カメラ・トーク




 古いカメラがある。まだセーラー服を着ていたころ、姉も使っていた。もともとは父のものだ。今は屋根裏の革トランクの中に仕舞われている。
 遊馬は父から教わった手順を一つ一つ思い出そうとする。フィルムを入れて、何度か巻いて、それから三脚に固定。脚は一番短く、ちょうど自分が座り込んだ目線と同じくらいの高さだ。
 アストラルは物珍しげに黙って遊馬を眺めている。遊馬は機械に詳しい訳ではない。オボミを修理しようとした時にもそのセンスが危ういものであることは一目瞭然だった。その遊馬が、一つ一つ丁寧に機械を触っている。掌に少し余る程度の、小さな機械。
 焦点を合わせて、夜だから露光時間は長めに。フラッシュは焚かない。夜の景色を夜の色のままフィルムに焼き付けるのだ。
「アストラル」
 遊馬は窓から月光の射す下を指さす。アストラルはおとなしく指定されたその場所に座り込む。膝を抱え、レンズの向こうにいる遊馬を見つめる。遊馬はファインダー越しにアストラルの姿を見る。レンズと鏡を経由しても遊馬にはアストラルの姿が見える。と言うことはアストラルは光なんだろう。
 もしかしたら本当に。
 遊馬はセルフタイマーをセットし、のそのそとアストラルの隣に這ってくる。
「レンズの向こうを見るんだぜ」
 同じように座り込んだ遊馬はカメラを小さく指さし、すぐに引っ込めた。
 小さな音。
「動くなよ」
 唇をなるべく動かさないように囁く。アストラルは頷かず返事をせず、言われたとおり彫刻のように動かなかった。
 シャッターの下りる音。
 大きく息を吐く遊馬。つられたように溜息をつくアストラル。遊馬はカメラに近づいてフィルムを巻いた。それから振り返る。
「もしかしたら…」
「もしかしたら?」
 写ってるかもしれない、と言おうとしてやめた。それでは最初から写らないと諦めているかのようで。フィルムは残り三十五枚分。まだまだたっぷりある。きっと色んな光が、チャンスがあるだろう。
 遊馬はカメラを三脚から外そうとして止め、アストラルを呼んだ。三脚に固定したままならアストラルもファインダーを覗くことができた。これが写真になるのか、と呟く口元が笑っている。
「遊馬」
 アストラルが指さす。遊馬は月光の射す下に座って、カメラに向かってピースサインを突き出す。アストラルがシャッターを押すふりをした。
 アストラルの瞳にだけ映った幻の二枚目の写真。

 忘れた頃になって遊馬はフィルムを現像してみた。
 ネガを光に透かすと粗い粒子の曖昧な輪郭をした自分の隣にぼんやりとした光。遊馬にはそれがアストラルの姿に見える。他の人間から見たらただの光の乱反射に見えたかもしれないが、遊馬には分かるからそれで構わないと思う。
 印画紙に焼き付けられた、ピンぼけの三十六枚の夜…。
 最後から六番目の写真が奇妙だった。遊馬の足と白いほっそりした足が並んで映っている。遊馬はそれに目を近づけた。
 写真は斜めになっていて、遊馬の足は膝まで、隣は腰の辺りまでかろうじて映っていた。その腰には模様があった。見慣れた模様。自分がキスをし、噛みついた、あの。
「アストラル…」
 遊馬は呟く。
 いつ撮った写真だろう。覚えていない。しかしアストラルの姿はこんなにもはっきり映っている。他の三十五枚と比べると奇跡的なほどだった。アストラルだ。これはアストラルの足、膝や腰のストーンも見間違えようがない。
 写真を胸に抱きしめ、遊馬は大きく息を吐く。身体がぶるぶると震えていた。嬉しくて泣きそうだった。目元はもう潤んでいて視界がぼやけた。だから窓から射す夕陽に自分の影が蠢いたのに気づかなかった。
 影は小さく舌打ちをしたが、あまりに遊馬が幸せそうだったので結局それを邪魔するのをやめた。シャッターを押した触手でするりと遊馬の足の裏だけを撫でて影の中に戻ってしまった。






96ちゃんが撮ったのは事後の写真