非経験性フィアレス




 強風に庭木の梢が揺さぶられる音は、雨を運ぶ風や雲の唸りと共に腹に響く。屋根裏部屋の窓は庭木とは反対の方角を向いている。しかしその音を聞けば、黒い葉の影が悪魔の指先のように手招いているのが分かる。幹から大きく揺さぶられて、軋む、しなる。何百という葉が一斉に鳴るそれは、モンスターの囁きにも似ている。
 台風が近づいていた。大型のそれは明日の朝には街の真上を通過するらしく、どこも早々に明かりが落ちている。しかし窓から見えるタワーは今夜も光を絶やさない。今夜この部屋に射し込む光は遠いタワーの輝きと、忠実に使命を全うする街灯だけだ。
 遊馬は机がわりの革トランクに頬杖をついて窓の外を眺める。カードは広げられていたがバラバラのままで、デッキを作るには至らない。アストラルはしばらく遊馬がやる気を出してカードに向き合うのを待っているようだったが、見切りをつけたのか今はただ黙って中空に浮いていた。
 一際強い風が吹きつける。庭木がざあっと騒ぐのと、屋根裏にいる遊馬にはこの古い作りの家が揺れるのも感じた。目の前の窓枠がガタガタと鳴った。ガラスが震えた。
 ざわめきは耳の奥に余韻を残しながら風と共に吹き抜けてゆく。
「木が揺れる音ってさ」
 ぽつん、と遊馬は呟いた。アストラルが視線だけ寄越す。
「こわいよな」
「…君のその表情」
 アストラルは隣まで下りてくる。今度は遊馬がそれを視線だけで見る。
「恐怖を感じているようには見えない」
「ビビってる訳じゃねえもん」
「…それはどういう違いだ?」
「こわいってさ…」
 言いかけて遊馬はアストラルに向き直った。
 どんな暗闇の中でも、決して見失うことのないアストラルの姿。常の状態でもかすかに発光している身体は、光量の少ないこの屋根裏で何よりもはっきりと見えた。
「…お前、こわいとか思ったことないの?」
「こわい…」
「徳之助とのデュエルの時とか…」
 消えかけたじゃん、と言おうとして口を噤んだ。あの時のひやりとした気持ちが蘇る。光の繭に包まれたアストラルは言葉を発するのさえ苦しげだった。デュエルに勝たなければ、ナンバーズを取り戻さなければ本当に消えていたのかもしれない。それはアストラルと出会うことで様々な面倒ごとに巻き込まれてきた遊馬としては、日常に戻れるチャンスなのかもしれないけれども…。
「お前は消滅とか言うけどさ、死ぬってことじゃねえの、それ」
 遊馬は目を伏せ、低く呟いた。死ぬという言葉を口に出すのは、少しこわかった。
「死ぬ…」
 アストラルが呟く。
「人間は死ぬとどうなる?」
「…知らねえよ。そんなの誰も知らないんだよ」
「私は存在の全てが消えてしまう。この意識も、この身体も、何も残らない。全てだ、全てが消える。だから消滅するという言葉を私は使う」
 風の音がする。遊馬の腹の底が震える。
 どうしてこいつはそういうことを平気そうに言うのだろう。
「死ぬ、ということがどういうことか、私にもまだ理解できない」
 遊馬、とアストラルの声が呼びかけた。
「私の言葉は君をこわがらせてしまったか?」
 胸を突く言葉に顔を上げると、いつもの無表情が不意に傍まで接近していて遊馬を覗き込んでいる。
 うう、と遊馬は顔をしかめた。
「寝る前にこういう話するんじゃなかった」
「…君が始めた」
「だから!言うんじゃなかった、こわいとか…」
「そうだな」
 不意にアストラルに表情が浮かぶ。それは微々たるものだが、遊馬の眼の奥を覗き込み遊馬のことを考えている表情だった。
「君にこわいと恐れる姿は似合わない。君の口癖のとおり、挑戦し続ける者は恐怖を克服しなければならないのだから」
「…アストラル、まさか励ましてるのか?」
「さあ。私はデュエリストとしてあるべき姿を言ったまでだ」
 アストラルの手がカードの上を撫でる。それはカードに触れない距離だったけれども、遊馬は知っている。アストラルはこれに触れることができない。
 遊馬はカードを集め、ケースに戻した。
「明日、学校休みだって」
「何故」
「台風が来るから」
「台風…」
「もっと風は強くなるし、凄い雨が降る」
 あ、と思い出したことを口に出す。
「ハリケーンってカードあるじゃん」
「ああ」
「あれだよ」
「では台風の効果が続く間、魔法カードも罠カードもセットしても無駄になるのか…」
「違う!」
 少しだけ恐怖は薄れていた。死ぬ、とか言う話はオレにはまだ重い。でもナンバーズを集めるデュエルを続ける限り、それから目を逸らせないのだ。勝たなければアストラルは消滅する。こうやって関わってしまった以上、どれだけ面倒な相手だろうと、放っておける訳がない。
 だからデュエルの話をする。デュエルのことで頭をいっぱいにする。そして眠る。これは恐怖の克服ではなく、棚上げ、見ないふりなだけなのだが、十三歳の遊馬には手応えのない死に対して、まだそれくらいしか手段がない。
 風の音はいよいよ激しくなる。木々が鳴り、目の前の窓が揺れる。
 アストラルの表情に恐怖はない。
 どうしてこわいとか言ったんだっけ…。
 遊馬はアストラルの顔を見ながら、遠のいた恐怖を手放す。






2011.8.7 カイト戦前