メルト午前零時




 手指を伸ばす、その感触だけで見つめるように背中を撫でる。何度もキスをした腰の模様からそっとさかのぼって、背骨のようなうっすらとくぼんだラインを辿って、背中の模様に辿り着く。
 指先で触れて、尋ねる。
「いくつ?」
「ひとつ」
 囁きが返す。正解の数だけ指先で模様を叩く。二点識別域値の範囲の中で爪を立て、細かに漏れる息を首筋に聞く。それは遊馬の知らない宇宙の波の囁きだ。色の違う月が照らし出す海は柔らかな球をしている。その中に息づく命を今、腕の中に抱いている。
 月光が照らし出せばその光をとどめる、海のような透明感の身体。
「遊馬…」
 囁く声は流れ星が燃え尽きる最後の光のように散って、遊馬の肌の上でちりちりと爆ぜる。かき抱いた腕に力を込め、更に身体を密着させる。触れ合った裸の胸から伝わり伝えるもの。
 心臓の鼓動をやるよ。
 遊馬は囁く。
「アストラル」
 耳元で名前を呼ぶとイヤリングが震えて、可聴域ぎりぎりの涼しげな音が耳を掠める。
 ドキドキいってるだろ、全部やるよ。
 全部、と囁き返しアストラルの手が裸の背中を撫でる。上から一つ一つ背骨を数えて、心臓の真上でそのひやりとした掌を押しつける。
「どきどき…?」
「なんて聞こえる?」
 アストラルは息を止めて耳を澄ます。
「潮騒に、似ている」
 選ばれた言葉がそっと舌の上にのせられる。
「君と見た海の、音」
 記憶が蘇り遊馬が鳥肌を立てると、触れ合ったアストラルの身体も静かに震える。波の下に輝いていた魚の群れの、背が銀色に光って青に溶ける。その奥からもっと深い記憶が呼び起こされる。生まれる前についた溜息も、まだ星のかけらだったころに流して凍ってしまった涙も。
 それらは全て首筋に埋まった深い青のストーンの中に溶けていて、遊馬はそこに口づけ、キスよりももっとしたいことをした。舐めれば自分の知らない場所でアストラルが流した涙の味がした。歯を立てて聞こえた吐息は見たこともない宇宙で吐かれた溜息と同じ音だった。
 月明かりが青く照らす屋根裏の散らかった床の上。シャークから叩き返されたお菓子の袋。革トランクの上のカードたち。まん丸いラグの上に身体を横たえると、アストラルが頭の下に敷いてしまった遊馬のTシャツをつまみ上げてくすくす笑う。遊馬はそれをがらくたに向かって放り投げた。
 Tシャツは地球儀の上にふわりと覆い被さる。まるで同じタイミングで月が隠れた。
「…君は魔法を使ったのか?」
 二人で視線を窓の向こうに向ける。まるで隠れた月が重要なふりをして。顔を見合わせればキスをするのが分かっていた。だからちょっと我慢比べのように窓の外ばかり見ていた。時々ちらっと視線をやると、アストラルが目を逸らす。そうやってちらちらとお互いを盗み見て、最後は声をひそめて笑いあう。

 最初からマニュアルのない行為だったから、どこにでもキスをした。まだ穏やかな気持ちだった。遊馬は唇でアストラルの胸の模様をなぞりながら、この前シャークに貸してもらった部屋でのことを思い出す。
 模様を一つ一つ数えながら全部にキスをした。ストーンは押しても痛くないと言うのに、優しく撫でるとアストラルは息を吐く。途中で数が分からなくなって、アストラルに教えてもらいながら全部を数えてキスをして噛みついた。つま先までキスをして見上げると、本当に下腹のあたりがいやらしくて今度からどんな顔をして視線を投げようかと思ったほどだ。
 太陽の下では忘れてしまえる。でも薄暗い影、二人きりの時はキスをしたい衝動をおさえられない。今日の夕方、もう一度コンビニのお菓子を持ってシャークに会いに行ったが叩き返されてしまった。
「遊馬」
 アストラルの指先がこめかみを撫でる。
「…ん?」
「脱がないのか」
 指先が軽く指さす。遊馬はズボンの下に意識をやる。まだ今日はおとなしい。
「してえの?」
 にやにや笑いながら尋ねると、思いの外真面目な顔で「しないのか?」と尋ね返された。
 するに決まっている。
 ズボンを脱ごうと身体を起こす。ベルトを外す時、ズボンを膝までずり下ろす時、少し気恥ずかしい。その後は思い切り蹴りやってしまえばいいから、いいのだけど。その様子をアストラルが優しい表情で見守っている。遊馬はパンツに手をかけながら、なんだよー、と笑った。
「君のやさしさが伝わってきたから」
「え?」
「キスをしながら君が」
 アストラルは胸の模様の上に指先を触れる。
「優しい気持ちでいたのが分かった」
「それ」
 遊馬は軽く尻を浮かせてパンツを脱ぎ、座ったままつま先でそれを蹴飛ばした。
「心の声、聞こえてたってこと?」
 するとアストラルは首を横に振り、自分の上にのしかかってきた遊馬の唇を撫でた。
「言葉ではない」
 というわけで言葉ではない会話をする。吐息と、体温の伝播。
 遊馬が息を切らす。腰を擦りつけると、泣きそうな顔をしている、と言われた。
「うん」
 泣きそうなと言われた顔で遊馬は笑う。
「本当にそんな気分だよ、オレ」
 アストラルは両腕で遊馬の頭を引き寄せ、額を触れ合わせた。
「今なら、もっと君を受け入れられる気がする」
「もっと…?」
「君の望みを」
 君の本能も、君の遺伝子も、君がしたいと思ってることも全部、とアストラルは囁いた。
「もっと触れてほしい」
「触ってる」
「もっと」
 アストラルは太腿を遊馬にすり寄せた。
「君の心が私の中に入ってくるから」
「…入ってくんの?」
「とても」
 言葉を切り、アストラルは更に声を小さくして囁いた。
「気持ちがいい」
 遊馬はアストラルの額や頬に立て続けにキスをした。キスでは追いつかなくて噛んでしまっても、アストラルはそれに応えてくれた。

 入れたい、と遊馬が囁く。アストラルは微笑んで手を伸ばし遊馬をそこへ導く。本来ならばなにもなかったその場所へ。遊馬が望み、アストラルがそれを受け入れたいと望んだから。クリームのように柔らかいそこへ沈み込むと束ねた神経を激しい波が襲う。遊馬は腹の底から震える息を吐く。
「ゆうま」
 いつも綺麗なアストラルの声が掠れている。
「ゆうま…」
 呼ばれる声に促されるように全てを埋め込んだ。
「ああ……」
 遊馬は小さく声を漏らした。それは確かに泣く直前の声に似ていた。遊馬?と耳元で尋ねられる。うん、と遊馬は頷く。気持ちいい、と言おうとしたがうまく声が出なかった。
 この前もさんざんやったのに、というかこの前の方が遠慮も気兼ねもなくやったはずなのに、今の方が堪えられないような快楽の波に襲われていた。
 溶ける。
 いつも溶けるのはアストラルの方なのに。溶け合っているのだろうか。そしたら人間じゃなくなるな、と思った。それでもいいかもしれない、と思うほどに快楽に流されそうだ。
 アストラルの腰が動く。促され遊馬は息を合わせる。熱を帯びた腰にひやりとしたものがすり寄った。アストラルの脚が絡みついてる。遊馬はその尻から脇腹に手を滑らせた。指先の感触を感じ取ったアストラルが鼻にかかった声を漏らす。
 遊馬はアストラルの名前を呼んで、相手の瞳とちゃんと視線が合ってからキスをした。ありがとう、と思い、好きだ、と思った。
「…ありがとう」
 アストラルが囁き、二人は微笑みあう。
「好きだ」
 ゆっくりと動いた。終わらせてしまうのがもったいなかった。キスはしてもし足りなかったし、溶ける思いも心も注いでも注ぎきれなかった。アストラルが、遊馬の心が流れ込んでくると言ったように、遊馬にも触れ合ったあらゆる箇所からアストラルが溶けこんでくるのが分かった。それは自分の熱と混じり合って血流に乗り全身を巡る。触れていない場所にもアストラルの気配が、混じり合った熱が伝播する。
 感じる、すごく気持ちいいんだ。
 遊馬は濡れたアストラルの表面にキスをしながら、そうだろ、と囁いた。アストラルは受け入れた遊馬に、這入り込んでくる遊馬の心に制御が利かなくなってきたのか、交わった場所だけでなく全身をうっすら溶かしながら頷いた。それは汗のように表面を伝い、遊馬の体液と混じり合ってラグに染みこむ。
 終わらせたくないと思っても永遠には続かない。遊馬は荒く息を吐きながらアストラルの身体を強く抱きしめる。
「ゆうま」
 アストラルの呼ぶ声は遊馬の快楽が引き上げられるほどに高くなる。
「ゆうま…ぁっ」
 泣きそうな声はお前だ、と思いながら遊馬も思わず出た涙をこぼしていた。
 アストラルが受け入れたがったもの、遊馬の遺伝子はどくどくとその中に流れ込む。腰に絡みついた脚はいっそう強く、それを逃がさないかのように絡みついた。少し苦しいほどで、それさえ気持ちよかった。
 自然とこみ上げる笑みを隠さないでいると、アストラルの唇が目の縁に触れた。涙を舐めていた。遊馬は瞼を伏せてアストラルの好きなようにさせた。

 二人でラグの上にだらだらと座り込む。アストラルは遊馬の膝の間で少し項垂れている。今日もやはり遊馬の精液は異物として排出され脚の間から流れ出した。ラグを汚すそれを見下ろしてアストラルは深い溜息をつくのだった。遊馬はそれを後ろから抱きしめ、しばらくはキスもせず鼻歌を歌いながらアストラルの身体を揺らした。
「遊馬…」
 アストラルはぽつりと呟く。
「私は…」
「そんな声出すなよ」
 遊馬はアストラルの髪をわしゃわしゃと撫で、その上に自分の顎をのせた。アストラルはいよいよだらしなく遊馬の胸にもたれかかる。
「精子はさー、しょうがないかもしれないけど、本物のオレがここにいるだろ」
「ああ…」
「それともオレより精子の方が大事とか言うわけ、お前」
 アストラルがようやくちょっと笑った。遊馬は冗談が通じたのでホッとして両腕でまだぬくもりの残った身体を抱きしめる。
 眠るのが勿体ない夜だった。アストラルとのセックスの後はいつもそんな気分になる。
 最中の、あの時みたいに。
 遊馬は伸ばされたアストラルの手をとりキスを返し、思った。
 溶けたら、本当に溶け合ったら。眠る時も、食事の時も、一日二十四時間正真正銘の一心同体。
「あ」
「…遊馬?」
「ううん」
 遊馬はアストラルの頭の上ででれでれした笑みを浮かべた。
 でも溶けちゃったらセックスできねえや。
 何を考えている、とアストラルの手が遊馬の顔を撫でる。当ててみな、と笑って答えた。まだ身体には熱が残っている。伝わるかもしれない。伝わってもいい。面白い。それでアストラルが怒っても照れても、それを見てみたい。
「好き」
 アストラルが囁いた。
「好き、だ」
 下から見上げられる。にやにや笑いを見られる。
「うん」
 遊馬は額の上にキスを落として誤魔化した。
「当たり」






2011.11.5