擬似接触




 なあなあお前のそれって何なの触っていい?と言いながら遊馬は既に無遠慮な指先をアストラルの額に近づけていて、それまでもその水色の身体が半透明であることやいつも空中に浮いていることから、いや最初はその存在を幽霊だろうと疑ったことを考えてもその結果は予想され得るべきことだったのに、自分の人差し指が抵抗なくアストラルの額をすり抜けて一瞬消えてしまったことに声を上げて驚いてしまったのだ。
「うわっ!」
 悲鳴と共に指を引き抜く。
 アストラルは目を丸くして遊馬を見つめている。遊馬も黙ってその目を見つめ返し、口を半開きにしたまま自分の手に視線を落とした。そこにはなんの感触も温度も気配も残っていない。
 それっきり触れたことはなかった。触れられないものに対してこの言い方はおかしいかもしれないが。対してアストラルは初めからそれを心得ていたのか、触れられるような仕草をしたことはない。触れられないと分かってその手も指も動く。
 遊馬にだって分かっているのだ。抵抗なく自分の指が突き抜けてしまう瞬間の、あの感触を忘れられない。指先の感触ではない。心の感触だ。
 続いていたため息が消え、アストラルの横顔は静まりかえっている。もう落ち込んでいるのではないことは分かる。瞼も伏せられてはいない。
「アストラル」
 呼ぶだけでは視線しか寄越さないので、こっち来いよ、と付け加えた。
 すっかり深夜だった。時計は長針と短針が重なろうとしていた。
 とても静かだった。それは街も、この屋根裏も、遊馬の心もだ。
 月光の射す窓の下までアストラルは下りてくる。遊馬が座っているので、自分も膝をつくようにして視線の高さを合わせた。
 遊馬は来いと言っただけなのに、アストラルには通じている。遊馬が今アストラルにどこにいてほしかったかを、彼は分かっている。
「触っていい?」
 躊躇いの拭いきれない声で遊馬は言った。それは表情にも表れていた。アストラルはその瞳で真っ直ぐに自分の目の奥まで射貫く。遊馬の眉間にはわずかに皺が寄る。目が不安定な未来を見据えようとして揺れる。
 アストラルが静かにまばたきをした。
「構わない」
 遊馬は止めていた息を吐いた。少し身を乗り出すようにしてアストラルに手を伸ばす。以前のように無遠慮にではなく、掌をそっと伸ばして揃えた指先を近づけた。
 額の飾りのようなもの。描かれた模様のようなもの。その上を、指がすり抜けてしまわないぎりぎりの距離で遊馬はなぞる。指が瞼の上に来ると、アストラルはまた静かなまばたきをした。
 遊馬の指がばらばらとほどける。指の隙間を越して視線が合う。
 アストラルは瞼を閉じた。遊馬は一瞬、息を飲んだ。月光の下、半透明の透けた身体。しかし瞼が閉ざされれば、その瞳を見ることはできない。
 遊馬の身体は知らず知らずの内にアストラルに向かって傾く。遊馬は少し掠れた声で囁く。
「目、開けろよ」
 すると指の向こうでアストラルの瞼は穏やかに開いた。そして見つめる視線は冷たい水のように、遊馬の心に流れ込んでくる。
 遊馬は触れられない相手の身体の上を、まるで触れられるものに、壊れやすいものに細心の注意を払って触れるように指をなぞらせた。
「遊馬」
 呼ぶ声に戸惑いはないが、まるで諭すようでもあった。
「分かってる」
 そう答えて遊馬はちょっと手を離し、アストラルを見た。
 指先には何もない。感触も、体温も。既に知っている。分かっている。
 遊馬はもう一度手を伸ばそうとして思いとどまり、黙り込んだ。また少し手を離す。拳を握り、今度こそ自分のもとへ引き戻す。
「分かってるよ」
 分かってるってば、とわざと大きな声で言って遊馬は身体を反らした。暗い天井を向くと、月光は視界の端をだけ掠める。
「ちょっと好奇心、そんだけ」
「遊馬」
「悪かったよ」
 すると視界の端に、あの長い指が掠め。
 遊馬が顎を引いた時、アストラルの顔は間近にあった。彼はさっきまでの遊馬がそうしていたように身体を前に傾け、手を伸ばしていた。
「その言葉は私の心情を慮ってくれてのことか?」
「おもぱか…?」
 アストラルは遊馬の真似をするように、その指で遊馬の皮膚の上ぎりぎりのところを撫でた。
 もちろん、触れられた感触はない。温度も何も感じない。
 かすかに発光しているのに、その光さえ落ちない。
 遊馬は黙ってアストラルのすることを見ていた。額の上を滑った指が瞼の上でほどけて、指の隙間からアストラルの顔が見える。視線が合う。
「私が不愉快な思いをしたのかと思いやり『悪かった』と言ったのだろう?」
「…よく分かんねーよ」
「遊馬」
 呼ばれたのは初めてではないのに、その時遊馬は胸がくすぐられるような感じを覚えた。
 アストラルが手を引く。遊馬はそれを追うように手を伸ばす。
 二人の指先の間には距離がある。カード一枚分も離れていた距離が1センチにも縮まって、不意に遊馬はその指を伸ばす。
 指は触れることなく、アストラルの掌の向こうへすり抜ける。
 アストラルがわずかに唇を開いた。声は出なかった。しかし、その目はまじまじと自分の掌をすり抜けた遊馬の指を見ていた。
 互いの手が離れる。遊馬は窓の下の革トランクにもたれかかり、ちょっとだけ笑う。
「痛くねえの?」
「ああ」
「痛いとかさあ、困るけどさ」
 それは苦笑になり、遊馬は頬杖で表情を隠す。
「なんか、オレ、今、さびしいかも」
「…さびしいとは『ひとりぼっちでつらい』ことだろう?」
 その言葉にハッとしてアストラルを見るが、当の本人はいつもの冷たい静かな表情のまま変わらない。
「うん…」
 遊馬はアストラルに触れようとした掌で顔を覆う。
「さびしい、だけどさびしいじゃなくて…」
 夜も更けていた。そのまま眠り込もうとした遊馬をアストラルの声が起こし、遊馬は半分目をつむりながらハンモックによじ上った。
 遊馬はすぐに眠り込んだ。だから知る由もなかった。アストラルが眠った自分の瞼の上を、その指先でそっと撫でたことを。
「おやすみ、遊馬」






2011.8.8