君と砂漠をはるばると デッキはデュエリストの魂だから、と遊馬はいつかのアストラルの言葉をなぞる。 「これがなくなったら、オレ死んじゃうのかなあ」 土曜の午後の光が車窓から射す。わずかに混んで見えるモノレールの車内は、しかしぽつぽつと空席も見えて、立っているのはほとんど連れだった学生だ。 遊馬は端の座席に腰掛けカードを一枚一枚捲る。座席の途切れた隣に佇むアストラルはいつものように腕組みをして遊馬の手元を見下ろす。 「デュエルのない世界って想像つかないな。何すればいいんだろう、毎日」 「それに代替する文化を発生させているのかもしれない」 「だいたい?」 遊馬は尋ね返す。 周囲の乗客は遊馬が乗り込んだ時から延々と独り言を言い続けているようにしか見えないから、もう見ないふりをしている。 「かわりのもの」 アストラルが短く説明する。 「…最初からそう言えばいいじゃん」 「君はもっと言葉を覚えるべきだ、遊馬」 正しい言葉を、と言われハクションのことかと思い出すが、アストラルだってイカサマとイササカを間違えたのだ。これは遊馬のせいではない。 モノレールは静かに駅のホームへ滑り込む。遊馬は背後の窓を振り返り、あ、と小さな声を上げた。 「シャーク」 アストラルも振り返りその姿を見つけてうなずこうとした。次の瞬間もう一台のモノレールが到着しホームの景色を隠してしまう。遊馬とアストラルは二つの窓を越して、隣に並んだ車両の中を覗き込んだ。 「シャーク、乗ったみたい」 「ああ」 「どこ行くんだろ」 それはアストラルにも答えられない。凌牙は座席には座らずドアの傍に佇んでいた。ちょうどアストラルが遊馬の隣に佇むように。 ドアの閉まる警告音。遊馬たちの乗ったモノレールが動き出す。遊馬は首を捻って凌牙の乗った車両を見送った。 「あれ、知らない所に行くんだよ」 「知らないところ」 「レールが、ほら」 遊馬の指は大きくカーブしたレールを指さしなぞる。 「向こう、オレ、行ったことないんだ」 「何がある場所なのだ」 「知らない、全然」 土曜の午後の光は大きなカーブを行くモノレールの車体を銀色に光らせる。魚が空を飛ぶようだと思った。空飛ぶ魚がいるんだよ、と遊馬は呟いた。 「エアロシャークのように?」 「ちげーよ。羽があって、海の上スレスレを飛ぶやつ」 トビウオっての。刺さったら死ぬんじゃなかったっけ、と遊馬は笑った。 笑いながら手の中のデッキを仕舞う。次の駅で降りなければならない。家に帰らなければならない。 似たような作りなのに、どこについても駅のホームはまるで違う景色だ。大勢の人波と一緒に遊馬はモノレールを降りる。ホームに降り立つと、後ろからアストラルがついてきていることを確認した。 「君に心配をされるとは」 アストラルは息を吐く。 「言っただろう、私は君と離れたくても離れられない」 「でもお前はなんにも知らないから、先輩としちゃ心配なんだよ」 遊馬は手を伸ばす。 「手、繋いでやりたいくらいだよ」 するとアストラルは黙って遊馬の隣に並んだ。二人で改札を抜ける。 土曜日の午後、ごったがえす構内。今日も仕事で走り回るサラリーマン。どこかへ行く家族づれ。部活帰りの学生が大きなスポーツバッグを抱えてたむろしている。その向こうには見慣れた景色。家までの道のりは分かっている。 「アストラル」 遊馬はぽつりと呼んだ。 「デュエルがない世界には、オレたちもいないのかな」 「…遊馬?」 「デュエルがないとオレの夢もなくなっちゃう。お前が持ってたのもデュエルの記憶だけだろ」 日が眩しそうに遊馬はまばたきをする。 「吃驚した」 次に瞼を開いた遊馬は、目を見開いてその景色を見ていた。 「やばい」 「なにがだ、遊馬」 「オレ生きてる」 なにを当たり前のことを、とアストラルは遊馬を見下ろし、遊馬は驚きと新鮮さの奥に唐突な未知への恐怖をかすかに透かしてアストラルを見上げた。 「すげえな」 真顔でそう言い、一歩踏み出す。しかし向かった先は駅の外ではない。券売機の前だ。アストラルはその隣に並びながら、遊馬、遊馬、と呼びかける。 「どうしたというのだ」 「どこか行こうぜ」 遊馬は財布にありったけのコインを投入してからアストラルと視線を合わせた。 「オレとお前のためだけにさ」 そして投入金額を睨んで、割る二の、余りはいいから、とぶつぶつ呟く。アストラルは口を挟みかけて、きゅっと黙った。遊馬は二人分で一番遠くまで行ける切符を買った。見慣れない地名のボタン。二人分のボタン。二枚の切符とわずかなおつりのコインが吐き出される。 くるりと振り返れば発車時刻は迫っている。 「行くぞ」 遊馬は改札に向かって駆けた。しかし改札は二枚の切符の処理を迷ったのか目の前で閉じてしまう。駅員がやってきて、戻された二枚の切符を手に取った。 「往復なら帰りに使いなさい、君」 「違います、二人分」 遊馬の言葉に駅員はぎょっとして遊馬の背後を見るが、そこには誰もいない。ちなみにアストラルはというと、遊馬の隣、改札を踏むように浮かんでいた。 「二人分…?」 「はい」 遊馬は笑顔で返事をする。 「二人でいいんです」 駅員は手の中の切符を一枚ずつ改札に通し、遊馬に渡した。 「ありがとうございます!」 遊馬は駅員に手を振ってホームに向かって走る。アストラルも一度だけ駅員を振り返った。彼は不可思議なものを見たように呆然と遊馬の背中を見送っていた。 「いいのか?」 今度はアストラルが尋ねた。 「なに言ってんだよ」 遊馬はアストラルに対しては眉を寄せて言った。 「オレたち、二人で行くんだろ」 当たり前のことを言うなとでもいうように。 ホームに並ぶと向こうからやってくるモノレール。遊馬は手をかざしてそれを見る。涼しい風を巻き上げて目の前に到着する車両。静かな音を立ててドアが開く。さっきのように降りる人間はたくさん、乗り込む人間はその半分くらい。遊馬は悠々とボックス席に座る。 「アストラル」 目の前を指さすと、アストラルは少し戸惑いながら座席に腰掛けた。 「変な感じ」 遊馬は笑う。 「少し落ち着かないな」 言いながらもアストラルは窓辺に頬杖をついた。 モノレールはしばらく街中を走った後、工場地帯を抜けて海の上を走り始めた。 うわあ、と遊馬が声を上げた。眼下の海はきらきらと水面を光らせ、心地良いスピードで過ぎて行く。海の上を飛ぶような景色だ。 「トビウオも、このように?」 不意にアストラルが尋ねる。遊馬は目をぱちくりさせてアストラルを見たが、また視線を窓の外に落とした。 「トビウオはこんなに高く飛べないけど…、こんな気持ちかもな」 対岸は見えるものの土曜の陽の中で霞んでいる。光は白く眩しく、行く先に何があるのか予想がつかなかった。 「好きなものの話しようぜ」 急に遊馬は言った。 「君の好きなものはデュエルだろう」 「それ以外でさ。オレは屋上とか、高い所が好き。寝転んだら空しか見えないだろ。ああいうのが気持ちよくて好き」 お前は、と尋ねるとアストラルは頬杖をついたまま視線を海面から少し持ち上げて、そうだな、と呟いた。 「好きという感情は難しい」 「難しいんじゃなくて、お前が難しく考えてるんだよ。好きなもんは好きでいいの」 「では、君が好きだ」 遊馬、君が。 アストラルは流し目に視線をやり、微笑んだ。遊馬はくっと息を止める。表情が固まる。それから大きく、大袈裟に息を吐き、うは、と言って表情を一気に崩した。 「オレ?」 「そう、君」 「一番にそれなわけ」 「もちろんだ」 遊馬は身を乗り出し、アストラル、とたしなめるように言った。 「オレは大事なことは最後まで取っておこうと思ってたんだぜ?」 アストラルは手の甲の上にのせていた顎を離し、遊馬と向き合った。 「最後のそれを聞くまで、私はあと幾つ君の好きを聞いたらいい?」 「聞きたくないのか?」 「君のことなら何でも、幾つでも」 遊馬は目を細めて笑い、好きなものを指折り数える。デュエル飯、優しい時の姉ちゃん、オボミ、小鳥も鉄男もみんな大事だ。おやつ。両親が残してくれた写真。朝日が昇るハートランドシティの景色。それから…。 ある時急に言葉が途切れて、遊馬は顔を上げる。アストラルの金色の瞳が今は少し優しい表情を湛えて自分を見ている。 「やっぱお前かな」 アストラル、と感慨深げに名前を呼び顔を近づける。アストラルがテレビで見た礼儀に則って瞼を伏せようとしたが、しかしすり抜けてしまう二人がその真似事をする前にモノレールは対岸に到着する。駅ではまた人が乗り込んで、さっきより少し混んだ。 遊馬はボックス席を家族連れに譲り、ドアの傍に佇む。 「シャークの真似」 隣のモノレールに乗っていた凌牙のポーズを真似する。両手をポケットに突っ込んで、つまらなそうな顔で外を見る。 「君がやると格好をつけすぎだな」 アストラルはその隣に腕組みをして佇み、遊馬のポーズと線対称に外を眺めた。二人の額は触れそうな距離で止まる。光は遊馬の分だけ床に影を作った。 二人の切符は海水浴場まであと一駅というところだった。遊馬はまた改札で駅員を呼んで二人分の切符を渡し外に出る。駅前の案内板を見ると、海水浴場はまだ先だが、砂丘がずっと続いているらしい。ほんの小さな街だった。大通りを突き抜けると、すぐ海の側に出た。 「すげえ」 遊馬は躊躇わずコンクリートの低い壁を乗り越え、砂の上に降り立つ。砂の丘というようにそれはどこまでも続く。海までは結構な距離がある。 「砂漠みてえ」 細かな砂に足をとられながら遊馬はゆっくりと歩く。アストラルもその隣に並び、歩くことはしないがゆっくりと移動した。風が吹いて遊馬が手をかざすと、自分も同じようにした。 「お前のこと好きになるとは思わなかったなー、オレ」 遊馬は無邪気に言った。 「お前もそうだったんだろ」 「出会ったばかりの頃は」 アストラルは答えた。 「あの頃と今では私の心は全く変わってしまった。君から、君の周囲から多くのものを学び、私の心は変わってしまった」 「成長したっていうんじゃねえの、そういうの」 オレもさ、と遊馬は言う。 「あの頃とは違うよ。お前のことを好きになる前のお前を思い出しても、今はもう好きだって思っちゃうんだ」 「君のことを、君とのたくさんの時間を、たくさんの君の姿を覚えている」 急にアストラルが黙り込む。遊馬は二、三歩前に進みアストラルがついてこないので振り返った。アストラルは両手を目の前に呆然としている。両目から涙がこぼれている。 「アストラル…」 ざくざくと砂を踏んで遊馬はアストラルに近づく。 「泣いてるのか、アストラル」 「泣く…」 涙は光の滴になり砂の上で弾けて消える。遊馬が手を伸ばすと、それは感触もないのに遊馬の手の上で弾けた。そして細かい光の砂になって消える。触れられない、しかし涙は遊馬の身体をすり抜けない。 「なんで泣くんだよ」 「遊馬、私は…」 私はどうしたら、とアストラルは早口に呟く。涙を止める方法が分からないらしい。拭うことさえしない。 「笑って」 遊馬は自分が微笑みながら両手を伸ばしアストラルの涙を拭う仕草をした。 「な、笑えよ、アストラル」 すると遊馬の笑顔がうつったかのようにアストラルの口元もほころぶ。少しだけ目元を細め、混乱していた唇が今度は穏やかに、遊馬、と囁く。 遊馬は軽く背伸びをした。横風が吹き、身体がよろめく。そのまま二人は砂丘を海の方へ向かって転がり落ちる。 海の目の前でようやく身体は止まった。遊馬は全身砂まみれのまま転がり、空を仰いだ。隣にはアストラルがうつぶせ、顔だけを遊馬の方に向けている。耳元では波の音がする。 本当に知らない場所にいるのだ。名前も知らない、記憶も思い出もない場所に、アストラルと二人きりでいる。 土曜日もない世界の、沈まない日の下で。 遊馬は身体を起こし、アストラルを見下ろした。笑いかけると、アストラルは黙って仰向けになる。遊馬は腕の中に細い身体をとらえ、静かに静かに、丁寧にキスをした。ちょうど触れたような距離で。ほんの少し目を開いて、アストラルがそこにいることを確かめながら。アストラルも軽く伏せた瞼の下から遊馬を見つめていたが、それが安堵しきったように閉じてしまった。 夕焼けを二人で眺めた。暗くなるまでそこにいた。月が昇って、砂丘は白く輝いた。遊馬は仕方なく、少しびくびくしながら姉に電話をかけた。彼女はもちろん怒って、迎えに行くまで駅前から動かないこと!と遊馬に命令した。 『車で行くからちょっと時間かかるわよ』 「えー」 『えーじゃない。せっかくそっちに行くんだからおばあちゃんも乗せて晩ご飯食べて帰るわよ』 駅前のベンチに腰掛けて、ずっと待っていた。何度かバスがやって来て二人の前で停まった。そのたびに遊馬は、乗りませんと手を振った。 到着した姉は早速遊馬の頭にげんこつを押しつけて叱るが、祖母は冒険するその心意気やよしと言うので、甘やかさないでよ、とまた眉根を寄せる。しかし流石記者、美味しいレストランを見つけていて、そこに嘘はない。午後の間中遊馬たちが寝転んでいた砂丘を見下ろす店でイタリアンを食べた。 帰り道、車はモノレールの走る上の道路を行く。海は今、沈みかけの月に輝いている。 「遊馬」 運転席から姉が呼びかけたが返事はない。バックミラーには後部座席にもたれて眠る遊馬の姿がある。姉と祖母は顔を見合わせて、その後は静かなラジオの音だけが流れる。 彼女たちには見えなかったが眠る遊馬にはそっと寄り添う姿があった。触れ得ない肩を触れ合わせ、軽く額を寄せ合って。 アストラルは月明かりに照らされる遊馬の寝顔を見て微笑み、小さく、彼にだけ聞こえる声で囁いた。 「遊馬」 深く満たされた声で。 「ゆうま」
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