アンノウン・サッドネス




 オレの目に映ったもの、だいたいオレは見えてて、見えてもだいたい忘れてて、そもそも見えるものなんてたくさんあるし覚えなきゃいけないことは多いしデュエルのことで頭一杯だし思い出は大事だから見えるもの片っ端から覚えておくなんて芸当オレにはできない。
 と思い込んでいたのはオレだけらしくてオレの目とか脳とかはオレの心が気づかない内にそれを雑多に頭の中に仕舞い込んでるんだ。頭蓋骨の中の容積なんてたかが知れてるのに――体重の二パーセントだって覚えてる、何故かと言うと右京先生がでかでかとVサインをこちらに向けたからだ――別に忘れてもいい大したことないと思っていた景色が全部入っているとか、人体の不思議ってマジ不思議。
 その不思議フォルダから溢れ出した雑多な景色の中にオレはシャークを認めて、あ、シャークだ、と思い、やっぱりあれはシャークだったんだ、と頬を緩め、やっぱりシャークだったのかよ、と顔を歪めた。声に出さずうめき机がわりの革トランクの上に頭を落とす。鈍い、ちょっとソフトな音がしてオレのおでこと革トランクはぶつかる。茶色のトランクに、古くて懐かしい匂いのするそれに額を押しつけ背を丸め瞼を強く閉じて神経を集中させる。
 夕飯の時間が遅くなって――理由は忘れた、何でもいい、気にしてない――ばあちゃんが蕎麦屋に連れて行ってくれると言った。姉ちゃんは喜んで車を出した。オレは後部座席から流れる街の風景を見ていた。蕎麦屋は今時手打ちでやってるらしくって、オレは蕎麦よりうどんがいいって、家を出る前は文句言った気がするんだけど、目の前に天ぷら蕎麦が来たらもう文句がない。がつがつ食って、姉ちゃんから箸の持ち方が悪いって怒るのもスルーした。満腹になって外へ出ると、店の若手?なんか同じ店の服を着た若い兄ちゃんがちょっと離れたところのガードレールにもたれかかって煙草を吸っていた。それが様になってて、オレは姉ちゃんが車をまわしてくるまでの間それを見ている。若い兄ちゃんはオレの視線に気づいてちょっとうざそうだったけど、急ににやりと笑った。車に乗り込むと、あんたは煙草なんか吸うんじゃないわよと姉ちゃんが言う。百害あって一利なしじゃとばあちゃんが言う。吸わねーよー、と笑いながら言ったオレは不誠実ってやつで、あの秘密はマジでシャークのトラップだと思った。その次の瞬間、暗いビルの前を通り過ぎた景色が流れた赤い点が光って尾を引いたそう見えたこっちが車に乗って高速移動をしていたから。
 オレはその一瞬、シャークを見たんだ。真っ暗なビルの前で煙草を吸ってるシャーク。つまらなそうな表情を軽く伏せていた。
 瞼を開くとオレは記憶の景色の中からこの屋根裏に戻ってくる。あのどこかでサイレンが鳴っていて車のスキール音とブレーキの悲鳴が聞こえた暗い夜の街角から、穏やかで静かで仄暗いこの部屋に。そして穏やかで静かな場所にいるのにシャークの煙草の火を思い出したオレの胸は何故だか締め付けられて、それがじわじわと気づけば強く痛めつけられてたみたいな痛みで、うう、という声が思わず漏れる。
「苦しいのか、遊馬」
 背後から静かな声。その声に背中を撫でられ、急に息が通る。楽になる。オレは顔を上げて溜息をつき、アストラルを振り返った。勿論アストラルだ。オレのことをこんな声で呼んでくれるのは他にいない。水色で半透明で仄かに発光しているそいつは、オレの背後で床上数センチのところに浮いている。姿を見ると更にホッとして、なんでもねえよ、と答えてやりたくなるが顔が情けなく歪んだ。
「面白い顔だな」
 そいつは遠慮なく言う。
「悪かったな面白い顔で」
「その表情から君の感情を読み取るのは難しい」
 非常に複雑だ、と付け加える。
「言ってみろよ、どう見えるか」
「苦しそうだ」
「んで?」
「誤魔化すための笑いを浮かべようとしている」
「それから?」
 アストラルはしばらくオレの顔を見つめ黙り込んだが、やがて一言、辛そうだ、と言った。
 まあまあ全部当たりだろう。オレにだって自分の感情がなんなのか分からない。ただアストラルがオレを表現しようとする言葉を吟味して、合ってる、ちょっと違う、と考えていたら思いもかけない感情を掘り当てる。まさかと思うが、それは煙草の火が掠めたあの一瞬の景色に刷り込まれている。
「悲しいんだよ」
「悲しい…?」
 今度はその言葉を吟味するようにアストラルが目を細めた。
「お前、ずっと鍵の中にいたから知らなかったと思うけど、今夜シャークを見たんだ。あいつ煙草吸ってた」
「彼はやめるとは約束をしなかった」
「ああ」
 先日シャークを追いかけて煙草をやめさせようとして、できたのは手持ちのそれを捨てさせることくらいだった。
「オレ、シャークが煙草吸ってるの見ると妙に悲しくなるんだ」
「他の人間では違うのか?」
「うん」
 蕎麦屋の前で休憩の煙草を吸っていた若い兄ちゃん。
「格好いいなーって」
「シャークのそれは格好よくない、と?」
「それは…違う気がするけどさ」
「君はシャークの健康を案じているのか」
「肺ガンとかこわいけど、なんか、そういうんじゃなくて」
「君が悲しいと言うその感情は…本当に悲しいのか?」
「分からないんだよ」
 オレはアストラルに向かって軽く手を伸ばす。アストラルは組んでいた手をほどいてそれから少しオレと目線を合わせるように近づいてやっぱり手を伸ばす。お互いに触れられないのは分かっているから、それは寸前で止まる。
「お前にも教えてやれないことがあるのかもな、アストラル」
「君が万能の教師でないことは知っているよ、遊馬」
 アストラルはちょっと微笑んで、オレの呼吸は楽になる。穏やかで静かで仄暗い屋根裏部屋が眠る前にちょうどいい空気になる。
 ハンモックによじ上ってもまだ目を開けていた。アストラルはオレを見下ろしている。
「多分この先シャークが煙草吸ってるのを見かけてもさ、オレ、そういう気分だったらやめろって言ってまた煙草を捨てるのかもしれないけど、見てるだけで何もできないかもしれない気がする」
「後者であれば、もう一度よく君の表情を観察しよう、悲しみがそこにまざっているかどうか」
「お前に分かるかな」
「私は君のことを常に観察しているから、遊馬」
 おやすみ、とお互い静かに囁いてすぐ瞼を閉じればいいんだけど未練がましく目は開いていて、オレは手招きでアストラルを呼び寄せる。アストラルも返事なしで近づく。腕を伸ばすと、それに引き寄せられるようにアストラルが顔を近づけ、額の付近に――革トランクに押しつけていた額に――小さな唇を触れさせるふりをした。それはふりだけで何の感触もない。温度も、吐息も感じるはずがない。でも、オレの心に残っていた最後の悲しみが溶けて、静かに瞼を閉じさせる。
 悲しみの溶けた眠りの中だ、シャークが夢に出てくるかもしれない。もし煙草を吸っていたら、夢の中だ、共犯になってもいいと思った。






2011.10.5〜