失楽のユビキタス 6




 一向に晴れ間の見えない空は今日も重たい灰色に沈んでいる。風はひっきりなしに吹き、止むことがない。
 ヘルパーとしてこの家に通っていたらしいロボットは死体を屋外のダストボックスに片付けると、遊馬の看病を続けていた。人間の扱い、人間の食べ物を得て、遊馬はこの一週間で見違えるように元気になった。もうベッドから起き出すこともしているようだ。それに、このロボット相手にデュエルも。ロボットは遊馬を新しい主人と認証したらしい。死体を片付けるように命令したのも遊馬だったのだ。
 二階からはよくぼそぼそと話す声が、そして時々は笑い声さえ聞こえた。遊馬はロボットに「オボミ」と名前を付け、ロボット相手に語らっている。
 一週間だ。
 オレは遊馬の顔を一度も見ていない。と言うか最初は本当に見捨てるつもりだった。オレの中には新しい遊馬を生み出すための卵があった。これさえあればオレは今の遊馬に執着する必要はない。
 しかし卵は孵らなかった。それどころか産み出すことさえできなかった。卵はオレの体内で異常な細胞分裂をしては排出され、腐っては排出された。まともな卵の形をとって産まれたものは一つもなかった。
 オレは広いキッチンに触手の根を張り、身体を安定させて次の卵こそと試行錯誤を繰り返す。その間に瞼の裏で耳の中で退屈そうに笑う遊馬の顔やオレの名前を呼ぶ遊馬の声が浮遊して、オレはそれを一生懸命卵の中に組み込もうとしては失敗してしまう。だが、オレは自分の中から遊馬を追い出してしまうことができない。だってオレが欲しいのは遊馬なのだ。
 そうやって二階では遊馬が体力をつけ笑ったり飲んだり食ったり肉体を回復させていっているのに、オレは焦燥に駆られてもう幾つの卵を駄目にしたか分からない。また失敗しては白いタイルを汚す紫と緑の腐った残骸を見つめるだけだ。
 夜の闇の中、オレはもう一度自分の中で遊馬を造り出す。分析した遺伝子を、そうだ何となくで弄ってはいけない。オレと遊馬の融合したその肉体が遊馬の形を成すように、遊馬の声で笑うように、一つ一つ丁寧に操作して、出来上がったものが壊れてしまわないように殻で包む。
 気がついた時には夜が明けている。外は相変わらずの曇りで、風の音が五月蠅いほど鳴っている。しかしオレはもうそれも気にしない。力を消耗していた。オレは卵の入った腹を抱いて瞼を閉じる。これが眠りかと思いながら、意識を手放す。

 目が覚めた。明るい光が射していた。それが眩しくて目が覚めたのだ。広い台所の白いタイルに反射して、真昼の光が満ちている。眩しい。その眩しさに吐き気さえする。オレは蹲り喉を押さえる。苦しい。息ができない。なにか重たいずっしりとした質量を持ったものが喉の奥を圧迫している。
「ぐ…うぅ……」
 醜い声が聞こえ、それが自分の呻き声だとさえ最初は気づかない。クソッ、こんな時に不愉快な声を出しやがって、と思っていたらオレの声だった。
 そこでオレは自分の身に何が起きているのかをようやく認識し始める。身体が熱い。それは卵を抱いていた腹の底から、迫り上がるように喉の奥へと続いている。そうだ卵だ。卵がとうとう完成したのだ。オレはそれを産まなければならない。
 生物がどこからどのように卵を産むのか、その知識がオレにはほとんどない。体内にあるのだから出口を目指すのは道理だ。だからこの卵は出口を、オレの口を目指して上ってくるのだ。
 卵がどこにあるのか、もうはっきりその形が分かる。息ができない。そもそもオレに呼吸が必要なのかも考えたことはなかったが、閉塞し塗り固められるような苦しさが内外からオレを圧する。
 オレは懸命に卵を吐き出そうとえずく。開きっぱなしの口からは唾液のようなものがダラダラと流れ落ちる。ねばねばと糸を引いて落ちるから卵を保護していた粘液か。それによって鼻の奥まで塞がれたようで、いよいよ苦しくなった。全ての穴という穴を塞がれた上に、熱が狭い出口から出ようとしている。目玉が飛び出しそうだ。オレは固く瞼を閉じて、ひたすらそれを吐き出そうとする。
 遊馬。これを吐き出せば、この卵を産めば遊馬に会える。遊馬、遊馬、とオレは胸の中で繰り返しその名を呼ぶ。この口で呼ぼうとする。それに合わせて卵が喉をずるずると移動する。
 ずるり、と。
 喉の奥から熱が消えた。不快なほどの息の音が聞こえた。オレは息をしている。ぜーひゅーぜーひゅーと喉が鳴る。オレは何がどうなったのか見ようとするが視界がぼやけていて、よく見えない。なんだこの目を覆う水の膜は。それはぼろぼろとオレの両頬をこぼれ、不快な生ぬるさを残す。
 どろどろに濡れた顔を拭い、床を見下ろした。
 卵だ。
 薄い紫色の粘液に絡まれ三つの卵が転がっている。
 オレは呆然としてそれを凝視する。これを孵化させれば遊馬が産まれてくるのか。オレの望んだ遊馬に会えるのか。遊馬、遊馬…。
 その時、光の中を黒い影が一条、音を立てて落ちてきた。
 ぐしゃり。べしゃ。ばしゃっ。ぐちゃぐちゃ…と音が響く。
 白いタイルの床に長く引きずられた足跡が伸びている。オレは呆気にとられてその足跡を、足跡の途切れた先に佇む裸足を見つめた。確かに自分の眼にはそれが映っているが、それが何を意味しているのか理解できない。汚らしく濡れた足跡は、その底をタイルの床に擦りつけたせいだ。真っ白な床に伸びる線は、暗色の雑多に混ざった粘液質のそれだった。
 唇が淡く痙攣する。音のない言葉、空っぽの思考が勝手に唇を動かしている。
 何も考えられない。
 まともな思考などできてはいない。
 目の前のそれを産み出した時から、中に詰まっているものも一緒に吐き出してしまったかのように、形を保ってはいるもののその中身は空疎で、思考は空転するばかりだ。
 あの息苦しさ…。既に過ぎ去ってしまった怒濤の余韻がわずかに記憶を蘇らせる。呼吸も、全ての生命活動が圧迫されるあの苦しみ。身体の奥から喉へ向かってせり上がり出口を求めるそれを口から吐き出す。
 あれは…吐き出したのだが、吐き出されたそれを見ても愛情めいたものなど湧いてはこなかったのだが、確かに自分の産んだ卵だった。
 自分とアイツの…。
 オレは顔を上げる。裸足。紫と暗緑色の混じった粘液が足の裏にべったりと付着し、足指の間から溢れ出してきている。それなのにきれいな足。清潔な足だ。汗も垢もない本来の肌の色を取り戻した足の甲。きれいに切り揃えた爪。視線はなぜか足の指を一本ずつ数える。十本の足の指。汚された指。
 不意にえずき、喉の奥に引っかかっていた粘膜が外れてそれを吐き出す。苦しさのあまり掴んだ両手の中でぐしゃりと潰れるもの。気持ち悪いと思った。それが自分の中から産み出されたものにも関わらず。
 また目から液体がこぼれる。揺らぐ輪郭の中でいっそう歪み潰れた濃い紫色のそれは確かに生命と呼べるものが存在した証拠だった。遺伝子を、彼の設計図をこの身体の中に取り入れ、壊れないよう膜で包み、その中で設計図に沿って細胞を分裂させた。自分の中でそれが生まれたことが、それを孕んだ時は嬉しくて仕方が無かったはずなのに。嬉しいというかわいらしい表現が似合わないと言うならば、愉快だった。快楽さえ感じた。それはデュエルの勝利と破壊にも、あの身体を包み込んだ時の愉悦にも勝るものだったはずだ。
 愉悦から苦痛を経て産み出された卵。
 オレは顔を上げる。きれいな裸足の持ち主。無表情が自分を見下ろした途端、笑顔になる。
「なんだよ」
 足を持ち上げる。踵から粘液が滴って白い床の上に混濁した黒い点を幾つも描いている。その笑顔を見ていると空疎だったオレの内側に本来の中身が蘇る。様々な記憶も知識も一つに縒り合わさり、それは「遊馬」と呼ぶ名の一言となる。
「何て顔だよ、96」
 急に遊馬は眉を寄せる。
「オレがしたことが気に入らないのか?」
 反射的に感じた恐怖が考えるよりも早くオレの首を横に振らせた。
「そうだよな」
 遊馬は微笑む。
「お前はオレの考えてることがちゃんと理解できるだろ。な、もう、ちゃんと分かるよな」
 分かるように教えたんだから、と遊馬は足を振る。粘液がべしゃりと重たい音を立てて顔に降りかかる。粘液と、確かに生命だったものと、それを守っていた殻、の残骸。
 オレは思い出す。それは自分の核を抉られるような冷たい恐怖の喚起だった。
 遊馬、目の前には会いたくてたまらなかった遊馬がいる。しかし、この遊馬には一切の感情がなかった。かつて自分の本体、アストラルが欠落させていた感情どころの話ではない。風のない水面のように平らかで滑らかで完璧なほど穏やかだった。遊馬はそれを楽しんでいなかったどころか、嫌悪も憎悪も感じていなかった。あったとすれば足の裏が汚れた不快感が後で生まれただけだった。振り払われた残滓。潰れた卵。もう遊馬には必要のないもの。
「遊馬…」
「言えよ」
 また感情を消して遊馬が言う。
「オレが何を考えてるのか、お前にどうしてほしいのか。言え。分かるだろ?」
 オレは床の上から遊馬を見上げながら言葉を探す。しかし探すほどの言葉は残っていなかった。それは当然のあるがままの事実だった。
「遊馬が欲しい」
 遊馬は鷹揚に頷く。
「遊馬しかいらない。遊馬だけでいい」
「だから?」
 オレは足りない息を飲み込み、言葉を押し出す。
「かわりのものも、偽物も、いらない」
 踏み潰された卵。潰えた生命の残滓にオレはもう目をくれない。
 遊馬は汚れた足跡を避けてオレの傍らにしゃがみこむと、その頭を撫でた。
「よくできました」
 その笑みが自分だけに向けられたものだったので、オレは安堵の息を吐き自分も頬を緩めた。
 それからゆっくりと遊馬の足を取り、汚れたそこに舌を這わせた。
 オレはこうしたかったのだ、と思う。触手の感覚ではない、手でもない、オレはこの舌をもって遊馬を舐め尽くしたかったのだ。今ようやくそれを叶えていた、だらしなく唾液と粘膜を垂らしているこの舌で。
 熱い息を吐きながら懸命に舌を這わせると、遊馬はぬるぬるした足の裏をオレの顔に押しつけた。
「うっとりしちゃってさ」
 遊馬は嬉しそうに笑っていた。






2011.11.27