失楽のユビキタス 9




「遊馬」
 暗闇の中に呼びかける。
「遊馬」
 遠くで星が光っている。あれに人間がつけた名前をオレは知識として持っているが、もう意味はない。例えば手を伸ばす。オレはあの青く燃える太陽に触れることもできるし、それを握り潰そうと思えば指を鳴らすより簡単だし、オレの中の闇を広げ包み込んで食べてしまうことさえできる。
 茫漠と広がる垣根のない箱庭。果てがない。キリもない。しかし閉じ込められている。オレはこの宇宙の中のどこへでも行ける。どこにでも存在できる。三つの世界を知り、この宇宙のキーとなる地球を掌握し破壊したオレにとって、たとえアストラル世界との接続が永久に断絶されたとしても力は失われたわけではない。
 オレは身体を自在に伸縮させ、宇宙の果てに触れ、太陽を食べ、銀河を吐き出す。どこにでも行ける。何でもできる。オレには無限の空間と無限の時間と、それを好きに扱うことのできる力がある。人間の呼んだ、神、のようなものだ。
 遊馬。
 オレは遊馬を思い出す。遊馬は王の気分だと言った。超がつくほど退屈だと。確かにそうだった。オレは結局、オリジナルであったアストラルと同じ姿をして、この懐かしい闇をあてどもなく彷徨っている。地球の消えた座標に戻り、名前のない闇の中を漂っている。
 地球の破壊はオレの使命であり宿願であり享楽だった。悔いることなど何もない。ただし、オレはそのことによって遊馬も失ってしまった。
 どれほどの時間を漂ったのか分からない。時間という概念はもうオレの中には存在しない。昼もなければ夜もない茫漠とした闇の中でオレは遊馬の記憶だけを繰り返す。遊馬。遊馬。この手の中にはなんでもあるのに。
 なんでもあるじゃねーか!と気づいた時、その科白は遊馬の声となってオレの頭に響いた。オレは自分の腹を見下ろした。闇の中、目をこらすとその奥で仄かに赤く光るものがある。
 遊馬。
 遊馬の残した遺伝子。
 最後の交わりの夜、遊馬は自分から誘った。オレと遊馬の子どもが死んでしまってから一度も行わなかった行為に、それどころか遊馬自身が興味を持たなかった行為に遊馬自身の手が誘ったのだ。この身体の中に感じた遊馬の肉体、熱、生きたものの様々な匂い。全てが蘇る。オレの腹の奥はかすかに、しかしオレが蘇らせた記憶に呼応するように赤く光る。
 オレは宇宙を飛んだ。光を目指して。次の太陽を目指して。次の岸を目指して。
 到着した星は岩だらけで、太陽は青い。オレは砂と岩石の間を探索する。日の照る間は常に熱い風が吹き荒れ、日が沈むと全てが活動を停止したように冷え切った。オレは岩陰に根を張り、卵を産んだ。三つ産んだ卵の内、一つは割れ、二つの中には生命らしきものが宿った。しかしそれらは殻を割って出てくることはできなかった。幾日も、あるいは幾月も待ち、オレはとうとう青い日の光にかざして透けて見える影が既に死んだものだと納得した。オレはそれを、割れてしまわないように岩の割れ目深くに隠し、次の太陽を目指して飛んだ。
 幾つの星で失敗を繰り返しただろう。卵は孵らなかったり、孵っても冬のホテルで抱いたあの赤ん坊のように長い時間は生きなかった。そのたびに喪失を繰り返し、オレは船の上の冷たい風や遊馬の手が滑り落ちていった瞬間を思い出す。遊馬に会いたい。
 星雲のオレンジ色の光を眺めながらオレは遊馬と最初に出会った、ビルの屋上のデュエルを思い出す。オレたちのデュエルにはいつも燃えるような色がまとわりついていた。夕焼け、高い気温と水の匂い。オレは引き寄せられるように一つの星に降りる。
 表面に大気が触れる。それから耳を震わす音。波の音だ。雲を抜けると、そこには燃えるような景色が広がっている。大きな太陽が水平線の彼方に半分身を沈めている。その光が水面を赤く照らしているのだ。真っ赤な夕焼けだった。所々に白く顔を出しているものは陸地と呼ぶには些か心許ない砂州だ。オレはその一つに降り立つ。
 太陽はなかなか沈まないどころか、微動だにしなかった。オレは腕を伸ばして表面を探索し、この星では決して太陽は昇らず沈まないことを知る。そしてオレの降り立ったこの地点は、まあまあ地球に似た住み得る程度の環境だと知る。
 触手を引っ込めたオレは一番大きな砂州の上に腰を下ろし考えた。オレは今までの失敗の経験を活かさねばならない。人間の言葉にも悔しいながら真実と頷けるものがあり、曰く失敗は成功の母である。
 オレは海の中も探索した。この星にも生命は存在していた。それは砂の中に混じって生きていた。丸い砂の塊だ。元々は砂粒ほどの大きさの核が本来の陸地である岩石を食べて成長するらしい。ある程度の大きさになると海の波に揺られて崩壊する。オレが今いる砂州は大きな死骸の山だった。
 ほとんど無機物と呼んでもよさそうなそれは、しかし確かに生命だった。オレが触れると、それさえも浸食して取り込もうとする。実際オレの指先を囓ったそれは急激な成長を果たし、あっという間に崩壊した。
 オレは海の水を分析する。それは地球のもののように塩辛くはない。溶けこんだ物質の性質はかつて知った水とかなり違うようだ。
 腹を決め、オレは砂州に根を張った。そして腹の中で一つの卵を作り出した。殻ではない、膜で包んだだけの卵。遊馬の遺伝子に自分の組織を混合させ、少しずつその性質を変える。この星の大気で呼吸できるように。この海の水を飲むことができるように。ここにも母乳を与える存在はない。新たに生まれてくる遊馬は、この星のもので生きていかなければならない。幸運にも太陽の光、熱エネルギーに不足することはない。表皮からそれを取り込むことができるようにする。それから遊馬の形。遺伝子が、そしてオレが記憶している遊馬の形をもって生まれてくるように。
 オレはその遊馬をある程度の大きさになるまで腹の中で育てる。オレは砂州に根を張ってしまい、胸から下は元の形を保っていなかった。大きな繭のような中で遊馬は育つ。それがどれだけの時間のことかは分からない。ここにもまた時間はない。波は永久に打ち寄せては返し、不動の夕陽が常にあたたかな光を提供する。永遠の夕焼け、永遠の波の音。その中で遊馬は大きくなり、時々瞼を開けては自分の周囲の世界や、母体となったオレをみる。そこに表情はなく、瞼もすぐに閉じてしまう。この遊馬は笑うのだろうか。
 地球での遊馬は十三歳だった。その時の肉体の大きさ、体重、成長の度合いをオレは全身で知っている。腹――と呼ぶには大きすぎる――の中の遊馬が同じ大きさまで成長した時、オレはそれを産むことを決意する。
 待った。まるで永遠のようだった。しかし長くはなかった。オレに時間という概念は既にない。しかし喪失はそこにあった。それを埋める時がいよいよ来たのだ。
 蕾がほどけるように、腹が花弁の形に開いて遊馬の身体をそっと砂州の上に押し流す。その瞬間、オレはまた自分のライフが大きく削られるような消耗を感じる。それまでオレの身体を支えていた触手が消え、オレは身体一つで砂州の上に倒れる。どさり、と砂が耳元で鳴った。
 いつもと変わらぬ波の音だけが繰り返していた。オレは力なく瞼を開く。夕景の砂州の上に一つのシルエットがある。それはやはり横たわっていて動かない。
 また失敗したのか、と中身のなくなった腹が冷えるのを感じる。またあの喪失感なのか。またオレは冬のホテルを、燃える海に落ちる遊馬を思い出すのだろうか。
「あ―――――……」
 声が、聞こえた。オレの声ではなかった。絶望の呻きではなかった。
 それは初めて聞く、否、遠い昔に聞いた?
 歌だ。
 声は歌のように響いた。
「あ――あぁ――――あぁ――――――」
 横たわっていた影が、立ち上がっている。
 二本の足で立ち上がり、両腕を空に伸ばしている。
「あぁ――――あ――おぉ――あ――――」
 歌っている?
 かつて腕に抱いた赤ん坊の産声とは、即ち泣き声だった。呼吸するため、存在を主張するため、一個の生命体として存在を維持するためのあらゆる欲求を伝達するため、泣いていた。
 しかし、今、目の前の存在は。
「あぁ――――――」
 産声で歌っているのだ。
 それはゆっくりと歩いた。砂州の上を自分の足で歩くことができると確かめ、水に触れ自分の手に十本の指がついていることを確かめている。
 それ、はオレを見つける。
 黒く薄暗い膜を通してしか見てこなかったオレを見て、それは笑う。
「あーあーあ――」
 遊馬の顔で。遊馬の声で。
 遊馬…。
「ゆうま……」
 オレは呼び、手を差し伸べる。すると濡れた両手がオレの手や腕を掴み、その感触を確かめる。
「遊馬…」
「うーあぁ――」
「遊馬」
 オレは両手を取り、唇を寄せる。
「お前の名前は遊馬だ」
「う――ゆーゆーゆ――あ――ま――――」
 オレは力を振り絞って身体を起こし、濡れた裸の肉体を抱きしめる。それは懐かしい、オレの全身で確かめたオレの全身で記憶した、あの遊馬の身体そっくりだ。
「ゆぅ――まぁ――」
 ようやく名前が形になった。波の音に合わせて遊馬は繰り返した。ゆーま、が、ゆうま、になり様々なバリエーションを持って呼ばれる。遊馬。遊馬。ゆうま。ゆーま。ゆーまぁー。あぁ――あ――――。
 耳元で遊馬が笑う。遊馬は笑い声さえ歌になる。






2011.12.2