時雨の下に必要最小限のもの




 必要なものはなにもなかった。例えば若干の不足、代替品としてももっといいものがあったのかもしれないけれど、遊馬にとっては目の前にアストラルがいれば、その他のなにものにも執着する必要はないのだ。
 ギャバジンのレインコートは古いもので、多分父の持ちものだった。重く濡れたそれは動きを制限したが、しかし遊馬の衝動は止められるものではなく、靴を脱ぐと足音高く屋根裏までを一気に駆け上がった。
 雨が降りいっそう埃くさい狭い部屋。早い夜の訪れ。遊馬は床の上にレインコートを脱ぎ捨てた。
 息が切れていた。
「アストラル…」
 ようやく名前を呼ぶと彼は雨夜の灯火のように優しい光をはらんで遊馬の目の前に現れる。
 遊馬は手を伸ばす。触れると表面がまだわずかに濡れている。鍵の中に入っていろと言ってもアストラルは聞かなかった。隣に並んで帰路を共にした。
 一歩ごとに募る愛しさを遊馬はどうにもできなくて、往来で思わず声に出して囁く。
 それを聞いてもアストラルはたしなめなかった。心の中の声を使わない遊馬をたしなめもしなかった。
 キスしたい、今すごくしたい。
 遊馬の囁きを聞いて、軽く唇を噛んだ。目が一瞬に潤んで言葉にならない声が短い吐息になった。
 それから二人は――正確には遊馬が、だけど――走り出したのだ。傘を畳んで、古いレインコートを思う存分濡らして。車とすれ違い、人を追い越し、玄関のドアを乱暴に開け、靴を蹴りやり、リビングを階段を駆け抜け、今レインコートを踏みしめて。
 両腕を伸ばして「おいで」と言ったのはアストラルの方だった。その瞳に宿った熱っぽさは、彼の発した一言と同じほどに雄弁だった。瞳の中にはもちろん遊馬が映っていて、多分それ以外のものは見えていないに違いなかった。そこに映り込んだ愛情も欲動も、彼自身が気づいていない遊馬から見たらとてつもなくアストラルが愛しく可愛らしく脳髄を直撃するような色気も、全ては遊馬が教え与えてしまったものだった。
「好きだ」
 抱き寄せ、抱き寄せられながら遊馬は囁く。
「好きだぜ、アストラル」
 キスの前にどうしてもそれを繰り返し、アストラルが嬉しそうに同時にもどかしげに顔をすり寄せるのの鼻先や頬を吐息で撫でる。
「遊馬」
 うわずった声が繰り返し呼ぶ。
「ゆうま…」
 キスをしただけでアストラルの身体は溶けそうにぐったりとなった。
 すっかり力をなくして崩れ落ちそうな身体を抱きかかえ、ギャバジンのレインコートの上に横たえる。
 なにもいらない。確かに濡れたレインコートじゃなくて、あたたかいラグや毛布の方がよかったのかもしれないけど事は急を要するのだった。じわりと肩の湿った制服を脱ぎ、ベルトを外してズボンを蹴り飛ばそうとして上手くいかなくて膝に引っかかったのを、アストラルの手で脱がされて。
 もう一度顔を見合わせてキスをすると自然と笑いがこぼれてきたので、ちょっとは落ち着くことにした。
 ちょっと。ほんのちょっとだけ、ではあるが。
 雨の音は相変わらず二人の耳には届かなかったし、瞳の中にはお互いの姿しかみえなかった。アストラルの手が遊馬の腕の内側を這って、バングルを外させた。遊馬はその手をとり、何かを言おうとして結局キスをした。
「本当はまだ」
 遊馬はアストラルの中に入りながら囁いた。
「夕方なんだぜ」
 アストラルは熱い息を吐きながら返す。
「夕方だと…なにが……?」
 額のストーンにキスをし、表情のゆるんだアストラルに遊馬は言った。
「やらしいな、ってさ」
「……記憶」
「しなくていい」
「したい」
 君の言ったことだから、と言われ照れながらその唇を塞ぐしかなかった。






盛んな13歳