野生の馬




 蓋を下ろした便座に腰掛け天井を見上げると、頭の上に開いた小さな窓から溢れるほどの光が射し込んでその白い壁や天井に反射し、ここがトイレの個室であることも忘れさせるような真夏の空気を作っていた。本当は、もう夏も終わろうというのに。空がひどく青いせいか、光が白く輝くせいか、カレンダーを一枚戻してもう一ヶ月同じ日々を続けられても気づかないのではないかと思うほどの夏の空気。
 凌牙はぼんやりとそれを見上げる。煙草はきれていた。しかし吸いたいとも思わなかった。それにこんな場所では吸わない。だから、何もすることがない。
 半分開いた窓から声変わり前の歌声が流れ込む。一年の合唱だ。もっと言えば知っている、九十九遊馬のクラスだ。
 音楽室に立ち入ったことは一度もない。札付きと呼ばれている自分が授業を、しかも音楽を真面目に受けることなどありえない。
 どこにあるのだろう。歌声は空から降ってくる。多分、建物の一番上の階だ。屋上に向かうためいつも素通りするあの階。周囲の建物より一つ抜きん出た学校の校舎の、更に最上階。廊下の窓からは日がさんさんと射す。真っ白な廊下。凌牙は階段に足をかけ、その光景にいつも背を向けてきた。
 あの廊下を歩いて九十九遊馬が音楽室へ向かう。ピアノの伴奏にあわせて歌っている。低く定まりきれない声を精一杯張り上げて。
 凌牙の口は自然と聞こえてくるそれを口ずさんでいる。合唱曲なんてそんなものだ。耳馴染みのするものだし、それに凌牙は自分の記憶力がすぐれているのを知っている。一度通しで歌われたものを口先だけでコピーするのは簡単だった。嵐の中を野生の馬が駆けて行く。なぜかは分からない、しかしどこまでも駆けてゆくのだ。首をもたげ、尾をなびかせ、稲妻にむかって。
 凌牙は自分の目の中に、一度も見たことのない馬が汗とも雨のしずくともつかないそれで身体を濡らし一心不乱に走る様を見る。暗雲のうねる嵐の空、大地は草木の一本も生えない荒野だ。あの眩しい青白い稲妻の中へ、野生の馬は飛び込もうとしている。凌牙にはそれを止めることができない。まばたきをする。目の表面に映っているのはトイレの小さな窓から覗く青空のはずなのに、不穏な景色の中を馬はまだ走り続けている。
 本当に煙草がほしくなった。馬を殺してやりたいと思った。だから本当に欲しいのは煙草ではないのかもしれなかった。
 馬を殺したいんじゃない。手放したくないのだ。野生の馬は凌牙を乗せてはくれないので。
 爪で抉ったような痛みを思い出した。爪でつけられた傷は常に、そしていつまでもじくじくと痛み続ける。そんな傷が胸の中にあった。空から聞こえてくる九十九遊馬の歌声がかさぶたを剥がし、今再びその存在を明らかにする。
 九十九遊馬がこの世に存在するという事実。それだけで凌牙にとっては傷だった。遊馬に負けたことも、勝ったことも、共闘したことも全てが痛みを引きずり起こした。
 生きている。まだ生きている。衆人環視の全国大会決勝の場で自分の弱さを不正と暴かれたあの日から、この身体も心も生き続けているのだと九十九遊馬の存在が教えている。ほんの数ヶ月前に会ったばかりのやせっぽちのチビのくせに。
 しかし九十九遊馬は迷いもせず走るのだ。こちらへ向かって走ってくるのだ。
 でも、きっと。
 凌牙は歌声の流れ込んでくる小窓から目を逸らし、ぐっと背を丸めた。膝の間に頭を垂れる。歌は背を打つ、背を刺す。今更痛みが恐いなどとは言わない。むしろあいつはオレのことを傷つければいい。もっと意図的に、サディスティックな喜びを持って。そうすれば遊馬は自分の目の前で立ち止まるだろう。そうして傷つけられる痛みなら大歓迎だ、と凌牙は無意識のうちに歯を擦り合わせた。
 遊馬はただ駆けてゆくのだ。そして自分も追い越し青い光の中に飛び込む。九十九遊馬が存在する痛みとは、遊馬を失う未来の痛みだ。遊馬が両手で掴んだ心に十の爪は食い込んで消えない傷を残した。そこからあいつは希望や諦めない心、かっとビングなんてとんでもないものを注入して、オレを太陽の光の下に引きずり出したんだ。太陽に照らされた世界は凌牙には眩しい。だから遊馬の腕を掴んでいようとするのに、次の瞬間には自分を追い越し遊馬は違う名前を呼ぶ。
 本格的に煙草がほしくなり凌牙はトイレを出る。階段の前に立ち、上へ向かって伸びるそれを一段一段上る。授業中の階段はしんとしていて、少し薄暗い。踊り場に至るごとにまたあの夏の空気がかすかに漂う。手の届かない場所に取り付けられた窓。嵌め殺しのそこから覗くのは真っ青な板だ。何でも描いて見せろと挑戦されているようで苛立つ。しかし凌牙の苛立ちなどよそに、音楽室から降る歌声はそこに馬を駆けさせるのだ。
 最上階に辿り着いた凌牙は廊下の端から午後の陽に白く輝く光景を見た。歌声が聞こえてくるのは第一音楽室。凌牙から遠く隔てられた一番突き当たりの教室だった。
 結局、長く見つめることはしなかった。屋上に出ると凌牙は給水塔の影に腰を下ろした。歌声は今や自分の足下を流れている。もう何度繰り返しただろう。そろそろチャイムも鳴る頃だ。この後は放課後でしかない。あいつは来るだろうか、九十九遊馬は。来たとしても煙草を持っては来まい。
 しかし、凌牙は待った。遊馬が一心不乱に駆けてくるのを。欲しがった煙草とは正反対の、気持ちのいい夏の終わりの空気を吸いながら。






合唱曲「野生の馬」