I LOVE YOU だけ




 本の言葉だったのかもしれない。
 滅多に読みはしないけれども。
 ならば音楽かもしれない。休みなんてあってなきが如しの姉が今日の夕方には何からも解放された顔でサンルームのソファに寝転んでいた。つけっぱなしのテレビから流れていたあの歌かもしれない。他には宿題に出された英語の訳文とか、映画のポスターとか、何でもいい。どこにだって溢れている。昔から何億、何百億という人間が伝えてきた言葉だ。
 遊馬がその言葉を言ったのは、真夜中の屋根の上だった。アストラルと二人でそこに上り夜空を眺めるのは初めてのことだ。真円に近い月が冴え冴えとした光をハートランドシティに投げかけている。
 アストラルはすぐ傍に浮かんでいた。だから遊馬は首をひねって彼を見上げ、言ったのだ。
「オレ、お前が好きだよ」
 なんて簡単な言葉。それなのに、これを言うために何百年もの時間をかけた気がする。しかし口からその言葉が出る時、遊馬はこの上なく軽い心で気負いもなく優しい笑顔さえ浮かべることができた。言い終えた微笑みの中で遊馬は少し驚いたほどだった。ああ、オレは本当のことを言った。心の中で育ててきたものが言葉になって…、そうかオレは本当に目の前のこいつが好きなんだ。
 そして目の前のこいつ、はわずかに目を見開きじっと遊馬を見つめている。無表情ではないのが、今の遊馬にはちゃんと読み取れる。アストラルは中空からそっと下りてくると、遊馬の隣に座る。その目は遊馬を見つめたままだ。
「私のことが好き?」
「そうだよ」
 触れ合うことのない手を重ね合わせる。アストラルはすり抜けた自分の指、すり抜けた遊馬の手を見下ろし、また顔を上げた。
「なぜ…今言ったのだ」
「今?」
「私はなにか君を喜ばせるようなことをしただろうか。君の感情を動かすようなことを」
 私たちはただ星を見ていただけだ。  アストラルの声は小さい。遊馬は自分の手指を広げてみせた。するとアストラルの手も同じように真似をする。手を握り合うような仕草をする。それはすり抜けて重なり合う。アストラルの手首の先は遊馬の手の中に溶けてしまっている。
「今日も後悔することがないって思ったから」
 再び視線を合わせて遊馬は言う。
「多分、今世界の終わりが来てもオレは後悔してない」
「私には…それは困る」
 へへへ、と遊馬は笑いアストラルはそれに対して、君は今日のデュエルも負けたのに悔しくはないのか、と詰め寄る。
「放課後デュエルは負けちゃったけど…そりゃ悔しいけど、でも後悔はしてない。明日もっと強くなろうって思えるんだ」
「それでは矛盾している。今世界が終わっても、と君は言ったのに」
 明日やりたいことがたくさんあって、それができないのは残念かもしれないけどさ、と遊馬は言う。
「でも今日ああしとけばよかったとか、そういう嫌な気持ちには絶対ならない。帰ってきたら姉ちゃんが昼寝してたのにタオルケットかけてあげたり、ちょっと早い晩ご飯だったり、今こうやって一緒に星を見たりしたことがさ、オレの心の中でパズルみたいにはまってくんだ。そしたらお前に言いたくなったんだよ、好きだって」
「…君の論理は分からない」
「今日してきた何もかも全部、これを言うためにあったみたいな気がしたんだ。そしたら何も恐くなくなった」
 遊馬が沈黙すると、アストラルももう何も尋ねようとはしなかった。
 二人は見つめ合ったままお互いの瞳の中に映るものを追う。それは星の光であり、天体観測には少し眩しいほどの月明かりであり、言葉にならない対話だった。
 不意に遊馬の瞳が潤む。
「触りたいな」
 独り言のような、同意を求めるような語尾の揺らぎだった。しかしアストラルは頷いて、遊馬に向けて額を擦り寄せる。
「オレの平熱はだいたい三十六度五分」
「あたたかいのか」
「お湯だったらぬるい。空気だったらすごく暑い。お前が水みたいな温度だったら、オレは熱いかも」
「私は私の体温も知らない」
「でもあの時」
 遊馬の目に光が宿り、間近からアストラルを射貫く。
「合体したとき」
「ゼアルになったとき…」
「オレたちの身体は熱かったよ」
 急に遊馬の目の前からアストラルの表情が消える。薄い水色の光が視界を包み込んだかと思うと、波が静まるようにおさまる。アストラルは手を伸ばし、柔らかく遊馬の身体を抱いていた。ところどころ重なりすぎている。密着というよりも触れたその場所が溶け合っているかのように。
「私には今世界が終わってもらっては困る。でも遊馬、私も君が好きだ」
 耳元で声がした。少し震えている気がした。
 アストラル、とその身体の中に呼びかける。手を伸ばして背中の模様をなぞればまるで触れていることが分かるかのようにアストラルは、遊馬、と呼んだ。
 太古の海の波音、恐竜のいななき、熱帯雨林にひそむ小鳥の囀り、月夜を泳ぐ鯨の歌、そして人間が何度も声に言葉にしてきたものを、遊馬は今一度、まるで自分とアストラルの間だけに通じる言葉であるかのように囁いた。
「好きだぜ、アストラル」






まだ、触れない。