ミクスパシー




 雨音が世界を遮っている。しかし決して思考を邪魔しはしない。二人の間を行き交うテレパシー未満の思考もまた雨に閉じ込められた濃密な静けさの中、水槽の中を通過するニュートリノのようにかすかに発光しているのではないかと遊馬は思った。目には見えないが、その目を閉じれば瞼の裏を青い光が行き交うのが見える。
 二人は向かい合って座り、間に五枚のカードを並べている。他愛もないゲームだ。どちらかが五枚の中から一枚を選び、心の中で思い描く。もう一方はそれを当てる。
 アストラルは最初何枚も連続で遊馬が心に描いたカードを言い当てた。凄い、と思うと同時に、次は当てられないようなもの、と思うのだがアストラルの瞳は真っ直ぐこちらを射貫き、いつもの静かな声が短くそれを言い当てる。
「なんで分かるんだよー」
 とうとう遊馬は声を上げる。アストラルは澄ました顔で
「君の思考をなぞっただけだ」
「読まれ易いってのか?」
「その通りだと言いたいが…」
 新しくカードを並べる遊馬の手を見つめ、アストラルは少し遠くを見るような瞳になる。
「君は時々、全く予測のつかないことをする」
 雨音が沈黙の背景に流れる。遊馬の表情も雨音やノイズのように無表情だったが、それがプッと吹き出すのと一緒に崩れる。笑顔というよりニヤニヤ笑いだ。裏の効果を発動した時に見せる顔。言葉には出さない何かを考えているようだ。
「なぜ笑う?」
 尋ねてみるとニヤニヤはいっそう広がり、んー、と言う声には優越が混じっている。
「お前が分からないっていうの、知らないじゃなくて理解できない?みたいに思ってるの、オレは楽しいな」
「なぜ」
「いつも澄ました顔してるからだよ」
 今度はアストラルがカードを選ぶ番だ。遊馬はアストラルの視線を追おうとするがそれらさらりとカードの上を撫でるだけで、真っ直ぐな視線はまた遊馬の瞳を射貫く。
 何を考えているのか、知りたい。
 きっかけはゲームだ。しかし急に湧き起こったそれは熱望とも呼べるものだった。知りたい。アストラルの心はどこにあるのだろう。考えるのは頭なのに痛くなるのは心、熱くなるのは胸。アストラルも胸が熱くなると言ったことがある。自分の心臓と同じ位置に、アストラルのそれもあるのだろうか。心はその傍に宿っているのだろうか。目は真っ直ぐ自分を見ているのに、今考えているのはカードのこと。
「……これ」
 遊馬は一枚のカードを指さした。すると自分が指さしたカードをアストラルのほっそりした指も指さす。二人は再び視線を合わせる。
「当たりだ、遊馬」
 アストラルは嬉しそうに笑った。
「アストラル…今、嬉しい?」
 尋ねるとアストラルは頷く。
 それから。それから何を考えているのか。どうしてオレがカードを当てると嬉しいのか。考えていることが通じたと思ったから?心が通じ合うのは嬉しい。オレの裏をかくよりも嬉しいのか。
 声に出さず、心の中で問いかける。
 今なにを考えてる?
「君と同じことを」
 アストラルが囁く。
 知りたい。その心の中を覗きたい。その瞳が何を見ているのかを見てみたい、知りたい。その目に自分の姿はどう映っているのか。それはどう心の中に投射されるのか。
 カード一枚を挟んで、ほんの少し二人の距離は近づく。雨に閉ざされた静寂をより濃くしながら、呼吸さえひそめ、お互いの瞳の奥を覗き込む。
 遊馬が映っている。
 アストラルが映っている。
 そして瞳の中の彼らの瞳の上にもまたお互いの姿が映っているのだ。
 それが遊馬には見えた。どこまでも視覚が冴え渡る。瞳の奥の瞳、の奥、の更に奥、が延々と続く。二人の姿は交互に違いを映し合い、交叉した視線はそれ一度で終わらず何度も弧を描いては戻る、再び交わる。三度、四度、数えられないほど何度も何度も交わるそれはいつしか螺旋を描いている。延々が、永遠になる。その底知れなさにハッとした瞬間、目が覚めた。
 雨音が耳に蘇る、現実の音として。遊馬は呆然と目の前のアストラルを見つめた。触れ合えない互いの額が重なり合うほどの距離にあった。息が、切れていた。
「アストラル…?」
 遊馬が手を伸ばすと、同じようにアストラルも手を伸ばす。二人の指先は触れ合わずすり抜け、これが確かに現実であると教えた。
「あ…」
 もう一度呼ぼうとして息がつかえる。遊馬は唾を飲み込み、アストラル、と呼び直した。
「遊馬…?」
 アストラルの声も心許なげに揺れている。
 互いの視線が交わり合う螺旋の先に見たもの。星の光と、宇宙の渦と、遊馬が名前を知らないたくさんのもの。地面のない場所で降る雨のようなもの。虹の中で荒れ狂う吹雪のようなもの。一滴の水の中で眠るような心地良さ。目覚めを促す声。あれは母の声だった。
 視界が急に歪む。あたたかい水の膜が瞳の表面を厚く覆う。かと思うと脆く崩れて、涙となり頬を濡らす。
「遊馬」
 アストラルが目を見開き、小さく叫ぶように遊馬の名を呼ぶ。しかしそのアストラルの瞳にもいっぱいの涙がたたえられていた。
 急にアストラルの息も苦しげにつかえる。遊馬は自分の手を伸ばそうとして、一瞬触れられないことを忘れる。ほんの一刹那だ。思い出すとそれがひどく悔しくて手を拳に握った。大きな瞳の縁でこぼれそうな涙を拭うことも、苦しげな息をする背中を撫でることも。
 とうとうこぼれ落ちた涙は流れ星の尾のように床につく前に消える。
「ゆうま」
 柔らかな声音でアストラルが呼んだ。遊馬は握っていた拳からゆっくりと力を抜く。アストラルはまた嬉しそうに微笑んでいた。
「これがなんなのか私には分からない」
 今や雨音も聞こえない。雨のようにアストラルの声だけが降り注ぐ。
「しかし、今わたしはきみと同じことを感じているのか、ゆうま」
 これは同じものだろうか。きみの心が感じているものと。きみの目から溢れているものと。
 アストラルの言葉は耳からだけではなく、雨粒が一つずつ身体を濡らすかのように遊馬の胸の中に降る。一つ一つが心の中で澄んだ音を立てる。
 遊馬は目を細め、きっと同じだ、と心の中で囁いた。瞼に押された涙がまたぽろぽろと零れて落ちた。
 眠るまでゲームを繰り返す。もうカードはなしに、二人は寄り添い互いの心に手を伸ばす。
 あいうえお、の、あ、は、アストラルのあ。
 い、は、いただきますのい。
 う、は、右京先生のう。
 え、はエクシーズ召喚のえ。
「おやすみ」
 二人の声は重なる。遊馬はくすぐったそうに笑う。アストラルは声に出さず微笑む。
「おやすみ、アストラル」
 遊馬は自分の額を少しだけアストラルと重ね合わせる。
「おやすみ、ゆうま」
 アストラルはその美しい瞳を閉じ、穏やかな微笑みで囁きかける。
 おやすみ、と二人の声は再び重なり合い、やがて雨と静寂が再び屋根裏を満たした。