抱擁の向こうに 雲が月を隠す。ぼんやりと銀色に光る雲が窓の向こうに。 屋根裏の、二人の間にも不思議な光が満ちている。 二人は向かい合って座っている。まるで鏡会わせの像のように、膝をつき前に向かって傾く身体を両手で支え、互いの瞳に互いの姿を映している。蛍ほどの小さな光が足下から生まれ、漂いながら上へ昇る。天井に触れると消えてしまうが、もしかしたらそのまま空へ昇っているのかもしれなかった。銀色に光る雲まで。その向こうの月まで。 光はどんな色にも変化した。虹のように色は淡く移り変わる。一つ一つは見つめると眩しいほど光っているのに、二人の姿しか照らし出さなかった。屋根裏は相変わらず薄暗く、その中、仄かに二人の姿や表情が浮かび上がる。 いつも淡く発光しているアストラルの光に変化が生じていると遊馬は気づいていた。いつもは光っているのに透けている。ぼんやりと向こうの景色が見える。しかし、今はアストラルしか見えないのだ。その身体は確かに透明感があって綺麗な水色の水のように見えるが、あの存在の希薄な透明感ではない。 遊馬は手を伸ばす。アストラルが一瞬恐れるような表情をして身体をわずかに引く。さっき感じたものが嘘だと証明されるのが恐くて。 すっかり慣れてしまった擬似スキンシップ。触れることなどできないと分かっているから、憚ることもなく抱きしめもした、今日、今夜も。 その時アストラルは熱を感じて声を上げた。遊馬は掌と全身を包み込んだひやりとした感触に息を止めた。 二人はあっという間もなく抱擁を解き、距離を置いた。そして互いを見つめた。 月が隠れて雲が銀色に光った。まるでこの世の月ではないかのような光。遠い未来から運ばれてきたような雲の光。古く分厚い窓ガラスを越して屋根裏を照らし出す。 「アストラル…!」 「遊馬、今のは…」 その先の言葉を紡ぐことができない。唐突に降ってきた幸福は、どこから与えられたのか誰に与えられたのかも分からなかった。二人は同時に手を伸ばし、触れそうになった所で慌てて手を引っ込めた。触れ合うのが怖かったのではない。触れ合えないことが怖かったのだ。この期待と高揚した心が次の瞬間押しつぶされるのではないかと。 二人が触れられないことを身をもって実感したのはあの夕暮れの堤防だ。遊馬はアストラルを殴ろうとして、すり抜けてしまった。あの時は怒りまかせの感情があった。しかし今は目の前の相手が愛しくて、触れられなくてもいいからせめて抱擁めいたものをしたくて伸ばした腕だった。その手が何かを掴んだと思ったら幻だったと思い知らされるのは…。 「ダメだ」 遊馬が呟いた。 「アストラル」 名前を呼ぶと相手も頷く。 「怖がるの、やめようぜ」 「遊馬…」 「今までだって触れなくてもお前のこと好きなのは変わらなかった。お前はオレの傍にいるじゃないか。それだけでもオレは幸せなんだ」 遊馬は床についていた手を離し、アストラルに向かって伸ばす。 「怖がるなよ」 「かっとビング、だな」 「かっとビングだぜ」 アストラルも手を伸ばす。 二人の身体はわずかに傾く。そして掌が小さな音を立てて触れ合った。 小さな悲鳴と息を飲む音。 それから遊馬が身体ごとぶつかるようにアストラルを抱きしめた。 何も言わなかった。呼吸さえ恐れるようにとどめ、息苦しくなっては遊馬が鼻で大きな息をした。アストラルは瞼は開いているものの、もう何の姿も見えないと思った。視覚を凌駕して遊馬の熱が彼の感覚器の全てを支配していた。 足下から生まれる光はアストラルの表面に触れると、遊馬の肌に触れた時と同じように弾かれ、色を変えて天井に昇った。遊馬はそれを確かに見た。その背中に、その腕に、それから髪に触れると光が弾かれるのと同時に髪も少し揺れた。遊馬はゆっくりと相手の髪に触れた。本当に、髪の毛、と片言が頭に浮かんでは消える。 アストラル。少しひんやりしている。セノーテの水みたいだ。あの洞窟の底、透明な水色の泉。オレはそこで泳いだ…。 遊馬の瞼の裏でぱちぱちと火花が弾ける。 オレたちは出会った。血を代償に。与えられた血を得てアストラルは姿を現した。オレの神。セノーテの水と同じく清らかな姿。アストラルはオレの名前を呼んだ。オレの名前を、遠い昔から、何度も何度も。オレは返事をした。触れ合って、これまでも、何度も、オレたちは…。 赤い神殿、白い漆喰の道、深い緑の森、全てが銀色の霧で覆われる。その中で手を伸ばして、オレは、アストラルと離れてしまわないように、あの扉の向こうへ彼が消えてしまわないように、手を、手を。 「アストラル!」 銀色の光が目の中で弾ける。 遊馬は自分の声にびっくりして目を覚ます。 まるで夢を見ていたかのようだった。腕の中でアストラルの身体もびくりと震えた。 「遊馬…」 溜息のような声が耳を撫でた。 ゆっくりと腕をほどき、互いの顔を見合わせた。 アストラルの両目からは静かに涙が溢れていた。遊馬はそれを見つめ、自分の目の奥もじわじわと熱くなるのを感じた。 ぼろりと涙がこぼれるとアストラルの唇がわずかに開いた。しかしかけるべき言葉はどこを探しても見つけることができず――これかと思った言葉も立ち昇る光のように指の隙間をすり抜けてしまう――声ではなく小さな息がほんの少し漏れただけだった。 涙は止まったかと思うとまた溢れ出た。遊馬もアストラルも、相手の顔を見ていると自然と湧き出てくる。 もう一度、とアストラルが囁いた。 え、と遊馬も囁き声で返す。 「もう一度、さっきのように…」 でも、と目を伏せるとまたきれいな涙がさらさらと頬を流れ落ちる。 「君の顔を見られなくなってしまうのが、いやだ」 強く両手を握りしめた。 「うん」 遊馬も泣き笑いになりながら、また新たな涙を流した。 「オレも」 時間が止まればいい、と遊馬は生まれて初めて思った。夜が更けるのも明日へ向かって時計の針が進むのも全部止めてしまいたい。夜明けと共に魔法が解けるのはどこの世界でもお約束だ。 起きていたい。ずっと互いの瞳を見つめていたい。床の上に寝転んだ後も二人は手を離さない。会話はなく、名前さえ呼ぶことはなく、互いの呼吸だけを聞いている。思考は視線に溶け、互いの中に溶けこむ。 遊馬は身体が水色の水の中へ沈んでゆくのを感じる。 洞窟の奥、セノーテの水の中へ。即位する前のことだった。水底にある冥界への扉を見てみたくて、一人でこっそり忍び込んだ。 月夜のセノーテ。細く射す月の光。それを伝うように底へむかって泳いだ。しかし不意に月光を見失って、真っ暗な水の中で方向感覚を失った。どっちが水底なのか分からなくなった瞬間怖くなり、大きく息を吐いた。息苦しいのに、水面も分からない。必死で藻掻いた。恐怖が全身を支配する。伸ばされたまま硬直した手を誰かが優しく取った。 柔らかな水に包まれてゆっくりと水面に浮上した。水を吐き出し、大きく息を吸い込む。咳き込む声が洞内に反響した。 細い月の光が射している。涙が流れ落ちた瞳に、その姿がかすかに映った。 「アストラル」 遊馬は囁きかける。 「あの時助けてくれたのはお前だったんだな」 「私の小さな王」 アストラルが囁く。捧げられた血が唇を濡らしている。二人はもう決して互いを離さぬよう、強く抱きしめる。 周囲の景色が銀色の霧に隠れてしまう。滴るような緑の森、月光に輝く白いサクベ、血のように赤い神殿も、そしてとうとう二人の姿も。 屋根裏部屋の床の上、遊馬は眠っている。アストラルの姿は金色の霧となって皇の鍵に吸い込まれた。あとはその寝顔を、雲から顔を出した月が静かに照らすだけだ。
2011.11.3 10話に1回は古代マヤ妄想
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