Last song




 サンキューあなた。サンキューヒーロー。
 換気扇の回る下に座り込んでいると、外を通り過ぎ行くおしゃべりがそんな風に聞こえた。
 センキューフォーユアリスニイング、センキューフォーユアラヴィング、ウィラヴユー、バット……。
「しかし…?」
 ぼんやりと呟き、頭上を見上げる。ファンの影が夕焼けのオレンジを切り刻む。一つ一つ手にとって食べてしまえそうな立体的な光だ。遊馬はそれに手を伸ばす。掌の上で夕陽と影は交互に明滅する。
「しかし…?」
 隣から声がかけられる。隣に座った彼はいつもの、感情や揺れなど微塵も感じさせない冷たい声で尋ねる。遊馬は振り返る。
 廃墟の汚れた壁の影でアストラルの身体はほのかに発光している。真っ黒な床の上にあっても虫の這う壁の前にあっても汚れることがない。純水を詰め込んだラムネ瓶のようだ。
「あなたのことを愛してる」
 遊馬は言った。
「しかし」
「しかし、なんなのだ?」
「そこから先が聞こえなかったんだよ」
 取り壊しの決まったビルは、当初は流行のデザインだったのだろう。ピサの斜塔を模して作られている。しかしあっという間に風化した。外観も最初から古めかしく作ってあったから、ただ建て替えのための取り壊しなのに廃墟が壊されるように思えた。
 学校からは近づいてはいけないと通達されていた。姉も記事を書きながら強く釘を刺してきた。しかし遊馬は知っている。禁止されていることは甘美だ。デュエルも。廃墟への冒険も。二人だけの秘密も。
「好きだけど、でも…」
 遊馬は口先だけでぼんやり考えながらアストラルに近づく。四つん這いになったので、掌もズボンの膝も汚れた。遊馬は砂まみれの掌を――もう膝も汚れたからいいや――ズボンで拭い手を伸ばす。
「でも?」
「別れなきゃいけない、とか」
「何故?」
「知らね」
 掌を頬に添えそっと唇を近づけると、アストラルが目を細める。
「…こんなところで?」
「駄目?」
「私に人間の価値観は分からない」
 目を開けたままキスをするのは不思議な気持ちだった。キスをしている自分を後ろから背後霊のように覗いている気分だった。背後霊と言えば、アストラルのポジションはそれに近い。
 アストラルとキスをしてるオレを見てる冷静なオレがアストラルのポジション。意味分かんないな、と思って瞼を伏せた。
 廃墟の闇はすぐに濃くなった。夕焼けが輝くほどに、汚れた壁の隅は暗く遊馬の姿を隠し、アストラルの姿だけぼんやりと浮かび上がる。
「な」
 ほんの少し唇を離し、囁きかける。
「アストラルにはオレのこと、見えてんの?」
「遊馬?」
 オレはなんだかオレがいないみたいだ、と遊馬は囁く。
「お前が呼ぶまで名前も忘れてた、ここに来てから。不思議だ。一秒一秒も、一秒の十分の一も百分の一まで分かる。オレにはお前が見えてるし、お前の声もお前が生きてる音全部聞こえてくる。でもそれ聞いてると、オレの中から心臓の音も血が流れる音も消えてくみたいだ。電気信号みたいな音だけになってお前の音に溶けてく」
 囁きながら遊馬はアストラルの身体にもたれかかる。
「遊馬…?」
「合体した時みたいにさあ」
 遊馬はくすくすと笑った。
「キスしてるだけなのに。すげえ気持ちいい」
 アストラルは遊馬を見下ろす。今まで遊馬という名前さえ忘れていたという少年を。それは確かに人間の形をしていたはずだが、遊馬の言葉にアストラルにもその輪郭が分からなくなった。暗い影が自分の中に溶けこむ。それは確かに自分たちの境界を溶かして交わっている。
 世界の終わり、地球が壊れてしまう前の日のような光景だとアストラルは思った。それはナンバーズ96の持っていた破壊される星の記憶の奥底に隠れていた風景だった。
 壊れ朽ちかけたコンクリートの壁。太陽の光が強すぎて、真っ黒な濃い影が落ちている。その影で最後の生命が呼吸をしているのだ。歌を歌っている。遊馬かもしれない。遊馬の友人かもしれない。小さな声が歌う。
 センキューヒーロー、センキューフォーラヴィナストゥデイ、アイラヴユー、バット…。
 ああ、本当はお別れではなかったのだ。アストラルは遊馬の身体を抱きしめる。遊馬だった形はアストラルの中に取り込まれて淡く発光しながら溶ける。
 アイラヴユーという言葉は通じなくなってしまう。何故なら君は私になって、私は君になるのだから。溶けてしまっては、アイラヴユーを言う相手もいないのだ。
 一秒、十分の一秒、百分の一秒までもがしっかりと刻み込まれる。遊馬の溶けたこの身体の中に、遊馬の熱も心も一人になった寂しさも溶け合った心強さも感じるまま全てが記憶される。
 ナンバーズの記憶のように、たった今世界が終わっても多分後悔しない。アストラルはそんなことを考えた自分に驚き、これは遊馬の思考かもしれないと思う。いや、自分の自分たちの思考なのだ。溶け合えばもう区別はない。
 遊馬はアストラルの中でくるくると螺旋を描く。歌っているのだ。
 サンキュー姉ちゃん、さんきゅーばあちゃん、サンキュー小鳥、サンキュー鉄男、サンキューシャーク、バット、イッツタイムトゥセイグッバイ。

 目が覚めるとすっかり暗くなっていて、廃墟の中は本当に何がなにやら分からない。換気扇の向こうから射し込む月の光は弱く、遊馬は立ち上がろうとして早速転んだ。
「アストラル?」
 呼ぶが返事はない。暗くてもあの姿なら見失うことはないのに。まさか寝ている間に鍵の中に引っ込んでしまったのだろうか。
 すると足下の床がぼんやり光っていた。遊馬は膝をつき、両手で床に触れた。
「…アストラル?」
 遊馬、と声が聞こえる。直接、心の中に。
「どこにいるんだよ、アストラル」
 君の足下に。
「これ?完全に溶けてんじゃん!」
 セックスの時だってここまで溶けたことねーだろ!と遊馬はアストラルをかき集めようとするが、指からすり抜ける液体をどうすればいいか分からない。
「どーすんだよ、家に帰れねえじゃねーか」
 液体なら、君が飲んでくれればいいのでは?と言われ色んな意味で突拍子もなく、バカ、と言いたくなったが、しかし無理と思うほどでもない。むしろ遺跡の中に泉を見つけたような、そんな清澄さがあった。澄んで、きれいな水。断崖を登り切って、へとへとになった先で見つけた泉のような。
 遊馬は暗い縁に両手をつきゆっくりと身体をかがめた。
「…って、バカ」
 唇が触れようとしたところで、呟いた。
「飲んじゃ駄目だろ」
 鍵の中に入れよ、と言うと足下の泉は金色の霧になって皇の鍵に吸い込まれる。
「できるんなら最初っからそうしろっつうの…」
 埃くさい夜気にくしゃみをし、遊馬は文句を言った。
 帰宅するとまた姉から怒られた。その向こうではテレビが歌っていた。
 サンキューあなた、サンキューヒーロー、大好きよ、でも絶対戻ってきてね。
 ああ、そういう歌だったんだな、と半分上の空で聞き、食らう拳骨。痛かったが、後で歌の続きをアストラルに教えてやろうと思った。






2011.11.2