翡翠の夢 雲の匂いがする。雨をたっぷり含んだ雲の匂いだ。絡み合い天を目指す木々の隙間から遊馬は空を見上げる。濃い霧がすぐそこまで迫っている。熱い雨の予感。待ちかねた雨。遊馬は木に登ろうと手をかけて、その手首を彩るのがいつものバングルではなく、翡翠の深い緑が彩っていることに驚く。しかしそれも一瞬のこと。彼は思い出す。自分が何者であるか。この緑の王国が、赤い神殿と漆喰の道の輝く都市が誰のものであるか。 願いが聞き届けられたのだ。せっかくの雨が降るというのに王がいないとなれば大騒ぎだ。またこっそり抜け出したのがバレてしまう。遊馬は舗装されていない森の中、木を岩を蹴り自在に駆ける。 「急いだ方がいい」 耳元で声がする。 「もう降り出すだろう」 遊馬はその声を振り返って笑う。そして発音したことのない言葉でその名前を呼ぶ。すると金の瞳をした彼の神は優しく微笑むのだ。 そうだ、オレは。遊馬は思い出す。オレは王だった。神官と貴族と何万の民を従えてこの国に君臨する王だったのだ。神と言葉を交わし、星を読み、月と太陽の道をひもとく者。従えた全ての命の行く先を示し、先を切り拓く王。光をもって緑に包まれた国土を照らし、雨を呼び、命を育む王。本当はこんな風に遊び回っている暇はないのに。 しかし手を伸ばすと、彼の神もまたそのほっそりと美しい手を伸ばす。翡翠のようにひやりと心地良いその手を握り、遊馬は加速する。森を駆け抜け、鳥の歌を歌う。すると神も歌うのだ。二人の歌が雨の前の森に響く。 そして彼の王国へ。二人の出会った神殿へ。神へ祈りを、喜びと感謝を。血と酒と舞踊が捧げられ、遊馬はその言葉を聞く。松明はいつまでも明々と燃えていた。静まりかえった玉座で二人は話を続ける。 そうだオレはセノーテを見に行ったんだ。今年の渇きはひどかった。生贄の数、青く塗られた彼らの顔を遊馬は覚えている。金盆と一緒に沈めた真っ青な身体。セノーテいっぱいに広がりいつまでも消えなかった波の影。雨が降ってよかった、と遊馬は何度目かに呟いた。彼の神は静かに笑っている。 「王様って言うけど、オレに雨を連れてくることができるわけじゃない。お前と出会えたからオレは王としての務めをまっとうできる。お前がいなきゃ、オレはちっぽけな子どもだったんだ」 「そんなことはない」 冷たい指が頬を撫でる。それは暗闇の中でも清らかな光を放つ。 「君がいなければ私も私の務めを知らなかった。私という存在さえ知らなかった」 遊馬はその手に自分の手を重ね擦り寄せる。 「オレたち、いつまでも一緒にいような」 黄泉の国へ向かう時も、生命の樹の木陰で休む時も、そう言うと彼の神は黙って遊馬を抱き寄せる。 「私の声を覚えていてくれ。風の声を、蝶の羽ばたきを、鳥の歌を、雨の囁きを。私はいつでも君と共にある。風が吹き去ってもまた巡って私たちは出会うのだよ」 「オレは離れないでくれって」 言っているんだと言おうとして、その唇は塞がれる。清らかな彼の与えてくれる接吻は言葉以上に饒舌で、遊馬を包み込む彼の存在そのものが優しく魂をなだめる。 触れて、溶け合い、二人は言葉を超えて心を交わし合う。遊馬は神の名前を呼ぼうとする。オレの神、羽毛ある蛇、ククルカン…。 「アストラル!」 叫んだ瞬間、遊馬は背中から床に墜落する。 「いってえ…」 見上げると頭の上でハンモックがゆらゆらと揺れている。落ちるなんて久しぶりだ、と思いながら急に大声を出した喉と身体が急な衝撃に耐えきれず遊馬はむせる。身体を丸めて咳き込んでいると、うるさく響く自分の咳の向こうから、遊馬、遊馬、と呼ぶ声が聞こえた。遊馬は涙の滲む目で声の主を探した。発光する半身。濁りない水のような身体。 「あ…」 アストラル、と呼ぼうとしたが咳は止まなかった。 「大丈夫か、遊馬? 遊馬?」 アストラルは遊馬の傍に膝をつき、じっと見守っている。人間ならば背中や肩を撫でようとする、そういう身体に染みついた記憶や知識がアストラルにはない。何もできず、見守るだけだ。 「だい、じょう、ぶ」 遊馬は途切れ途切れに言い、ようやく身体を起こした。 「びっくり、しただけ…」 「私も驚いた」 呼ばれたと思ったら君が苦しんでいるから。その表情に浮かぶ感情は随分豊かになったが、今のそれは心配すると言うより悲しそうに見える。 「大丈夫だよ…」 遊馬は笑顔を浮かべて思わずアストラルに向かって手を伸ばす。肩を抱こうとした手はすり抜け、遊馬はなぜかそのことにとても驚き、アストラルも少し目を見開いた。 「あれ…なんだろ…」 触れないと知っていたはずなのに、忘れてしまっていた。遊馬はそれでも少し納得いかないかのようにもう一度手を伸ばし、違えようのない事実をつきつけられる。 「遊馬」 アストラルはただ静かに微笑んで遊馬の胸にもたれかかる。体重も質量もないアストラルの身体は、風のように遊馬の腕の中に収まる。遊馬は両手でアストラルの肩を掴む。掴むことができない手を一度すり抜けさせ、今度は柔らかく抱く形に腕を曲げた。 「夢を見たんだ」 「夢…」 「風の音とか、鳥の声とか、雨の降る匂いは覚えてるのに…」 君は私の名前を呼んだ、とアストラルが呟いた。 「そうだ」 遊馬はアストラルの首筋を見下ろす。 「お前の名前を思い出したんだ、オレ」 風の声、蝶の羽ばたき、鳥の歌、雨の囁き…。歌うようにアストラルが囁くのが聞こえる。本当に今そう囁いているのか、夢の中の記憶か。 どちらでも構わなかった。 「アストラル」 遊馬は心の底から湧き上がってきた言葉を囁いた。 「オレの傍にいろよ」
10話に1回古代マヤ妄想
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