シガレット・ブレイク




 給水塔の影、夏も終わろうとしているのに鮮やかすぎる空を見上げる。太陽の光が色を帯びているみたいだ。全てを鮮やかにしてしまう無色の色。空も、光る給水塔の淵も、濃く塗られた涼しい影も。遊馬は給水塔の足にもたれかかり、ぼんやりと空に立ち上る煙を眺めている。全ての色が鮮やかなのに煙草の煙だけ、正体がなくて曖昧なものに見える。
 短くなりかけたそれを指でつまみ、ぎこちない手で灰を落とす。赤く燃える火は影の中で鮮やかで、だから煙だけ曖昧な存在なのが少し悲しいと思った。言葉にするならば悲しいという感情が一番近い気がした。身体の中から悲しさを追い出すように唇をとがらせて煙を吐いた。
「遊馬」
 光の中でも夜闇の中でも鮮やかに輝くその存在は自分のすぐ傍まで下りてきて、遊馬がつまんだそれを指さす。
「君の肉体に悪影響を与えるものなのだろう、それは」
 未成年者の喫煙は健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます、とパッケージの文言を読み上げる。
「君は未成年者だ」
「十三だからね、オレ」
「分かっていてリスクを冒すのか」
「ルールを破る、じゃなくて?」
 アストラルは肺ガン、心筋梗塞、脳卒中、肺気腫と警告文に並べられた病名を読み上げる。はいきしゅ、って何だろうと遊馬は思う。
 昼休み、いつものように屋上の給水塔に向かうと神代凌牙がいた。給水塔の影に佇んで煙草の煙を吐いていた。シャーク、と呼ぶこともできずに遊馬は梯子の下からそれを見上げていた。呼んだら注目が集まるかもしれない。煙草がバレたらシャークはどうなるんだろう。煙草はきっとやめた方がいいんだろうけど、シャークが退学になるのは嫌だ…。悩んでいるうちに向こうからこちらに気づき、不機嫌そうな視線を送って寄越した。
 手からパッケージが落ちた。気づかなかったのか、気にしなかったのか、凌牙はくわえ煙草のまま遊馬の目の前に下りてくると、自分の吸っていたそれを遊馬の唇に押しつけた。ざらりとした味。煙が喉の奥を突く。
「これでお前も退学だな」
 凌牙はそう言い捨てて屋上から出ていく。遊馬はくわえさせられたそれを捨てることも、凌牙を追いかけることもできなかった。フィルターまで燃え尽きた煙草をポケットに突っ込み、給水塔まで上った。影に煙草が落ちていた。鮮やかな青のパッケージに品名のロゴが踊る。
 遊馬はそこにしゃがみこみ、中から一本取りだした。しわくちゃのパッケージの中には安い使い捨てライターが入っていた。遊馬は火を点けようとして煙草の先を焦がす。
「少し吸うといい」
 そう助言したのは、そう言えばアストラルではなかったか。
 口の中でくるくると煙の対流を感じる。肺まで吸い込むことはできない。吸っては吐き、口の中にとどめてはふうっと音を立てて吹く。
「すごく不味い」
「ならば、やめたまえ」
「なんでだろ。シャークは平気なのかな」
 十四歳になったら身体が変わるのだろうか。まさか、十四だって未成年だ。慣れるほどに吸っているのだろうか。
「オレ、シャークのことまだたくさん知らないんだあ…」
「彼は君のデッキを研究し尽くしているようだがな」
「なんかズルい」
 君も研究すればいい、彼のデッキを、とアストラルが言う。まあまあもっともなことだと思いながらも、そーじゃなくてさー、と遊馬は呟いた。
「そうではなくて?」
 目の前に澄ました顔が来たので、ふうっと紫煙を吹きかけた。それは大きく見開いた彼の目を煙らせるでなく、むせさせるでなく、先日自分の拳がすり抜けたのと同じようにアストラルの存在など無視して空へ昇ってゆく。
 しかしアストラルは、それが目にしみたはずもないのに目をそばめ、遊馬、と少し重い声で呼んだ。
「やめてくれ」
 遊馬はもう一度煙を吸い、今度は大きく吐き出す。
「やめるんだ、遊馬」
「どうして」
「不快だ」
「猫の声より?」
「それとは話が違う」
 遊馬は笑って顔を逸らし、空に向かって煙を吐き出した。煙草はもう随分短くなっていた。それをコンクリートの上で潰し、大きく息を吸う。しかし新鮮な空気の味はしない。まだ煙草の味がする。舌にも口の中にも、喉にも流れ込んでいる。
「オレ、お前の好きなものとか嫌いなものとか知ってるだろ?」
 視線を戻すとアストラルは真面目な顔でこちらを見ている。いつも無表情に近いその顔が感情を覚えていくのも遊馬は一つずつ見てきた。
「オレ、シャークがなに好きか知らないんだ」
「水属性のモンスターではないのか」
「デュエル以外でだよ」
 苦笑すると、分かっている、と素知らぬ顔で言うからアストラルなりの冗談だったのかと少し驚いた。
 チャイムが鳴ったが、遊馬はそこを動かない。手の中の煙草、ポケットの中の吸い殻、足下に落ちているパッケージ、どれも扱いあぐねた。全部ポケットに突っ込んで万が一見つかったらどうなるだろう。シャークが言ったとおりだ、と遊馬は思った。トラップにかけられた、オレ退学になっちゃう。
 しかし遊馬はそれを全部ポケットに突っ込んで給水塔の影から立ち上がる。
 後ろからついてくるアストラルがまた、遊馬、と呼んだ。
「君は気づいていないらしいが、君の身体からは煙の匂いがする」
「マジで?」
 確かに指先からは強く煙草の匂いがした。終わろうとする夏の日差しにかざしたその手は、鮮やかな光に照らされて全く健全な夏の肌に見えるのに、匂いだけで性質が一変してしまった。
 遊馬はアストラルを振り向き、にやっと笑った。
「サボるか」
 返事を待たず駆け出す。階段を駆け下りて、呼び止められる間も与えないほど廊下を駆け抜けて、エントランスを横切り街へと飛び出す。後ろからは泳ぐようにアストラルが追いかけてくる。
「遊馬、どこへ行く」
「シャークんとこ」
「彼がどこにいるのか分かっているのか?」
「探すさ!」
 煙草なんかやめろよシャーク!と言ってやる。共犯になんかならない。今日で煙草をやめるんだ、シャークも、オレも。最初で最後、で構わない。だってこれは苦すぎる。
 それから何を教えてもらおうか。好きなもの、嫌いなもの、教えてくれるだろうか。きっと凌牙はまた逃げるだろう。遊馬はどこまでも追いかける。だってオレは絶対に諦めない!
 歩道橋の上から凌牙の後ろ姿を見つける。
「かっとビングだ!」
 遊馬は叫んで段飛ばしに階段を飛び降りた。






2011.10.5〜