいいだけの話だ。

 オレに眠りは必要ない。オレはこの星の歴史を一秒漏らさず見守り続ける。
 遊馬の細胞を海に落としてから二十四億年が経つころ、ようやく生命の形状が変化する。核を持った生物、多細胞の生物が生まれ、海中を漂う。オレはあくびをしながらそれを眺める。陸地が生まれても奴らはそこに登る能力を持たない。まったく子育てには時間がかかる。
 更に数億年も経つと生命は様々な姿を取るようになり、ある時期から爆発的にその種類を増やす。オレはその中に、かつて解放したナンバーズたちの面影をいくつも見つけた。先んじて陸上に進出した植物を追いかけるように、奴らは海から顔を上げ陸を目指す。その最初の一歩に、オレは勇気というものを見る。例えばデュエルの最中奴らが発揮した力のような。
 それでも人類が生まれるまではまだ些かの時間を要する。地球の覇権は様々な種族の生命によって争われ、栄えては滅び土と還り、また新たな命が恐る恐る顔を出す。
 猿から分化し、二足歩行を始め、道具を使うようになる生き物の登場する頃、オレはもうほとんど自分の身体を保つのが難しくなっている。肉体はかつて遊馬の抱いたような弾力あるものではなく、黒い霧の塊だった。なんとか人らしい輪郭は保っているが、宇宙が引き合い繋がり合う力をなくしつつあるのを、オレはこの身体に嫌というほど感じる。
 しかしオレの心配を余所に、人類は驚くべきスピードで進化する。それは今までのんびりと待ち続けた俺からすれば秒単位の出来事にも近かった。
 ヒトは言葉を獲得し、文化を創り、文明を形成し始める。
 オレは世界中を飛び回る。絵画に描かれ、歌で語り継がれるものの中にもナンバーズの姿はある。オレたちの力はこの星に満ちている。今こそ目を覚ませ、遊馬。ここはお前の星だ。お前のための世界だ。
 そしてある大陸の、熱帯雨林の深い緑の奥にオレはとうとうその姿を見つけ出す。
 遊馬は皇の子として生まれた。その土地を統べる皇として、天体を統べる神官として。
 それは遊馬そっくりだった。見間違えようはずもない。あの赤い瞳。あの声。
 オレは遊馬に近づく。しかし遊馬の目はオレを捉えることができない。オレの姿はもう遊馬の目にも映らないほど薄くなってしまっている。オレは遊馬の夢に潜り込み、何度も何度も遊馬を呼んだ。それでも遊馬はオレの正体に気づかない。遊馬にとってオレは闇としか映らない。
 真円の月が高く昇る夜、皇を中心とした神官たちが神殿に集まり祈りを捧げている。オレは上空からそれを見下ろす。
 オレはもう地に影さえ落とすことができない。
 月の光は眩しく清かだ。アイツのことを思い出す。オレとは対照的に光を孕んだ、あの姿。混じりもののない純水のような身体。
 アストラル世界の使者、ナンバーズのオリジナル、アストラル。
 かつてオレは自分の奥底にその姿を幽閉した。いつしかアストラルは呑み込まれ、オレの中で存在も感知できないほどになっていた。
 しかし本当にそうだったのだろうか。
 オレは手を掲げる。地の底に静かに横たわる青い水。空中を漂う、雨期を目の前にした細かな水の粒。それらをイメージすると、オレの黒い霧の中から一滴の雫が生まれる。それはオレの両手の中でくるくる回転しながら次第にその大きさを増す。本物の水ではない。オレの中から抽出された、本来この世界のものではない物質。今やナンバーズの力としてこの惑星に染みこんだ力だ。
 海のように青く輝く球の中から小さな手が伸びる。そうだ。この肉体、この四肢。顔の形も、指の先までオレはそれをどう創ればいいか分かっている。
 ほっそりとした小さな身体がオレの目の前に浮いている。その瞼がゆっくりと開き、金色の両眼がオレを見据える。
 自然と笑みが浮かんだ。皮肉の笑みだ。しかし内心は愉快と不愉快と喜びと皮肉が一緒くたになって、もう区別が付けられなかった。
 オレは目の前に生まれたそれに向かって語りかけた。
「お前の名はアストラル」
 金色の瞳は声に呼応するかのように空を見上げた。そこには月が輝いている。
「お前にこの世界の未来を託す使命を与える」
 そいつには…“アストラル”にはもうオレの姿は見えていなかった。
 実体をなくし意識体としてのみの存在となったオレはその使命を、アストラルに語り続けた。







2011.12.4