ハート・スレッショルド




 遊馬の腕の内側に真新しい二つのほくろ。
 アストラルは遊馬たち家族の食卓を後ろから眺めながら、それに気づいた。黒ではない。濃いブルーのインクで描かれた二つのほくろ。肘と手首の丁度中間に二つ並んでいる。 昨日はそんなものなかった。おそらく今朝も。遊馬のことは毎日観察している。気づく、はずなのだ。
 食事が終わると遊馬は洗った箸を持ってきて姉の明里の腕をつつく。彼女は面倒そうにしていたが、それでも苦笑しながら弟のそれに付き合う。腕を差し出して目を閉じる。遊馬が箸の一本、時には二本で腕の内側をつつく。彼女はその数を答えるが、それは時々間違っている。
「な、面白いだろ」
「あたしだって習ったわよ、これくらい」
「でも!面白いだろ?」
 姉という立場からの寛容さか彼女は、はいはい、と笑って一通り付き合ってくれた。
「遊馬、それは何だ」
 屋根裏に戻ってようやくアストラルは遊馬の腕に描かれたほくろを尋ねた。
「これ?」
 腕を指さして遊馬は笑う。
「お前もさっき見てたろ? ヒトの身体って、二個の刺激を見分ける距離が身体のあっちこっちで違うんだぜ」
「見分ける、という表現は正しくないのではないか」
 アストラルは自分の腕をつついてみせる。
「感じ取るのだろう?」
「どっちだっていいよ」
 視覚と触覚では大きく違うと言いたかったが、遊馬が鼻歌を歌いながら宝箱を漁り始めたので、この性格ではうるさがられるだけだろうと諦めた。
 宝箱を漁る、と言っても遊馬はそれを乱雑に扱う訳ではない。雑多に詰め込まれたような品物の一つ一つを取り出し、目当てのものを見つけるとまた同じように元に戻す。取り出したのは色鮮やかな鳥の羽のついた吹き矢だった。鋭い針は全体を黒く塗られている。遊馬はそれを窓から射す光にかざした。
 左手を窓に向かって広げる。それから掌をこちら側に。腕のほくろが見える。手は黒いシルエットとなる。遊馬は掌の真ん中に針の先端をそっと押し当てる。
「遊馬」
 アストラルは声をかけたが、返事はなかった。それはゆっくりと、しかし確実に力を込められ掌の柔らかな皮膚に食い込んだ。遊馬は顔をしかめる。
「遊馬」
 次の瞬間、ぷつりと音が聞こえたような気がして針が皮膚を貫く。遊馬はパッと針を引き抜く。
 掌を革トランクの上に載せ、遊馬はそれを見下ろした。アストラルも後ろから、しかしいつもより傍に近寄りそれをみた。掌の真ん中にぷくりと小さな赤い点。血だ。遊馬はそれを急にぺろりと舐めた。
「どうしたんだ、遊馬。何がしたい」
「慌てるなよ、別に危ないことじゃないって」
 羽根に飾られて針をトランクに突き立て、遊馬はアストラルに向き直った。
「二つの距離が」
「刺激を識別できる?」
「そう、一番短い距離が、手は二ミリくらいなんだって」
 アストラルは顔をしかめるというほど表情を変えた訳ではなかったが、しかし声に不信が混じった。
「君は一点を突き刺しただけだ」
 遊馬は少し笑った表情のまま、答えない。
「腕は、オレ、このくらいだった」
 小鳥に書いてもらったんだ、と遊馬は腕の内側に描かれたブルーブラックのほくろを指さした。
「お前も初めて知っただろ?」
「…観察結果にはまだ載っていなかった」
 にやりと笑い、遊馬は再び針を取り上げる。針の先をアストラルに向ける。黒く尖ったそれは空中で、一番広いのはどこだと思う、と尋ねた。
「考えなければならないのか?」
「クイズだよ」
 アストラルは遊馬の頭のてっぺんからつま先までじろじろと視線を這わせた。皮膚の厚い部分はそれだけ鈍いだろう。しかし足の裏をくすぐられると、遊馬は大声で笑いながら時には涙を流して身悶える。常に接地していることからも鈍感では済まされないだろう。どこだろう。意識されない場所。意識の疎かな身体の部位。
「…背中か?」
 途端に遊馬がつまらなそうな顔をしたので、正解だと知った。くうーっと声を上げて遊馬はうなる。
「でも何センチか知らないだろ!」
「知らない」
「五センチもあるんだぜ、スゲーだろ」
 なにが凄いのかは分からないが、遊馬は得意気だ。遊馬の手にしているのと同じ針を五センチの範囲内に二本刺そうとも、遊馬の背中に刺さろうとも、それが一つの刺激にしか感じられないのだろう。それは少し不思議な気もした。針の刺激でなくとも、例えば二本の指で触れてもそうなのか。
 アストラルは手を伸ばさない。自分の手が遊馬には触れ得ないことは承知している。しかし遊馬は「アストラル、後ろ向けよ」と言った。
「…なぜ?」
「いいからさー」
 せがむので、床の上に座り背中を向ける。ちょうどテレビを見る時のような格好で。
 遊馬は今自分に触れようとしているのだろうか。しかし遊馬も自分に触れられないことは、殴ろうとしてすり抜けてしまったあの日以来、よく分かっているはずなのに。
「アストラル」
 遊馬が呼ぶ。
「お前、自分の背中って見たことある」
「…いいや」
「だよな。鏡があったってよく見えないもんな、自分の背中なんか」
 遊馬の声はだんだん囁きになる。
「お前さ、自分の背中がどんな風になってるか知ってるの?」
 アストラルが答えないと、遊馬の声はわずかに笑いを帯びて囁かれた。
「背中にも模様があるんだよ、お前の背中。前のと同じじゃないんだぜ」
「…遊馬、何をしている?」
「アストラル」
 オレが今なにしてると思う?
 声をひそめて遊馬は尋ねる。
「お前の背中の模様、何でなぞってるんだと思う?」
 針で。羽根で。指先で。分からない。識別の閾値は関係ない。遊馬は自分に触れられないのだから。しかし、触れられても二本の針、二本の指、自分はヒトの身体と同じようにそれを一つの刺激として感じ取ってしまったのだろうか。
「模様、五センチくらいのもあるんだぜ」
「遊馬…」
 囁きを聞いているだけで身体の表面が電荷したかのような刺激に襲われる。刺激を伝えるため、皮膚の上を走り回る。これは一つの刺激? 身体の表面全体を襲うこれは?
「アストラル」
 思わず口を噤む。名前を呼ばれただけなのに、声が漏れそうになった。それは応じる声でも返事でもない、意識の外から湧き上がる声だった。
「いつかオレたち、触れるようになるのかな」
 遊馬の額が触れている、と感じた。背中に。おそらく遊馬が模様と言った、その上に。自分が彼の額にキスをするふりをしても、遊馬はそれを感じ取るように、アストラルもまた今遊馬の幻の体温を感じていた。
「お前の記憶、取り戻そうな」
 アストラルはただうなずき、それから遅れてようやく「ああ」と短い声を発した。一緒に吐き出した息は少し熱を帯びており、震えていた。






2点識別閾値のこと