失楽のユビキタス 8 なあ、後悔しただろ。 掠れた重い声が表皮を撫でる。遊馬の腕は優しくオレを抱き、その視線はなおオレの腕の中に注がれていた。 雪が降っている。人間は体温を一定に保つ機能を持っている。遊馬の身体はあたたかい。腕の中のそれはすっかり熱を失って冷たい氷の塊のようなのに、だ。 オレは返事をしない。言葉というものが浮かんでこない。身体の中に詰め込んでいたものが全て抉り取られたような空虚だけ、だ。この雪の降る空のようながらんどう。そこに遊馬の体温と遊馬の言葉が落ちる。積もった雪はこの耳に聞こえた赤ん坊の泣き声の記憶。腕の中、まだ確かにあるその肉体。 命を失った、肉体。 「遊馬」 唇が名前を呼ぶ。 「死ぬな」 全ての思いがこの一言に帰結した。オレはそれを唇からこぼすだけで、もういっぱいだった。それ以上は言葉などなに一つ浮かびはしなかった。 遊馬が疲れたように笑う。それが抱きしめる腕や触れた胸を震わせる。 「無理だ。オレはお前が使命を果たしたら死ぬしかないだろう?」 廃墟の只中にぽつんと佇むホテルの、広い、寒い部屋で夜を明かした。遊馬は一晩中、オレの身体を抱きしめていた。オレは腕の中の死んだ身体を離さなかった。遊馬の命令を受けたロボットは翌朝まで帰ってこなかった。 翌朝、雪が止んだ。恐ろしいほど明るく輝く朝焼けに残った雲と空一面が淡い薔薇色に染まった。オレたちはホテルを出て廃墟を港に向かって歩いた。逃げるために用意されていた一隻の大型客船が朝焼けの光に舳先を輝かせていた。 心を持たぬはずの鉄の塊は、その朝よく働いた。無駄口を叩かず、遊馬のためにタラップを用意し、乗り込むとすぐさま船の制御システムにリンクして港から出港させる。ホテルのあの部屋でこの島を出て行くと決めてから一時間とせずに、船は岸を離れていた。 遊馬がそうしたので、オレもホテルを振り向いた。朝焼けに、鏡のような壁面が赤く輝いている。最上階の冷たい閨に今もあれは横たわっている。オレと遊馬の子どもの、この島が墓であり、あの輝くビルが墓標だった。 「そう言えばさ」 遊馬は柵の上に頬杖をつき、遠ざかる島を眺めながら言った。 「名前とか決めてたのか」 「……遊馬」 オレが低く答えると、遊馬はオレを振り返り憐れむように笑った。 「ユウマ! ユウマ!」 電子音声が冷たい海の空気に高く響く。 振り返ると、ロボットめその鉄のアーム一杯に缶を抱えて近づいてくる。船の制御はどうしたと言おうとしたが、オレにも缶に書かれた文字が見えた。粉ミルクの缶だ。電子音声の説明が蘇る。人間の体温と同じくらいの温度の湯で溶かして飲ませるもの。 今更! この地球上で一番必要のないものを! オレが腕を鞭のようにしならせ伸ばすと、その間に遊馬が身体を割り込ませた。オレの手は遊馬の背を酷く打ち据えた。オレは時が止まったかのように呼吸を止めた。長く伸びた腕は黒い霧となって消える。 遊馬はロボットの前にしゃがみこみ、それの頭を撫でる。 「ありがとうな、オボミ。こんなにたくさん」 「ユウマ、ベイビー?」 振り向いた遊馬は微笑んでいて、遠く離れ靄にかすむ岸を真っ直ぐに指さす。 「赤ちゃんは、あの島の王様になったんだ」 「ユウマノベイビー、キングニナッタ」 「そ」 だからお祝いのプレゼントしなきゃな、と遊馬はロボットの腕から缶を一つ取り上げ海に向かって投げる。 遊馬とロボットは缶を一つ一つ海に向かって投げた。白い波頭が昇った朝日にきらめく。銀色の缶は波間に揺れながらゆっくりと岸を目指す。 「96」 小さな声で遊馬が呼んだ。 「いいんだぜ」 「…なにが」 「オレも後悔したんだから」 遊馬は泣いてはいなかった。それから眠い、と言い船室に潜ってしまった。 闇が恋しい。夜の闇が。光の射さない濃い闇。オレに睡眠は必要ない。しかしオレは今闇の中で瞼を閉じ、深く意識を沈めたかった。 影を伸ばし、遊馬の眠る船室に潜り込んだ。 「来いよ」 瞼を閉じたまま遊馬が腕を広げ、言った。オレはありったけの触手で溺れさせるほどに遊馬の身体を包み込み、自分の瞼を閉じた。 闇の中に遊馬の体温だけがあった。それは赤く燃える光のようにオレの中に確かにあった。 鉛色の空を映す冷たい海を、船はハートランドシティに向かって進む。遊馬の生まれた街。オレが目覚めた地。全ての破壊の始まった都市。 夕食の席でロボットがあと二十四時間もせずに到着する旨を報告する。遊馬は手掴みで肉を食べ、脂で汚れた掌を舐めながら尋ねる。 「誰が残ってる?」 「ナンバーズハンター、天城カイト、エースモンスターハ、ギャラクシーアイズ・フォトンドラゴン」 「ああ…」 遊馬は中空を見上げ、呟く。 「“オレ”が勝てなかった相手だ」 「ユウマガ、マケ?」 「負けねーよ、オレはな」 べたべたした手で触ろうとするとロボットは逃げる。遊馬と機械が戯れるのを、オレはぼんやりと眺める。 その後、遊馬はおかわりをし、満腹になって倒れるまでエネルギー補給をした。 「動けない」 床の上に大の字になり、だらしなく笑っている。 「96、連れていけよ」 「貴様、主への口の利き方を忘れたらしいな」 「お前の閨に連れてってくれよ」 ぱちりと開いた両目が、生気ある視線がオレを貫いた。 オレは触手で遊馬を包み込む。 「ユウマ!」 ロボットが声を上げる。 「オボミ、また明日な。明日になったら話してやるよ」 おやすみ、と遊馬は手を振る。オレは黙って遊馬の身体を閨にしている船室へ運ぶ。 最初のやり方をオレは思い出す。ベッドの上の遊馬から服を剥ぎ取り、触手をねっとりとその肌に這わせる。遊馬が快感を感じれば、オレにはそれが分かる。それがオレの快感になる。声の漏れる場所、身体の奥を震わせる場所、触れれば体温の上がる場所を一つ一つ丹念に、執拗に弄る。遊馬の性器ははち切れんばかりになる。射精が近い。 96、と呼ばれ触手を遊馬の手が撫でた。 オレは触手の間から顔を覗かせた遊馬と目を合わせた。 「しないのか?」 なにを、と問うような真似はしない。 「怖いのか?」 「なにを言う」 「出る、ぜ?」 オレは触手を収める。身体一つで遊馬の上に覆い被さる。 「久しぶりだ」 遊馬はオレの頬に手を這わせキスをした。 オレは遊馬とキスをしながら、身体を少しずつ作りかえる。唇のように柔らかで、絡み合う舌のように熱く、たっぷりと濡れたそこを作り、遊馬の上に跨がる。遊馬自身の熱の中心を身体の中に飲み込む。 全てを収めてしまったオレは思わず大きな息を吐いた。遊馬が笑って、またキスをした。 オレの身体の奥に射精した遊馬は、いつもならすぐにでも寝てしまうところだが笑いながらオレの首を抱いている。 「なあ、もう一回してやってもいいぜ」 「してやってもいい、だと?」 生意気を、とオレは再び触手で遊馬を責め立てる。遊馬は仕舞いには泣きながら絶頂を迎える。それがまるで鳴き声のように心地良く、今度はオレが笑いながら遊馬、遊馬とその泣き顔にキスを降らせた。 翌日はだらだらと裸のままベッドに横たわっていた。約束通りにロボットがやってきて遊馬に話をせがむ。オレたちがしたのはセックスって言ってさ、と遊馬は恥もなくそれを語ってみせる。オレはそんなもの聞いていられるか、と甲板に上った。 空は低く曇り重苦しい空気が船の進む先から漂ってくるのを感じた。ロボット特製の米の塊でエネルギーを補充した遊馬もいつしかやって来て、同じ方向を見つめた。 ハートランドシティはゴミの山だった。それは言葉の綾ではない。文字通り、ゴミでできた山の頂上で天城カイトは遊馬とオレを待ち受けていた。 オレはいつものようにそのデュエルをブラック・ミストの掌の上に佇み眺めていた。 決まり切った結末だ。勝利はオレと遊馬がその目に同じものを映した時から全て約束されたものだった。オレたちが負けることなど、ない。 ゴミの山の頂上が陥没し、その深い穴めがけて全てが崩落する。 敗れ去った天城カイトの身体。フォトンの光。ばらばらとカードが舞う。その何十枚もが、まるで意志を持ったかのように風を受けて舞い上がり、遊馬のもとに集まる。 世界中に飛び散ったナンバーズが今、遊馬の手元に百枚揃ったのだ。 「96…」 遊馬はそれをオレの胸に差し出す。 「ナンバーズだ」 それはオレの胸の中に吸い込まれる。それを見た遊馬が溜息をついた瞬間、身体が大きくぐらついた。崩れる足下から、ブラック・ミストの手が遊馬をすくい上げる。 オレたちは中空からその様子を見下ろした。地球が末期の声を上げていた。それは次第に大きくなり、地を割る咆吼となる。炎が噴き出す。ブラック・ミストは海へ向かって退避する。地上ではあの家電製品の親戚が懸命に崩落から逃げようとしている。 「いよいよ終わるんだな」 遊馬が呟いた。 「頼みがある、96。最後のお願いだ」 「ああ?」 「オボミを宇宙に投げてくれないか。できるだろ」 できる。 分かっていた。ナンバーズを百枚、その手に取った遊馬も、それをこの身体に収めたオレも。 真剣な瞳で見つめる遊馬に、オレは首を横には振らない。黙って腕を伸ばし、鉄の塊を掴み上げる。次の瞬間、それの姿は地上にはない。遊馬は空を見上げる。既に宇宙空間に転送されたそれを見つけることなどできないのに、またあの機械からも遊馬を捉えることは不可能なのに、遊馬は空に向かって手を振った。 「バイバイ、オボミ」 オレたちはとうとう顔を見合わせた。 「遊馬」 ブラック・ミストが両手を近づける。 オレは目の前にきた遊馬の手を掴んだ。 「オレと一緒にアストラル世界に来い」 今のオレならば可能だ。 オレは使命を果たした。この世界の、諸悪の原因たるこの星を滅ぼした。残されたのは帰還だけだ。しかし遊馬はあの日からオレと意識を溶け合わせたオレのしもべ、オレの一部なのだ。連れて行けないはずがない。いや、連れ出してみせる。 遊馬は躊躇いがちにオレの手を握り返す。オレはそれを強く掴む。 「遊馬」 そこに浮かんでいるのはいつもの憂さのような諦念のような、そうだ憐れむ目だ。しかし今の遊馬が何故オレを憐れむのだろう。もうオレには何でもできると知っているはずなのに。 「96」 遊馬は囁く。 「いつか言ったこと、忘れるなよ」 「遊馬」 オレは遊馬の肩を掴み、抱き寄せる。 「お前のことを愛しているぞ、遊馬」 すると遊馬は表情を崩して言った。 「意味が分からなくて言ってるんだとしても、嬉しいぜ」 「意味は分かっている。愛している」 海が大きなうねりを上げた。海水がぼこぼこと沸き立つ。そこここから火柱が上がる。ブラック・ミストの掌の上にいるオレたちの身体までぐらぐらと揺れる。 その時、急に底の抜けるような感触を味わった。ぐっ、と手に加重がかかる。オレの手は遊馬の身体を支える。二人ともハッとしてブラック・ミストを見た。 黒く滴る霧。ブラック・ミストの姿が消えようとしている。 遊馬の身体がずるりと滑り落ちる。 「遊馬!」 オレは必死でその手を握る。遊馬の身体はもうオレの手だけを支えにぶら下がっている。その下には真っ赤に沸き立つ海。 「遊馬…!」 しかし遊馬の手はオレの手を掴み返さない。 微笑みが、オレの目に焼きつく。 遊馬が微笑んでいる。 「大好きだぜ」 次の瞬間、世界中から音が消えたようだった。 遊馬の手がオレの手の中から滑り落ちた。 伸ばされた手。指先。掴むことができない。 遊馬の微笑みが遠ざかる。 あの赤い瞳が急に潤む。 「アストラル…!」 真っ赤な海が遊馬の身体を呑み込む。 オレは、動けなかった。 遊馬は…遊馬が消えた。オレの手から離れていった。海に落ちた。助けなければ。遊馬はオレが選んだ人間だ。オレのしもべだ。オレのものだ。遊馬を、オレは。 だが身体は動かない。惑星は末期の苦しみに身体をよじり、その力でオレは大気の外まで大きく跳ね飛ばされる。熱が。重力が。風が。 やがて本当に音が消える。 気づけば漆黒の闇の中を漂っている。来し方を見ると、それまで地球のあった場所にガスと塵が渦巻いている。それさえ肥大化する太陽に呑み込まれ、見えなくなる。オレは太陽に追い立てられるように宇宙空間を飛び続ける。 オレは両手を見た。そこには何も残っていない。遊馬の姿はない。オレは遊馬を失った。遊馬を失ったまま、知識でしかなかった故郷へアストラル世界へ帰還を…。 漠然と漂っていたオレは動きを止める。 背後では膨張しきった太陽が今度は急激な収縮をしていた。輝くばかりだった光が消える。失せる光の中でオレはどことも知れぬ空を見る。 帰ることはできなかった。アストラル世界への道は閉ざされた。天城カイトが用いた異世界の力のせいか。いや、アストラル世界がそのゲートを閉じたのか…? それまで太陽に照らされていた身体が冷たくひえる。オレはそれを冷たいと思う。 上下に左右にありとあらゆる方向にこの宇宙は広がっている。しかし、閉ざされている。もうこの宇宙から抜け出すことはできない。オレにはそれが分かる。オレの中には百枚のナンバーズがあるからだ。アストラル世界の使者の記憶であるカードたちが、オレにそれを教えるのだ。アストラル世界に帰ることはできない。 何故ならオレは“アストラル”ではなく、ナンバーズ96だからだ。 遊馬の声が耳にこだました。遊馬が最後に呼んだ名前。オレの名前ではない。 アストラル。 アストラル…! 目の前に水の雫が漂う。オレはそれが自分の目から溢れ出したものだと気づかない。 やがて太陽の最後の光が消え、懐かしい闇がオレを包み込んだ。
2011.11.29
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