睡眠透過音




 遠雷が空気を震わせる。誰かの声が聞こえたような気がするが、それはいつも耳の中でだけ響く記憶だ。頭にも心にも残っていないけれども、鼓膜と、その奥のカタツムリのような器官の中でこだまし続ける誰かの声。小鳥や鉄男の笑い声も混じっている。先生の授業の言葉も。どんな場面で聞こえたそれなのかは全く蘇らないのに、声は聞こえてきたその時のまま鼓膜で跳ねる、蝸牛の中を電気信号になりながら走る。
 遊馬は自分が夢を見ていることに気づいていない。音だけの聞こえるその世界で、誰かの姿を探そうとする。小鳥も、鉄男も、委員長も声がするのに。キャッシーの声だってはっきりと聞こえるのに。先生は自分の名前を呼んでいるのに。誰の姿も見えない。
 その世界は暗くはなくて、かといって景色が見える訳でもない。瞼は開いているのによく見えない。壊れかけたAR・ヴィジョンの中にいるみたいだ。
 走っているのに景色が変わらない。自分が走っているのかどうかも分からなくなる。自分の姿さえ不明瞭になる。そもそも見えてはいなかった。オレは誰だろう。手が自然と胸の上を押さえる。
 その時、掌に感触が蘇る。硬い金属の尖った先が柔らかな掌を刺す。常につめたくひんやりとした手触り。遊馬はそれを強く握りしめる。皇の鍵。波が引くように、耳から音の洪水が消える。あたりの風景はゆっくりと影を射し輪郭を明瞭にさせる。切り立った断崖、峰の上を渡るような細く険しい道。遊馬はその目にしっかりと認識する。
 一本の道が自分の目の前にのびている。ジグザグに折れ曲がりながら、自分をあの門へと導こうとしている。悪夢の門。鎖に閉ざされた扉。ここにやってくるのは久しぶりだ。鍵を使ってそれを開いた時から、もう夢は見なくなっていたのに。
 遊馬は道の先に目をこらす。扉は開いているのか。足下の道はリアルなのに、今扉は黒い霧に覆われている。よく見えない。どうなっているのだろう…見たい? いや見るのが怖い。怖いという葉を認めたくなければ、もういいじゃないか、オレはあれを開けたんだから、今更見る必要なんて、と目を背けることもできそうだが。
 遊馬の心が揺れると、足下もぐらつく。今まで一度も踏み外したことのない道を、遊馬は踏み外す。
「遊馬!」
 声がする。
 その声は鼓膜の上でだけ跳ねるものではなかった。遊馬の目にはその姿が映る。遊馬は目の前に現れた彼の名を呼ぶことができる。
「アストラル!」
 びくりと足が動き、宙を蹴る。バランスが崩れてハンモックは大きく揺れるが、遊馬は持ち前の運動神経で落下を免れる。
 揺れがおさまり、遊馬は大きく息を吐いて四肢の力を抜いた。視線の先には時計がある。暗闇に慣れた目が針を読む。寝入ってから、多分まだ一時間も経っていない。
 アストラル、と声に出さず呟いた。目が自然とその姿を探していたが、青白く発光するその姿はどこにも見当たらない。
「なんだよ」
 嗄れた声で遊馬は呟く。
「なんでこんな時はいないんだよ」
 手が皇の鍵を掴んでいる。そのひやりとした手触りに心臓の鼓動が静まる。もう一度深く息を吐き、遊馬はハンモックに全身を預ける。
 ゼンマイと歯車で動く時計の音が聞こえる。夢の中で聞いた声より確かに鼓膜を震わせる音なのに、それは遊馬を包み込む静寂を際立たせる。ものすごく、静かだ。何か声を出せば、その瞬間情けないほど心細くなりそうで、遊馬は口をつぐむ。ただ皇の鍵を握りしめ、闇の中に目を慣らす。
 眠気はすっかり身体から退いてしまっていた。どうすれば、また眠くなるのだろう。あの夢に陥るまでは、まったく自然に眠くて一直線に眠ってしまったはずなのに。アストラルにおやすみを言って、瞼を閉じたら、もう…。
「アストラル…」
 口をついて出た名前は思ったとおり心細げに転がり落ちた。遊馬は眉を寄せ、瞬間的に生まれた不機嫌を飲み込む。
 だがその時、目の端を光の霧のようなものが掠めて、何、と思う間もなく傍にアストラルの姿を捉えている。
「まだ眠っていなかったのか?」
 不意に姿を現したアストラルは軽く夜の風景を見回して言った。
「…寝てたよ」
 不機嫌そうな声で遊馬は答えた。
「目、覚めただけ」
「睡眠を妨害された?」
 お前はどこに行っていたんだ、と言いたかったが、急に訊く気も失せた。
「夢、見た」
「夢?」
 そういえば夢はどう説明したらいいのだろう。アストラルは眠らないのだ(多分)。眠らない相手に睡眠と夢を見るメカニズムを説明するのは難しい上に、遊馬の語彙と今の知識ではなお困難だ。
「お前も」
 ハンモックからアストラルの綺麗に見開いた目を見上げる。
「記憶が戻ったら、見るんじゃねーの?」
「記憶の反芻か?」
「はんすう?」
 遊馬が聞き返し、今度はアストラルが黙った。感情のない瞳の中にも、今彼が色々考えているのだろうことは何となく読み取れる。
「別に、馬鹿にしてるとか言わねーから」
「繰り返す、ということだ」
「ん…」
 遊馬は夢の内容を反芻した。
「似てるかも」
 真夜中、静まりかえった中で交わす会話は、きっと本当なら声はぼそぼそと籠もるものだろうに、アストラルの声は心地よいほどに遊馬の耳に届く。自分の声にも、今は心細さはない。
「お前が出てきた」
 遊馬が言うと、ほう、とアストラルは小さな声を上げた。
「私が、君の夢の中に」
 君は眠りの中で私の記憶を反芻した、と呟き、ふとアストラルは言葉を止めた。
「ならば、今の私が夢を見るとしたら君の夢か、遊馬」
「どうして」
「記憶の反芻なのだろう?」
 やかましい夢になりそうだな、と真顔で言うので蹴るフリをしたが別段、怒った訳ではなかった。
 まばたきをする瞼がいつの間にか重くなっていた。遊馬はそのまま目を開けず「もう寝る」と言った。
「それがいいだろう」
 アストラルも言う。
「おやすみ、遊馬」
 まるで寝かしつけてくれるような言葉だ。
「おやすみ」
 少し小さい声で返した。
 また遠雷が聞こえた。しかしそれはもう遊馬の耳に誰かの声を蘇らせることはなかった。雨が降り出し、窓を叩く。静寂の上に雨音が降りかかる。それさえ、眠りを妨害するにはあまりに静かで。






2011.8.5