失楽のユビキタス 3




 遊馬は時々夢を見る。夢を見ることが遊馬を変える。オレの忠実なしもべだった遊馬が、“遊馬”であるという個性や自我を確立してしまう。オレが本体であるアストラルの失った記憶を持っていた故にナンバーズ96として独立した意志を持ったように。
 自分でも辿った道だ、理屈では分かる。ただ面白いはずがない。遊馬はオレのものなのだ。オレの手の中の人間、忠実なオレだけのしもべ、オレだけに支配されオレのためだけに口を開き行動しオレの隣にいるのに、オレの知らない世界を自分一人だけで見て聞いてオレには秘密にしようとするのだ。面白いわけがないだろう。ちなみに許しがたい。夢を見た翌朝の遊馬はぼんやりとしていて、本当にオレなど見えていないかのようだ。もっと言えばオレの向こうに何か別のものを見ている。
 頬を張っても効果はなく、脅しても口を割らない。きつく抱きしめて眠っても、夢を見ることをやめさせることはできない。どんなに酷い仕打ちをしても遊馬は薄く笑うだけだった。
 そんな遊馬を手の中に取り戻すことができるのはデュエルに勝利した後とセックスの最中。何度か言ってはいるがオレたちのセックスは一応それらしい行為というだけで、生殖行動ではなかった。快楽が極限に達すれば遊馬は射精をするが、オレはそれを受け入れる側にいない。蹂躙されるのは遊馬の身体の方だ。
 闇から溢れ出した触手はオレの目や耳に頼らない全感覚で、オレはそれを遊馬の肉体のありとあらゆる場所に這わせ見る聞く舐める嗅ぐ遊馬の感じている全ての感触を自分のことのように感じ取る。時には口から穴から肉体の内部にまで這わせて遊馬の感触を楽しんだ。反応を示せば徹底的に弄る。快楽は際限なくピークを更新する。
 たとえ口を触手で塞がれていても遊馬の全身はオレを呼んでいる。オレにはそれが分かる。遊馬がオレのことだけを考えて身も心も――そう、夢を見ることで遊馬が得てしまった心も――オレに委ね支配されている。オレは全ての触手からそれを感じ取り、内臓というものがこの肉体の中にあるとすればそこから震えるような悦楽を感じた。
 だが果てしないと思われた快楽の先で遊馬の肉体は疲労しきって眠ってしまい、そして深い眠りの底で遊馬はオレの知らない世界を旅する。またオレの手から離れてしまう。オレは夢を見ているらしい遊馬の顔を一晩中見続けるしかない。
 遊馬は何を見ているのか。ヤツの、アストラルの得た知識と記憶によれば人間の夢は記憶の整理だというが、それは説明として不十分だろう。遊馬は夢の中ではまるで違う扉の向こうに行ってしまっているのだ。オレの遊馬はあんな顔はしない。遊馬はいつも退屈なのだ。人間の世界が退屈でデュエルだけが楽しみで、金なんか燃やされて空を舞う花火にでもならない限り見向きもしないし欲しがりもしない。享楽はデュエルとオレとのセックスだけ、のはずなのだ。遊馬にとって九十九遊馬だった頃のことは全て記録でしかない。遊馬の記憶はオレとの記憶。なのに夢でなにを見るというのだ。オレの知らない景色を、オレの知らないなにかを、夜明けの遊馬は懐かしむそぶりさえ見せる。懐かしい、だと?
 空が白みだす。地面から、露に濡れた草葉から目覚めの気配が立ち昇る。廃墟と化した街の外れ、家畜小屋の藁の中に埋まって眠っていた遊馬が目を覚ます。藁の山がもぞもぞと動き、顔が覗く。遊馬は頭を振って髪についた藁を振り落とすとオレの姿を見つけた。少し細められる目。口元が緩む。
「おはよ」
 と、遊馬は言った。
 挨拶だ。これは人間の朝の挨拶だ。遊馬は今までそんなものしたこともなかった。
「遊馬」
 オレが呼ぶのも無視して遊馬は家畜小屋の外に出る。牛も豚も一頭もいなくなってしまったがらんとした鉄骨剥き出しの建物の中を、空は白み始めたがまだ暗い中を、ひたひたと足音を立てて歩いてゆく。遊馬は裸足だ。足の裏が黒く汚れている。
 外に出ると水道の蛇口が生き残っていて、遊馬は勢いよく冷たい水を出しながら身体を洗う。
「遊馬」
 オレはもう一度呼んだ。一度顔を両手で拭って遊馬は顔を上げた。空を背にしたオレの姿は影に沈んでいたはずだ。しかし遊馬はオレの顔を見て、笑った。
「寒いな」
「オレは寒さなど感じない」
「そっか」
「遊馬」
 更に呼ぶと遊馬は水を止め、身体を擦っていた古い服を捨てる。ほとんど素裸だが、遊馬は九十九遊馬が持っていたような羞恥を感じていない。
「なんだよ」
 耳馴染みのする低い声が尋ねる。表情にいつもの憂さと諦念が戻ってきている。
「夢の中でなにを見た」
「夢は夢さ、現実じゃない」
「なにを見たのかと訊いている」
 すると遊馬の目はまたオレの向こうを見る。オレの身体の向こう。まるでそこになにかが、誰かが、よもやヤツが存在するかのような目。オレは自然と顔が歪むのを感じる。しかし反対に遊馬の表情はほどけるのだ。
「そんなに知りたいのか?」
「お前はオレのしもべだ、遊馬。しもべが主の手を離れていいわけがあるか」
「しもべ、ね」
 遊馬は笑った。発作的にオレは腕を伸ばし、触手と化したそれで遊馬の首を締め上げようとする。
「恐くねえよ」
 それを解こうともせず遊馬は言った。
「お前の手だからな」
「貴様…」
「そんなに知りたいなら話してやる。でもオレはどうせオレたちには関係のないことだから別に忘れてもいいかって思ってたんだぜ?」
 お前の予想通りだ、“アストラル”と“オレ”の夢だった、と遊馬は話しだした。
「お前がオレのデッキにやって来るまでの”オレ”と"アストラル”、もしお前がアストラルを乗っ取らなかったらあったかもしれない未来も、それに遠い昔のことも」
 遊馬はそれまでに見せたことのない真剣な目をオレに向けた。
「ゼアルの力って知ってるか?」
「ゼアル…」
「アストラル世界を救うとされている力」
 その口調はまるでヤツの、アストラルのそれに似ている。いや、おそらくアストラルの言葉をなぞり、意図的に真似ている。だってさ、と付け加えて遊馬らしく笑ってはみせたが、オレには遊馬が一瞬見せたそれが冷たい何かになって触手の内側に染み込みオレの腹の中を巡るのを感じる。
 ゼアル、ゼアルの力…。
 決して埋めることのできない虚無に触れたかのようだ。それはオレの記憶ではない。ヤツしか持ち得ない記憶。オレの内部の奥底深くに封印されたヤツが核なのだとまざまざと思い知らされ、オレは黙って敵意を滲ませる。それは遊馬を見る視線に表れたが、遊馬はオレの敵意を受けても撓むことはない。真っ直ぐに見つめ返す。その視線をまた見つめ返せば、それは簡単にオレの沈黙の意味を遊馬に教えてしまうのだった。
「しょうがねえよな、お前はナンバーズ96なんだから」
「オレを愚弄するか、遊馬」
「んなわけないだろ。オレのことはお前がよく知ってるじゃないか」
 ゼアルの力。オレには何も分からない。今初めて触れたこの言葉さえ、永遠に触れ得ないもののようで、オレは発音することさえ避けている。
「“アストラル”の使命はお前のとは違う。オレたちがやってる破壊は、“アストラル”にとっては手段の一つでしかないからな。それで、“オレ”と“アストラル”は見つけ出すんだよ、それ以外の選択肢を。ゼアルの力を手に入れるんだ」
「………」
「お前さ、オレとオーバーレイネットワークを構築したいって思ったことある?」
 目の前に光をぶつけられたような感じだった。
 オレはゼアルを理解する。遊馬が夢の中でなにを、どんな光景を見たのかも。だがオレは遊馬がこうやって分かり易く端緒に触れさせてくれるまで、そんな地平に気づきもしなかったのだ。そしてオレには……。
 ぐっ、と遊馬の首を掴む触手に力を込めた。できない、などという科白はこの身が八つ裂きにされようが言いたくはなかった。
「バカ」
 遊馬の手が優しくオレの触手を撫でる。
「いいんだよ、オレたちはそれで。そんなことしなくてもオレとお前は、お前の使命を遂行できるんだ。地球を壊すくらい、簡単なことさ」
 だんだん細くなる呼吸の中で、しかし余裕を失わず遊馬は言う。オレはギリギリまで待ち、遊馬を放した。遊馬は膝をついて咳き込んだ。
 しかし咳き込みながら遊馬は笑っていた。楽しそうに遊馬は笑い、しまいには草の上に大の字に転がって笑った。
「オレの、オレたちの勝ちだ」
 空に向かって遊馬は大声で叫ぶ。笑いながら遊馬はオレを指さした。
「オレはあいつらの過去も未来も覗くことができる。確かにゼアルの力は強大だ。でもそれが何だって? ゼアルの力があってもあいつらにはオレたちの未来を覗けやしない。96、オレもお前も、この地球も、この未来もオレたち二人だけのものなんだぜ。宇宙に唯一の未来だ。オレとお前にだけ見える、オレとお前だけが掴める、他の誰にも触れない真似できないたった一つのスーパースペシャルなやつなんだよ」
 遊馬は勢いよく起き上がり、オレの腰にしがみついた。
「さあ飯食ってまたデュエルだ。行くぜ」
「……勝手にまとめるな」
 頭を殴ったが、痛くねえよと遊馬は笑った。
 朝日が昇り、呼応するように遊馬の腹が鳴った。






2011.11.20