失楽のユビキタス 2




 お前にオレの歓びは理解できないんだろうな、お前を抱きしめてさえ得るものがオレにはあるんだぜ。
 遊馬は言ったがセックスの直後にも関わらず遊馬の口調にはその歓びとやらは現れない。ただあるのは適度な運動による肉体的な疲労と充足だけだ。しかし遊馬は、嘘じゃねえよ、とわざわざ念を押した。全身を這い回る触手の一本を掴み、その先端にキスをする。
「お前はそれを知らないんだ。この先誰かが教えてくれるかどうかは分かんねえけどさ」
「遊馬が教えればいい」
「オレが?」
 触手は闇という闇から湧き出でてぬるぬると遊馬の身体を包み込む。遊馬は表情を作ることさえ放棄してその感触に身を委ねている。
「遊馬」
「なに」
「歓びとはなんだ」
「教えてやるなんて言ってないだろ」
「言え」
 触手の中に埋もれてしまいそうになる遊馬の顔を両手で引きずり出してオレは繰り返す。
「言うんだ」
「言葉で通じるようなモンなら苦労しないさ」
「お前はどこでそれを知った、どこで教わった」
「人間に興味があるのか?96」
「遊馬が言うからだ」
 眠そうにしていた瞼が開く。遊馬の赤い瞳が闇の中から光のようにオレを見る。疲労と睡魔のせいか、それは平生の遊馬の表情より柔らかく幼い。
「オレには教えてやれない」
 柔らかな表情に反し、冷たくて表情のない声が言う。
「お前は覚えておくんだ。そんで、いつか思い出せよ」
「いつかとはいつだ。思い出すことと理解することは等しいのか」
「知らねーよ」
 今度こそ煩わしそうに遊馬は手を振った。
「でも、お前よりオレが先に死ぬのは確かだろ?」
 当たり前のことのように遊馬は言った。それは真実で当たり前のことだった。遊馬も人間なのだ。この地球が破壊されれば生きる場所を失う。
 しかし遊馬の表情に恐怖はなかった。これまで対峙してきたデュエリスト、どんな人間たちも死を目の前にして恐怖を露わにしないものはいなかった。顔を歪め、あるいは涙を流し、命乞いをしながら炎に包まれる。遊馬はそれを目の前で見てきたから、自分と同じ形をした人間の死に慣れてしまったのだろうか。
 人間の心理にはデュエルの駆け引き以外大した興味は持てないが、遊馬が他の人間とは全く違った顔をして死を口にするのは興味をそそられた。遊馬はなにを考えているのか。その時その赤い瞳は、胸の奥の心臓は、肉体を司る脳はどのように動きどんな温度で何色をしているのか、オレは全部を知りたいと思ったし、そのためにうっかり遊馬の肉体を切り開いてしまいそうになる衝動を抑えつける。遊馬は人間なのだ。一度壊れたら元に戻らない。ちょっと壊れただけに見えて、人間は簡単に死んでしまう。
 抱きしめてさえ歓びを得る、と遊馬は言う。それがオレに理解できないと。
 オレは全ての触手を影の中に収める。すると濃い青をした本来の夜の闇が蘇る。人の消えた、と言ってもオレたちが滅ぼしたのではなくとうの昔に人間自身によって打ち棄てられた都市の石造りの建物の中、冷たいベッドの上に遊馬は横たわっている。草で葺いていたらしい屋根はすっぽり抜けていて真夜中の空が見える。砂の数ほどの星を見上げ、オレはまた遊馬を見下ろす。遊馬はすっかり眠りの底に沈んでいる。こうなれば朝が来るまで目を覚まさない。石のベッドの上にオレも遊馬を真似て横たわり、その身体を腕で抱いてみる。
 寝息がすぐそばで聞こえる。手の下には心臓の鼓動を感じる。耳をすませばオレの耳には血液の流れる音も神経の交信する音も聞こえる。しかし遊馬が歓びと呼ぶものは伝わってこなかった。腕に力を込め、足を絡みつかせる。寝息が近くなる。全身に遊馬の体温を感じる。また体表が砂埃で汚れているのも、乾いた汗が粘質を持っているのも感じ取る。これらのいずれを遊馬は歓びとするのか。
 オレは歓びを知らない、理解できない? オレには破壊の享楽がある。それ以上のものが存在するのか。オレには遊馬という忠実なしもべがいる。それでは不十分なのか。
 オレは眠ることがない。睡眠は完全コンボを持ちながら不完全な肉体というシステムを持った人間のものだ。オレはそれを必要としたことがないし、遊馬のそれを羨ましいとも思わない。遊馬が言う歓びもオレが根本的に知らず知る必要のないものなのかもしれない。
 しかしオレは遊馬の身体を抱きしめて一夜を明かす。遊馬は時々オレの腕の中で寝返りをうち、涎を垂らした。
 夜が明け、オレもオレの知らない歓びとやらに思いを巡らすのに飽きる。遊馬の頬を張って起こそうとすると、あと五分、とこいつはぐずった。五分だと? 世界中の時計がもうお前には意味をなさない歯車の塊だというのに! 嫌がる遊馬を引きずり起こす。
「さっさとエネルギー補給をしろ。次の街に行くのだからな」
 一度足の裏が床につけば遊馬の目は覚めて、分かったようるさいな、と汚れた肌を掻く。朝日が昇り、崩れた壁の向こうから強烈な光線が遊馬とオレを射た。遊馬は眩しげに目を細めオレを振り返る。そして息を呑む。
 唇が小さく動く。それはオレに向けられた呟きではなかった。遊馬は発音したことのない言葉を呟いた。それは誰かを呼んでいたがオレではなかった。
「遊馬?」
「96……」
 オレの名前を呼んだ遊馬はいつもの遊馬の顔だったが、それが不意に嘲る笑みに変わった。
「そうか、お前は知らないのか」
 嘲りと諦念を込めて遊馬が言った。
「なんだと」
「なんでもない」
「遊馬!」
 オレの恫喝も効かず、遊馬の顔にうっすら浮かんだその表情は消えなかった。
「多分もう遅いんだ、オレたちは」
「なにを言っている」
「お前が96で、オレがもう九十九遊馬じゃなくてお前の遊馬だから、もうしょうがないんだよ」
 不意に遊馬の両腕が伸び、オレを抱きしめる。
 遊馬はオレの耳元に囁く。
「さあ飯を食ったら次の街に行こう。デュエルして勝ってその街を壊そう。壊して燃やして今日を終わらせよう。オレたちが進むべき道はもうそれ以外にない」
 オレはもうそれでもいいんだ、自分の命の使い道は決めたんだからさ、と呟き首筋に顔を埋める。遊馬の湿った息が触れる。
「なにをブレている遊馬」
「お前さあ」
 遊馬の両手はオレの頭をかき抱く。
「覚えとけよ。オレが死んでも、ひとりぼっちになっても、退屈になっても死にたくなってもこれだけは忘れんなよ。教えてやるからな。これはオレの気持ちなんだ。お前に取り込まれたからとかじゃねえよ。オレの本音なんだからな」
 オレはお前のこと好きだからな96、と遊馬はオレを強く抱きしめて言う。
 遊馬の顔は見えない。ただ低く落ち着いた声が、それが虚言ではないと告げている。好き、だと? 一体その人間の感情に何の意味がある? オレが返事をしないと遊馬は、低く笑う。それは不愉快な程、オレの身体の奥を振動させた。
 遊馬が何を見たのか、何をかもってそんなことを言ったのか、オレが知るのはいくらか後だ。それまでも少しずつヒントは与えられていたが、遊馬が教えるまでオレはそれに気づくことはできなかった。






2011.11.18