失楽のユビキタス 5




 強く湿った風が吹いていた。窓の外に見える海も空も濃い灰色をしていた。冷たい上に呼吸を重くする風だった。オレは広いキッチンの窓からその景色を見た。だがオレに感慨はない。ただ遊馬を外に出すのは無理だろうと思うだけだ。
 触手が戸棚を漁るが、缶詰の中には人間がエネルギー補給の源とするものが入っているという以外、よく分からない。蓋を開けてみれば、それが遊馬の肉体に害を与えるものではないとは分かるが、今の遊馬を回復させるのに有効なのかどうかが分からない。
 オレは背後を振り返った。この屋敷の住人であったはずの人間は、今はもうただの肉塊と化して床の上に転がっている。生かしておけばよかったか? しかし遊馬が今更人間に助けを求めるだろうか。ましてオレがそんなことをするはずがない。
 遊馬の肉体が不調をきたしたのは目の前の灰色の海を渡ってから、この重く湿った風に吹かれてからだった。遊馬は平気だと言ってこの街でもデュエルを行い勝利したが、その後の破壊の様子を楽しむことさえできなかった。ブラック・ミストの掌の上で遊馬は動かなくなった。肉体が壊れきった…死んだわけではない。だが意志をもって自分の身体を制御することもできない。歯はガチガチと鳴り、身体は始終震えている。街はほとんど破壊してしまったから、それ以外で休める場所を探さなければならなかった。それだけならいつものことだが、今は遊馬の肉体を休養させなければならない。休養という言葉で合っているのか? まあどうでもいい。とにかく遊馬を平生の状態に回復させなければオレたちの旅は進まないのだ。
 歳を取った人間が二人住んでいた。動きものろく、触手で軽く小突いただけで脆い身体は壊れた。遊馬は二階の大きなベッドの上で眠っている。ハートランドシティを旅立って以来、遊馬が人間的な場所で人間のように眠るのは初めてのことだった。
 オレは缶詰と冷蔵庫とやらの中に入っていた飲み物を抱えて遊馬のもとへ戻る。まったく手間をかけさせる。ベッドの上にどさどさと物を落とし、さあ飲め、エネルギーを補給してとっとと回復させろと言うと、遊馬は瞼を開きぼんやりした視線を漂わせるが、それでもオレの声に身体が動くらしく手がベッドの上をまさぐり瓶を一つ手に取る。何度か失敗しながらスクリュー式の蓋を外し、中身を飲んだ。それがなんなのかは知らない。白い泡が噴き出して遊馬の口の端からぼたぼたとこぼれる。しかし遊馬はなんとかそれを飲み干すと、はは、と低く笑った。
「すっげ懐かし」
「は?」
「コーラ」
 もう一本飲むと言って遊馬はふらふらと別の瓶を手に取る。しかし今度は中身が違ったらしい。盛大に咳き込んでそれを吐き出した。床に落ちた瓶の口からは同じように白い泡がこぼれる。
「それでは駄目なのか」
「ちげえ、これ。…ビール?」
 黒いの取って、と遊馬は嗄れた声で言う。
「お前の身体みたいな、真っ黒いの」
 それが揶揄なのかどうか判然としないが、遊馬がオレを求める感覚は悪くない。それにオレは文字が読めないわけではない。選んでコーラを渡してやると遊馬はまたそれをごくごくと飲み干し、急いたせいか胃が受けつけなかったのか折角飲んだ半分ほどを床の上に戻した。
「飲むだけではない、食べろ。早く回復させろ」
「無理言うな、食いたくない…」
 遊馬はまた倒れるようにベッドに伏せる。オレは触手を出して遊馬の身体を包み込んだ。
「やめろよ、無理だって…」
「遊馬、オレと一体化しろ」
「…はあ?」
「人間の身体は脆い。オレの肉体と交われ、そうすれば」
「いやだ!」
 皆まで言うより早く遊馬は拒絶の言葉を吐いた。
「いやだ」
 しかも繰り返す。
「遊馬、オレたちの使命は…」
「絶対にいやだ!」
 遊馬は濡れた胸を掴み、オレを睨みつけた。
「オレはオレなんだ、遊馬で、人間なんだ」
「遊馬、このままでは死ぬぞ」
「死んでもいい」
「本気で言っているのか…?」
 今度はオレが顔を歪める番だ。肉体の不調のせいか? 遊馬らしくない。自分の命の使い方と終わらせ方は決めたと疾うに言っていた遊馬だが、こんな態度をとる遊馬ではなかったはずだ。オレの遊馬がどこかに奪われたかのようでオレは物凄くイライラし、噛みつく。
「いいか、地球を破壊し尽くした暁の話ではない、たった今、お前の脆弱な肉体が足手まといだと壊してやってもいいのだぞ。オレがお前をしもべにしたのは、お前が気に入ったからだ。遊びだ、余興だ。お前などいなくとも使命は全うできる、それどころか今のお前はオレの足手まといなのだからな」
「…ぐだぐだ喋ってねーで殺せよ」
「遊馬」
 触手でその手足を絡め取ると、遊馬は躊躇わず歯の間に舌を挟んだ。あれを噛み切れば大量の血が外に放出され失血と同時に、呼吸の為のあの狭い管を血が塞ぎ人間はあるべき機能を停止させられてしまう、死ぬのだ。
 オレは触手で遊馬を殴りつけた。がちり、と音を立てて歯が噛み合い舌に傷が入る。しかし死ぬ程度のそれではない。オレは遊馬の身体を守っていた布団も服も剥ぎ取り、その上に跨がる。遊馬の顔はげっそりしていたが、性器は既に熱を持っていてオレはそれを簡単に高ぶらせた。どうすれば遊馬が快楽を感じるのか、思考さえ放棄するようなそれに溺れるのかを、オレは自分の身体と同じように隅々まで知っている。
 遊馬はオレの体内に射精する。それだけなら今までもあったことだが、今度はオレはそれを体外に排出しない。穴を閉じ、身体の奥に遊馬の精液を取り込む。
「なに…しやがる…」
 既に気を失いかけている遊馬が朦朧とした口調で尋ねる。
「いつまでも自分が特別だと思うな」
 オレは嘲笑い、遊馬は気を失う。
 一階の広いキッチンに触手の根を張り、オレは体内に残された遊馬の精子とその中に詰め込まれた遺伝子を分析する。今の遊馬が壊れるのならば、代わりの遊馬を作るまでだ。大体、最近の遊馬は生意気すぎたのだ。夢を見、過去の“アストラル”を懐かしむ。自分の主が誰なのか分かっていない。もう一度遊馬を作るのだ。デュエルの才能を誇り、壊れにくい肉体を持ち、今度こそオレのことしか考えないオレのしもべを。
 その時、風の音が強く響いた。湿った風と潮の匂い。自分の腹をじっと見つめ俯いていたオレは、少し驚かされて顔を上げる。玄関の扉が開いていた。風のせいではない。誰かが開けたのだ。しかしそこにあるシルエットは人間のものではなかった。
 丸い卵のような影。オレはそれをハートランドシティを始め、各都市で見かけていた。ロボットというやつだ。壊れにくい機械の身体と無駄を廃した電気の頭脳を持つ人形。それは車輪走行で屋内に入ると、鉄のアームを伸ばし扉を閉めた。目らしい部分が光りオレを見るが、通り過ぎてしまう。そして床の上に倒れた人間の死体を少し調べ、ぶつぶつと電子音声を響かせた。人間の登録番号、死亡の申請、をしているらしい。それから形状を変形させると階段を上って二階へ消えていった。
 二階には遊馬がいる。オレは分析をいったんやめて二階へ、遊馬の寝ている部屋へ向かう。
 ロボットは遊馬に触っていた。電子音声が脈拍や体温など、肉体の状態を読み上げる。ひとしきり遊馬の身体を調べ終わると、ロボットはクローゼットから新しい洋服を取り出して遊馬に着せ、それから清潔なシーツや毛布も持ってきてぐったりしている遊馬を包む。床の上に転がった瓶や缶詰も一つ一つ吟味し、何を飲ませ食べさせればいいかをぶつぶつと電子音声で呟く。
 オレはそれに背を向けて一階に下りた。オレにはやることがあった。たとえあのロボットが対処したところで、遊馬はもう死にそうな顔をしていたのだ。オレは新しい遊馬を生み出さなければならない。特別な存在ではない、と言いながら、オレは結局遊馬を手放せない。手放したくないのだ。
 オレの肉体の情報を溶けこませた壊れにくい丈夫な身体、それを遊馬の形に。遊馬の声で喋り、遊馬の顔で笑い、遊馬の肉体でデュエルする、遊馬、遊馬、遊馬…。
 オレは作り出した最初の細胞を膜で包む。幾重にも包むとそれは硬い殻となって中の細胞を守る。遊馬となるはずの命のもとが、オレの腹の中で卵の形を成してゆく。オレはニヤリと笑り、自分の腹を抱いて目を瞑る。






2011.11.25