非等価交換のシャーク




「どっかさ、邪魔されないでエッチできるとこないかな?」
 遊馬がそう言った時、凌牙は自分が誘われているのだろうかと思った。家でシコってろ、と言い捨て立ち去ろうとしたが、シャークぅ!、と後ろからシャツの裾を引っ張られたので、これは確定的に明らかだここは一つ男を見せて抱いてやるべきだろう、男に入れた経験はないが入れられたことはあるからそれを真似すればいいことだし、とハイスピードに思考を巡らせシミュレーションを行った。振り返るまでの二秒ほどの出来事だ。
「誘ってんのか」
 わざと不機嫌そうに尋ねる。すると遊馬は、あっ、とばつの悪そうな顔をして、ごめんそうじゃなくて、と言う。凌牙はちょっと思考停止する。その後でムカムカと怒りがこみ上げてくる。なんだそりゃ、このマセガキがどっかの女――女だろう、あの幼なじみか!?――としけこむ先を斡旋しろってか。オレがそんな面倒見のいい先輩に見えるのか。
 すると遊馬は自分の斜め上を見上げて、ああ、そっか、とか小さな声を漏らす。
「何が違うんだ言ってみろ」
 今度こそ心からの不機嫌を隠さず凌牙が脅す。遊馬は眉をハの字にして困ったように笑った。
「なんての?心置きなく一人エッチできる場所、みたいな?」
 そんな馬鹿馬鹿しい話だったのだ。
 凌牙は振り向く。振り向いた先にあるのは壁紙の汚れた自分の部屋の…壁だ。そうだ、どこからどう見ても自分の部屋だった。物は多いが散らかってはいない。あるのは机とベッドと整然と積み重ねられた古いデュエル雑誌と、それからカードを収めたファイル。遊馬からもらったコンビニの袋がベッドの上で斜めに傾いている。袋の口からお菓子がこぼれだして、そこだけ散らかって見える。凌牙は衝動的にそれを掴んで壁に叩きつけようとした。
 ――アストラル。
 壁の向こうからくぐもった声が聞こえた。それからひそめるような笑い声。
 凌牙は腕を下ろす。お菓子は全て床の上にこぼれてしまう。
 壁の向こうには隣の部屋がある。もう一年以上も空き部屋だ。しかし遊馬の望むとおりそこにはベッドもあったし、誰にも何にも気にすることなくいやらしいことをできた。オナニーで情けない声を上げようが、セックスでどれだけ喘がせようが――あるいは喘ごうが。
 凌牙自身何度も横になったベッドに今遊馬がいる。
 部屋に入る前、際どい映像の入ったディスクを見せて貸してやろうかとニヤニヤ笑ったが、遊馬は天真爛漫に答えた。
「いらねえよ、そんなの」
 遊馬は本当に一人なのだろうか。さっきから遊馬は誰の名前を呼んでいるのだろう。自分に甘えかかるあの声とも違う。まるで相手をとろかすような声で呼んでいる。
 ――アストラル。
 デュエリストの幽霊。そんな話は信じられない。幽霊とセックスだなんて頭がおかしいだろう。なのに。
 凌牙は壁に手を触れる。
 ――なあ、イッっていい? いい? ごめんなオレだけ、ごめん、ごめん、アストラル。
 堪えきれない低いうめき声。凌牙は汚れた壁紙にそっと耳を押し当てる。泣き出しそうな細い声が聞こえる。遊馬の荒れた息が聞こえる。細い声で、アストラル、アストラル、と呼んでいる。あやうい呂律で、涙の底から笑うように。
 凌牙はずるずるとそこへ座り込んだ。小さな声。うまく聞き取れない。コップが欲しいと思った。それを思いついた瞬間、いても立ってもいられなくなった。凌牙は足音を忍ばせ、しかし足早にキッチンへ向かいガラスのコップを掴むと部屋にとんぼ返りした。息が切れていた。
「オレは馬鹿か」
 思わず呟いたが、しかし誘惑に勝つことはできず、ふらふらと壁際に寄った。凌牙はそこに座り込み、コップに耳をあてた。
 遊馬が囁いている。睦言だ、ピロートークだ。凌牙はそんなもの、そのベッドの上でしたことがないしされたことがない。下手くそ!と言って殴られたことはあっても。ちなみにフェラチオの後のことだ。
 ところがこの遊馬は今自分が横になっているベッドにそんな歴史があるとも知らず、相手の表情を可愛いと言い、照れた相手に本当だってマジでマジでと楽しそうに言い、多分キスをしている。
 最初は戯れるようだったキスもそのうち深くなり、舌を吸う生々しい音や遊馬の鼻息も聞こえる。凌牙はその音に下腹が急に熱くなるのを感じながら、頭ではおかしいおかしいと繰り返す。だっておかしいだろう、相手は幽霊のはずだ、これはオナニーのはずだ。なのにどうしてキスの音が聞こえるんだよ。自分の指でもしゃぶってんのか?違う、何かが違う。
 アストラル、と呼ぶ遊馬の声が次を求めている。お前、今抜いたばっかじゃねえか!凌牙は心の中で叫びながら唇を噛みしめ、もう片手で股間を握りしめる。遊馬の、もっかい、な、今度はきもちよくするからアストラル…、という囁きに下半身が如実に反応したせいだった。馬鹿かオレの下半身は!と罵倒しながらも、耳に聞こえる遊馬の声は興奮と期待に満ちていて、耳の奥から凌牙の神経を撫で上げるのだ。
 相手が了承の返事をしたらしい。遊馬は、へへへ、と笑ってまた好きだを繰り返す。
 ――好き、好きだアストラル…。
 部屋の中に熱気が立ちこめているのが分かる。息は熱く、もったりと重く、それさえ肌を撫でるかのように吐き出される。
 うん、うん、と遊馬が頷く。なにを言われたのだろう。凌牙はコップに強く耳を押しつける。コップに移った熱の不快感と押しつぶされた耳の痛みに、馬鹿め、と思った。聞こえるはずがない。大体なんだこの格好。もうやめだ、やめだ、これ以上聞いたってまた遊馬の情けない射精前の科白を聞くだけで…。凌牙は今度こそ耳を離そうとした。
 ――ゆうま。
 その声を聞くまでは。
 自分が言ったのかと思い口を閉じたつもりが、奥歯を強く噛みしめただけだった。
 心臓が身体の奥からやけに大きな音を立てて鳴り響く。頭の中でまさかまさかと繰り返しながら凌牙は耳を澄ます。
 ――ゆうま…ぁっ
 いるのだ。隣の部屋に。遊馬と一緒のベッドの上に。そのアストラルが。
 アストラルがいるのだ。
 それまで遊馬が発する一方的な電波だったはずが、声になり言葉になり会話になる。
 ――なぁ、今度はこっち来いよ。
 ――なにを…あっ……
 ――な?こうした方が
 ――しかしこれでは遊馬の…んっ……
 ふうっ、と堪えるような息。細い。耳に障らない心地よい声のはずが、乱され神経の襞に這入り込む。
 ――…っあ、ゆうま、ゆうま……
 ――なに
 遊馬の声が少しふわふわしているのは、何か噛んでいるのだろうか。
 いや、何か、ではない。アストラルの身体のどこか、だ。
 ――そこ…ああっ…
 ――ここ、噛まれるの、イイ?
 どこだ!?と凌牙は思わず尋ねたくなる。
 アストラルは言葉ではなく返事をしたのだろう。遊馬が嬉しそうに笑って、そこ、を噛んだらしい。また聞こえる声が高くなった。
 ――そこは…
 ――この背中の模様のとこ、感じんの?せーかんたいってやつ?
 そもそも聞いてどうするって話だったし、聞いてもわけ分かんねえ!凌牙は手を握りしめるが、コップはこれ以上強く握ると割れてしまいそうなので自然、股間を強く握りしめる。クソッ、オレはアホだ。どうしようもないアホだ。
 そのアホに聞かれているとも知らず遊馬の科白は続く。
 ――前もさ、好きだったよなここ触られるの。触れない時もさ…。
 触れない時、だと?幽霊だか何だか知らないが、触れない状態?で?お前らは何をやってたんだ!
 しかしその科白を聞いたアストラルもまた、小さな声で笑うのだ。快楽の狭間から無垢な感情を覗かせて。
 お前の背中、好き、と遊馬が囁く。すげえきれい、オレほんとお前に触れるようになってよかったー。それからもぞもぞと音がする。抱きしめたのか。そして満たされた声が、私もだ遊馬、と返す。またキスの音。
 あとはもう息づかいと嬌声。遊馬はまたアストラル、アストラルと名前を繰り返す。好きだという言葉も気持ちいいという言葉も全部それに溶けてしまっている。凌牙は目を開けているのに、そこに映るのは自分の部屋ではなくて、隣の部屋の遊馬だ。遊馬の裸の背中や、腕や、汗の流れる首筋。見たことのない尻さえ目に浮かぶ。体位はバックなんだろう。相手のことは想像つかないが――背中に模様だと?――何となく細い腰が浮かんだ。それを遊馬の手が支えている。
 ――ちょっ、まだ溶けるなよ?
 ――…っんな、こと…言っ……あぁっ
 ――ほらしっかりしろってアストラル、な?
 ――でも、君のが…ぁ…気持ち、いい、から……
 おそらくそこで遊馬の頭のネジはぶっ飛んだらしく、腰を打ちつける音と、もはや言葉にはならない喘ぎ声が聞こえた。
 やめろ、と思いながら凌牙は股間を握りしめた。やめろ、しかし最後まで聞いていたい。クソ、なんで勃ってんだよ。最悪だ最低だ、そう思いながらベルトを外しズボンの中に手を突っ込む。
 ゆうま、ゆうま、と繰り返す声が聞こえる。すごい、だめだ、こんな、わたしは、そんな言葉が切れ切れに聞こえる。
 ――ゆうま、お願い…んっ…中で……
 その科白に凌牙も準備をする。聞こえてくる遊馬の呼吸と自分の呼吸を合わせる、つもりがいつの間にかアストラルの呼吸と同調していて、自分が抱きたいのか抱かれたいのか何なのか分からなくなる。が、射精のタイミングは一緒だった。
 手が汚れた。下着も汚れていた。凌牙はコップを握りしめていた手を下ろし、壁にもたれかかった。ゴツ、と音を立てて頭が壁にぶつかった。しかし壁の向こうの二人は気づいていないらしい。乱れた呼吸と泣きそうにゆうまと繰り返す声。その何回かに一回遊馬が、アストラル、と応える。凌牙はずるずると壁にもたれながらそれを聞いた。またちゅっちゅしてやがるな、とぼんやり思った。
 だるい身体を起こし、手を洗いにいく。下着はゴミ箱にぶちこみ、新しいものを穿いた。全ての動作は緩慢でのろのろとしていた。
 だがいっこうに隣の部屋から遊馬が出てくる様子はない。そう言えば部屋に入る時は一人だったのに、どうやって増えたんだ。
 頭に養分が回っていないらしい。貢ぎ物の菓子でも食うかと部屋に戻った。ベッドに腰掛け、ポテトチップの袋を開けようとした瞬間、また声が聞こえた。
 ――ゆうま……っ!
 勢いよく引き千切られたポテトチップの袋から飛び散った中身が凌牙の上に降り注ぐ。コンソメの匂いが部屋いっぱいに広がる。
 ――イイ……んっ…
 あんあんと声が響く。凌牙は目の前の壁を呆然と見つめ、そろそろと両手で耳を塞ぐ。ポテトチップは食べられそうになかった。これの見返りがコンビニの袋いっぱいの菓子だけだと? 安すぎる安すぎる…口の中で呟き凌牙は強く耳を塞いだ。






2011.11.1