失楽のユビキタス 10




 その夕景は永遠だった。始まりはいつとも知れず、終わりは決して訪れない。砂州には穏やかな波が打ち寄せ、終わりのない歌のように囁きかける。
「く――ろ――――」
 波間から顔を出した遊馬が手を振る。手に輝くものを掴んでいる。オレは遊馬のところまで飛び、彼が自慢げに掲げるそれを見た。幾欠けかの鉱物が握られている。その大きさと比べて驚くほどの反射率だった。遠い砂州にいるオレにさえ夕陽を反射する輝きが見えたのだ。
「みつけた! きれいだろお!」
「さっきお前が見つけたものより小さいな」
 オレがそう言うと遊馬はふくれっ面になり、オレを睨む。だからオレは笑ってやる。
「だが、こちらが美しい」
「そうだ、きれえだ」
「分かるか遊馬、カットされた面が多いのだ」
「きらきらが、おおいのだ」
「そうだ」
「うつくしいのだ!」
 この星に唯一元から存在していた生命、あの砂の塊は岩を好んで食べ、鉱物の結晶は吐き出す習性がある。深い海底にはそれらがごろごろと転がっている。浅いところでその身を輝かすのはほんの一部で、光の届かない深みには更なる数が存在した。そこまで潜り、より美しい結晶を、より大きな結晶を持ち帰るのは遊馬の楽しみだった。
 持って帰れるか、と尋ねると遊馬はそれを口に含んで、また水に潜った。オレは水面の上から遊馬の泳ぐ影を追って飛ぶ。遊馬には泳ぎの才能があり、またオレが遺伝子を弄ったせいかそれともこの星の水を飲んで育ったからか、ほとんど息継ぎをせず長い距離を泳ぐことができる。
 砂州には遊馬が一足早く到着し、かった、かった、と声を上げる。
「かったびんぐー」
 オレはそんな言葉は教えていないのに遊馬は時々そんな言い方をする。オレは記憶の中の遊馬より成長してしまった遊馬の前に浮かび、頭を撫でて褒める。遊馬は得意気に砂州の上、宝石を並べる。
 永遠の夕景の砂州。波と、穏やかな風の音の他、声はオレのそれと遊馬の歌声しか存在しない。オレは遊馬を遊馬以外と分ける唯一の存在であり、親であり、教師であり、つがいの片割れだ。遊馬はオレから言葉を学び、それ故にオリジナルであった遊馬とは随分違う喋り方をするようになった。オレのこともまだ「きゅうじゅうろく」と発音することができない。が、もっと言葉を覚えれば、いつかは元の遊馬のように喋るだろう。ここには無限の時間がある。オレと遊馬のための、誰にも邪魔をされない無限の時間が。そしてオレたちには時間の概念がない。さっき、も、数時間前も数年前も同じことだ。
 遊馬は水を飲み、泳ぎ、歌い、肉体に疲労を感じればオレの作った影の中で眠る。
 つがいとしての交わりは?
 遊馬に生殖能力はなかった。しかしオレはその真似事を教えた。唇を触れ合わせ、元より着る服などない裸の肉体を触れ合わせる。強く抱きしめる。優しく抱きしめる。触手は使わない。この手で、この唇で味わう。
 砂の上の交わり、穏やかな眠り。また目覚めては水を飲む。
 繰り返し、繰り返し。
 時のない世界で繰り返し、繰り返し、繰り返し。
 遊馬はいつまで経っても元の遊馬のようには喋らないが、いつかはそんな時が来るのだろう?
 繰り返す、繰り返す、繰り返す。
 燃える夕焼けの中で繰り返し続ける。
 だが、ある時――それがこの星に辿り着いて、遊馬を産んでどれほど経った時のことかは分からない――ぞっとする光景が広がる。背後の、永遠の夜の世界から冷たい海流がどっと流れ込んだ。それまでも循環はあったが、目の前で起きたそれは余りに突発的で大規模なものだった。
 真っ青な海が夜の世界から押し寄せてきたのだ。
 それは夕焼けに染まった海と混じり合い、濃い紫色の水面がどんどん広がってゆく。
 オレたちは砂州の上にいて、それを呆然と見つめていた。
「く――――――ろ――――――!」
 遊馬が驚きの余り、声の限りにオレの名を叫ぶ。それさえ歌のように紫色の海に響く。
 大きく波が立ち、砂州に並べた宝石を押し流してゆく。遊馬とオレは為す術もなくその様子を眺める。
 砂州は大部分が流されてしまったが、それでも波の勢いは止まらなかった。砂州の縁に膝をつき海を覗き込んでいた遊馬がまた大声を上げた。
「ほら! ほら、あれ! きらきらとうつくしい!」
 オレは遊馬の隣で海を覗き込み、それを見る。
 砂の生物たちが一斉に崩壊していた。いつもは崩壊すると砂が散り砂州の一部となるだけだった。しかし今崩壊する生物たちは砂の他に、消化しきれなかった岩石でも鉱物の結晶でもない、なにかを吐き出していた。
 水の中でそれは金色の霧のように光っていた。オレは触手を伸ばすより早く、それを見ただけでそれが生物たちの卵なのだと悟った。オレには分かったのだ。今まで何度も遊馬の卵を、遊馬を産んできたオレには。
 数をもって数えられるような量ではない。海流はそれを真昼の世界へ、より遠くへ押し流そうとする。それこそが、この惑星の生命の循環なのだ。
 隣では遊馬が両手のひらに紫色の水を掬い上げていた。
 止める間もなかった。遊馬はそれを一気に飲み干した。
「遊馬!」
「なに」
「何故飲んだ!」
「おなかすいた」
 無邪気な顔で笑う遊馬に、オレは怒る気になれない。
 ようやく波が収まり始める。押し流された砂州の代わりに、海流によって寄せられたまた新しい砂州が頭を出すところもあったが、またゆっくり時間をかけて以前のような姿を取り戻すのだろう。どれほどかかろうとも構わない。ここではゆっくり行われるのはオレと遊馬の営みだけで、新しい砂州がいつできようが、それはいつでも遊馬の目覚めた次の永遠の中だ。
 海はまだ紫色をしている。オレと遊馬はすっかり狭くなった砂州の上で抱き合う。
「くぅーろぉ――」
 遊馬が甘えた声を出す。オレは遊馬の頭を抱き、遊馬がオレの身体に舌を這わせるのに任せる。遊馬は鼻にかかる声で何度もオレを呼びオレの身体中を舐めていた。
 ガリッと音がした。
 感じたことのない感触にオレは驚く。遊馬がオレの肩口のストーンを噛んでいる。
「遊馬…?」
「くー…く…く……うー?」
 遊馬は戸惑ったように顔をめちゃくちゃにしながら、懸命にオレの名前を呼ぼうとする。
「くーくー…きゅーう――う――ろぉ――」
「遊馬……」
「おなか、すいた」
 表情は途端に泣き出しそうに崩れた。そうだ、これは泣き顔だった。人間の、泣き顔。
「おなかがすいた、おなか、すいた、きゅ…うぅ…ろ……」
「水を…飲むか?」
 しかし遊馬は強く首を振り、オレに唇をぶつける。
「のむ? たべる? たべたい、たべたい」
 キスと一緒に遊馬は言葉を繰り返す。おなかすいた、たべたい、たべたい…。オレの名前を呼びながら繰り返す。たべたい、たべたい…。
 ああ! オレは遊馬を抱きしめる。遊馬は生物の卵を、あの金色の霧も水と一緒に飲んでしまったのだ。岩石を食べ砂にするあの生物が内側から遊馬の衝動を突き動かしている。空腹。生まれたての生命が己が存在を維持するために欲し、泣き喚いている。
「きゅーうぅーろぉ――」
 しかしそれさえオレの耳には歌のように届くのだ。
「いいぞ、遊馬」
 岩なんか食わせるものか。遊馬はオレのものだ。オレたちはつがいだ。オレたちはこの世界にたった二人きりの唯一なのだ。
 遊馬を誘う。遊馬は掌でオレの身体を撫で、脇腹に歯を立てる。
 がぶり、と。
 音を立てて遊馬はオレを食べた。感じたのは痛みではなかった。それはかつて地球の人間たちがオレを滅ぼそうと繰り出したどんな科学兵器の威力より、身体を裂くような衝撃。甘く激しい歓喜だった。
 夜のように暗い液体が傷口から滴り落ちる。遊馬は口元をそれで濡らしながらにっこりと笑った。オレも衝撃の中からなんとか笑みを浮かべる。
「きゅう…ゆぅ…ろぉ……」
「遊馬」
「きゅうじゅ…ろ…」
 次の瞬間起こった変化を、オレは詳細に伝えるつもりはない。
 遊馬の細胞は急激に増殖した。いつか、おそらくこの星に辿り着いたばかりのころ、砂の生物がオレの一部を摂取した途端そうなったように。この砂州ほどの大きさにもなって、そして波音一つで砕け、崩れた。
 黒い霧が空を覆った。この永遠の夕焼けを暗く遮り、そして消えた。
 気がついた時には、オレは宇宙空間を漂っていた。背後にはあの地球のように破壊された惑星の残骸が塵となって浮遊していた。それは太陽の光を浴びて、濃いオレンジ色に染まっていた。
 オレはあの惑星を壊したのだ。遊馬のいなくなった星を。
 感じたのは冬の船の上の空気でも、滑り落ちる遊馬の手でもない、新たな喪失だった。オレはまた遊馬を失った。新たな遊馬を。オレの遊馬を。
「遊馬…」
 オレは呟く。
「ゆうま……」
 しかし遊馬のように歌うことはできない。

 ある惑星を住処にする限り、そこに適応した肉体を作ることが不可欠だ。
 今度はオレは焦らなかった。無限の時間があることはこの身に馴染み理解されていた。
 新たに訪れた星もまた、その表面のほとんどを水で覆われていた。海はどこまでも深く、底があるのかも分からない。陸地は塔のようにぽつぽつと海面に頭を突き出していた。ビルのように垂直で、安定した平地などない。
 その星には既に幾種類もの生命が存在した。海で生活する大半のもの。そして塔のように突き出た陸地を根城にする翼を持った生き物たち。鳥類だ。オレはそれらの生活を観察し、卵を産むことを決意する。この星の鳥が産むのと同じくらいの大きさの卵を。
 オレは産卵時期の巣に既にあった卵を投げ棄て、遊馬の命の入った卵をそっと寝かせた。
 遊馬は産まれた。卵の殻を破って、無事産まれた。鳥の脳は大して大きくもなかったので、オレの思念をちょっと送ってやっただけで遊馬を自分たちの子どもと信じ込み餌を与えた。海で魚を捕り、消化したものを遊馬に食べさせる。遊馬はこの星のものでエネルギー補給を行い、成長する。
 オレは遊馬の目の前を漂い、常に話しかけた。遊馬は人間で、オレの片割れなのだと。かつての遊馬は星を一つ統べることができるほどの力を持っていたと。あの日々の思い出をオレは遊馬に語り続けた。
 遊馬は成長し、この星で生きる為の術を覚えた。親鳥の真似をして海へ飛び込み、魚を捕る。翼がない代わりに泳ぐとなれば遊馬は海中では鳥たちに負けない動きをした。相変わらず泳ぎの才能に恵まれている。魚を捕ると、切り立った崖を身一つで登り、巣に腰掛けて食事をする。
 同時に遊馬は言葉や人間としての思考も身につけた。オレたちは会話を交わすことができた。
 ある日のことだ。
「96」
 遊馬は完璧な発音でオレを呼ぶ。
「どうして96はオレのことを『遊馬』と呼ぶんだ?」
「お前が遊馬だからだ」
「でも父ちゃんと母ちゃんはオレのことを『遊馬』って呼ばない」
「…鳥の言葉が分かるのか」
「だってオレは父ちゃんと母ちゃんの子どもだぜ?」
「違う、遊馬はオレと遊馬の子どもだ」
「よく分かんないなあ」
 遊馬は笑い、鳥の声で笑う。
「遊馬、見ろ」
 オレは胸に収めていたナンバーズの姿を遊馬の目の前に現せて見せた。希望皇ホープの勇壮な姿。六枚の翼で空を舞うリバイス・ドラゴン。ヴォルカザウルス、フリーザードン、テラ・バイト…。遊馬を取り囲む異形の獣たち。そしてオレの後ろには分身であるブラック・ミストが控える。
「これら全てオレとお前のものだ、遊馬」
 しかし遊馬は目を丸くし声も出せない。そのきらきらと輝く瞳にナンバーズたちを映して、ただただ驚嘆していた。
 そんな遊馬の様子から気づいておくべきだった。オレは遊馬がこの星で命を落とすことを恐れたばかりに鳥に近づけすぎたのだ。
 遊馬はだんだん鳥の思考をするようになった。鳥の声で喋り、人間の言葉を喋らなくなった。じゃあオレが目の前に現れたらどうするかって? 遊馬はオレを拝むのだ。あらゆる知識を持ち異形の者どもを従えるオレを、遊馬は神と信じていた。それは、今この宇宙において間違ったことではなかったが、しかしオレと遊馬の間ではそんな上下関係など構築されるべきではなかった。かつて遊馬はオレのしもべだったが、今やオレの血肉を分けた片割れなのだ。
 なのに遊馬はオレの前に頭を垂れる。かつてオレが望んだように、オレにかしずき、あがめる。
 オレは塔のように突き出た陸地の頂点で羽毛にくるまれ眠る遊馬をじっと見下ろした。今や遊馬は親鳥以上の年月をこの星で生きていた。その肉体はもう立派な大人のものだ。陸地では羽毛を身に纏い、海の中ではどんな鳥よりも上手く魚を捕った。智恵と力を駆使し、他の種族の鳥や海に存在する脅威から仲間の鳥を守る働きも見せる。遊馬は鳥たちの首長となっていた。
 遊馬はオレから得た知識を他の鳥たちに与えた。断崖のてっぺんに座り、遊馬は語り聞かせる。オレから聞いた話は遊馬の中でアレンジされ、この世界はオレが創ったことにされている。光の届かない深い海の底と、毎日やって来る夜の闇はオレの分身で、自分たちはそれを敬わなければならない、と説く。オレは離れた岩の上から鳥たちに囲まれた遊馬を見守っている。オレが姿を現す岩の上には常に捧げ物が置かれ、魚や美しい貝を供物にすることを、遊馬たちは毎夕、日の沈む時刻に欠かさなかった。オレは夕焼けに輝くそれをやはり黙って見つめた。
 やがて遊馬は歳を取り、長老となる。それでも毎日海に潜ることを欠かさず、自分で食べる魚を自分で捕る。二尾の内、一尾をオレに捧げ、夜の闇に神としてのオレの名を呼んで眠りにつく。
 オレは黙って遊馬を見守り続けた。ある朝、とうとう遊馬が目覚めず、鳥たちが大騒ぎする中、老いた遊馬の身体をオレが腰を下ろし続けた岩の上に運んだ。鳥たちは動かなくなった遊馬の身体の上に山のような貝殻を降らせた。一日中それは続いた。夕陽が沈む頃、岩の上は輝く貝で一杯になり遊馬の身体は見えなくなった。
「ブラック・ミスト」
 久しぶりに呼び出したブラック・ミストの掌の上にオレは身体を横たえた。
「次だ」
 珍しく、オレは眠った。

 眠り、光に向かって飛び、また休む。
 次にオレが見つけ出した星は、生命体が死に絶えた後の星だった。文明の名残が地に埋もれていた。水は地下に潜ってしまい、乾いた砂が表面を覆っている。
 オレは岩陰に根を張り、遊馬を孕む。
 強い身体を持った遊馬。光を食べて生きることができる。オレと会話できるだけの知識を持っている。遊馬の記憶を、オレは腹の中の遊馬に移植する。
 遊馬。
 会いたいんだ、遊馬。
 オレは遊馬を産み落とす。またもやライフをごっそり削られ横たわるオレの横で、人間の二、三歳くらいの肉体を持った遊馬はすぐに立ち上がり歩き出す。それから鼻を鳴らしてなにかを探す。遊馬は本能に導かれるままに砂を掘り、水を探し当てる。湧き出した水を飲んだ遊馬はようやく産声を上げた。それは永遠の夕焼けの中にいた遊馬の歌声に似ていた。オレはホッとして瞼を閉じる。ブラック・ミストがオレの身体を抱え上げ、守る。
 遊馬はしばらくブラック・ミストの周囲で生活していた。そしてオレが目を覚ますと、オレの傍に駆け寄り、抱きついた。
「おまえがオレをうんでくれたんだな」
「そうだ、遊馬」
「オレのなまえは、ゆうま」
「そのとおりだ」
「オレはなにをすればいい?」
「生きるのだ」
 オレはそれだけ言って力が尽きてしまう。ブラック・ミストの腹の中に閉じこもり、膝を抱えて眠りに落ちる。
 オレが眠る間、遊馬は砂の上を旅し続けた。遊馬はありとあらゆる場所に足を運び、オレが与えた以外の知識を取り込んだ。この星の自然が教えてくれるもの、また文明の名残が教えてくれるものもあった。
 遊馬は一年に一度、ブラック・ミストの元へ戻ってきて、オレが目覚めたかどうかを確かめる。しかしオレは眠り続けている。遊馬はまた旅に出る。そしてオレの知らない場所でオレの知らない物語を紡ぐ。

          *

 砂の上を歩く。空は一面曇っていて…砂漠も空も灰色に見える。風のない海をゆく船のように、食べ物を求めてのろのろと歩く。
 本当は空腹など感じてはいない。ただなにか物足りない気持ちだから、それを食べ物に求めてみた。光さえあればことたりる身体は常に軽く、砂漠には浅い足跡だけが残る。長く長くどこまでも。風が吹かないから。帆をだらりと下げたヨットのように、だらだらと。
 遊馬と名前を付けてくれたあの神様を探している。本物の神なのかどうかは知らない。ただ、砂しか残っていないこの星の上で埋もれた石板やコンクリートに残された言葉を理解するに、多分そう名前をつけたらいいのだろうと思った。
 他にも「おとうさん」「おかあさん」などの選択肢があったが、この遊馬にとってしっくりいくのは神様だった。
 赤ん坊の頃から、ずっと彷徨い続けている。もうすぐこの星が太陽の周りをぐるぐる回ること十三周目。赤ん坊の自分をこの砂だらけの星に産み落とし、遊馬と名前をつけ消えていった神様は、その黒い影さえも見つけることができない。
 時々猛烈に喉が渇く。そんな時は砂を深く深く掘って水を探り当てる。頭から突っ込んでがぶがぶ飲み渇きを癒やしたら、首からかけたアルミの水筒に残りをつめてまた歩き出す。やることと言えば歩くこと、水を探して飲むことしかない。遊馬とはそういう生き物だ。
 これは十三年目ってやつで、と遊馬は考える。自分以外の人間と話したことはないのに、頭の中には最初から言葉が詰め込まれていた。多分あの神様はそろそろオレを気に入って顔を出すはずなんだよな。水筒の蓋を開け、残り少ない水を口の中にこぼせば、その一滴一滴が話しかけるような音を立てた。雲の上が暗くなる。砂漠は静かに夜の訪れを受け入れる。遊馬は空っぽの水筒を抱いて砂の窪地にうずくまる。
 オレは真っ黒な影みたいな神様に会いたいけど、夢の中のオレは違う神様に会いたいらしい。オレはそれを神様と同じなんじゃないかと思ってるけど、夢の中のオレはにやにや笑ってそれに答えない。だけど名前は教えてくれた。アストラル。アストラルっていうんだ。砂を深く深く掘り下げて出会った水のような色をしている。光っている。時々雲間から見かける太陽のような眩しい金色の眼をしている。夢の中のオレはそのアストラルが大事で大好きで水筒に入れて持っていこうとする。この夢を見た後は、空っぽの水筒がひどく重い。
 目が覚めると雲に切れ間ができている。紫色の空が見える。太陽は今どこにあるのだろう。瞼の裏にやきついた神様の左目も、同じ金色をしていた。遊馬は砂の坂を上り、空っぽの水筒を抱いて歩き出す。風のない海をゆく船のように、帆をだらりと垂らしたヨットのように、だらだらと、ただ歩くためだけに。歌を聞いたことなどないのに、遊馬は歌うように言う。
「神様、神様、オレがアストラルに会ったみたいに、オレもお前に会いたいよ」

          *

 長い眠りから目覚める。オレの身体を抱いている者がいる。オレの頬に触れているものがいる。
「起きてくれよ」
 と、呼ぶ声がする。
 オレは瞼を開く。そこには十三歳の遊馬がいる。
 ボロ布のような着物を纏い、髪もぼさぼさだが、確かに遊馬だ。
「ゆうま…」
 オレは手を伸ばす。
「おはよう」
 遊馬はオレに微笑み、こう呼びかける。
「アストラル」
 まるで宇宙が砕けたかと思うほど頭が揺れた。
 痛い。痛い痛い痛い。
 今遊馬は何と言った、オレのことをなんと呼んだ。
「会いたかったぜ、アストラル」
 遊馬の潤んだ瞳。これは記憶か。目の前のものか。
 赤い瞳。黒髪と赤い前髪。遊馬。確かに遊馬だ。夕焼けの屋上で初めて出会った時と変わらない。オレはこの肌で、全身で知っている。遊馬の肌、遊馬の匂い、遊馬の気配、遊馬の声。
 その声がアストラルと呼ぶ。このオレを。
 ナンバーズ96である、このオレを。
 オレの全身から触手が姿を現す。オレは遊馬と呼びながら――もうそれを口に出して読んでいるのか胸の中で繰り返しているのかも分からない――遊馬のことだけを考えているはずなのに、触手を制御できない。触手はその全てが遊馬を包み込み、強く抱きしめる。
「遊馬…」
「アストラル…!」
「ゆう…ま……」
「アストラル…ッ!」
 触手の中で遊馬の息が細くなるのを感じる。
 遊馬、遊馬、オレもお前に会いたかった。遊馬…!
 オレだけのお前に…。遊馬、お前はオレのものだったはずなのに!
 骨の砕ける音が響く。皮膚が裂け、肉が千切れる。しかし遊馬は悲鳴を上げない。触手はがむしゃらに遊馬を抱きしめ、呑み込む。
 眩しい日が射した。
 雲の切れ間から強烈な夕陽が射している。
 オレはだらりと投げ出された自分の両手を見る。触手はすっかり消えていた。オレの掌の上にも、砂の上にも、遊馬の姿は肉の一片、血の一滴も残っていなかった。夕陽に照らされ、背後に伸びるオレの影。オレの闇は遊馬の肉体を残らず呑み込んでしまった。
「遊馬」
 空っぽの手の中にオレは呼びかける。
「遊馬…」
 何故、オレのことをアストラルと呼んだんだ。
 オレは立ち上がり砂を蹴る。夕陽を目がけて飛ぶ内、暗い夜の闇に、宇宙の闇にその身を漂わせている。
 何度繰り返せばいい。
 何度失敗すればいい。
 何度お前を産めばお前に会える、遊馬。
 オレの腹の奥にはほんの微かな光しか残されていない。赤い光はもう潰えようとしていた。オレはそっと両手で腹を抱き、瞼を閉じた。だからまたオレの目からこぼれた小さな水滴がオレの周りを飛んでいるのに気づかなかった。






2011.12.3br>