11月8日のサイレン




 冷たい風が海から橋に向かって吹き抜ける。遊馬は立ち止まり、腕で顔を覆う。アストラルも何故か似たような仕草をする。軽く手を額に当てて。二人の行動は時々シンクロする。
 風が止み、遊馬はアストラルを見上げた。アストラルは野生の動物が第六感を感じ取って静まりかえるように、見上げる視線も気にせず中空へ視線を漂わせた。遊馬も似たように空を見上げた。
 灰色の空は薄明るい。雲はまんべんなく蔓延り、その向こうに青空があることも忘れさせてしまいそうだが、決して憂鬱な景色ではなかった。海鳥は高く鳴きながら海面に向かって滑空する。その急な角度とあまりの滑らかさに遊馬は気を取られる。
 サイレンが鳴った。
 遊馬の肩は跳ねた。振り返ると、アストラルは違えずサイレンの鳴る方向に視線を定めていた。それが鳴るのが分かっていたかのようだ。
 長く、そして何度もサイレンは鳴り渡った。海浜地区からハートランドシティの全体へ、伝言ゲームのようにサイレンがリレーする。
「寒い…」
 上着を学校に忘れてきてしまった遊馬は両肩を抱いた。
「走るぞ」
「何故」
 唐突な遊馬の言葉にアストラルが尋ねる。
「身体をあっためるためだよ」
 言った時にはもう遊馬は走り出していて、アストラルはその後をついて宙を飛ぶ。
 泳ぐスピードだ。
 横目に見ながら遊馬は思う。冷たい北極の海を泳ぐ魚みたいだ。
 街中に入って遊馬の足はすれ違う人混みに淀むが、アストラルはすいすいとそれを避ける。
「ちょっとたんま」
 声を掛けて遊馬は立ち止まる。アストラルは急ブレーキをかけるわけではなくすいっと宙返りをし、この空を海のように、海底を蠢く人混みから遊馬を見つけ出して頭から落ちてくる。
「もう疲れたのか?」
「人が多いから!ぶつかっちゃうだろ」
「ふむ、道理だ」
 あ、でもだいぶあったまった、と遊馬は袖を捲り上げる。
 その時頭上からニュースの声が降ってきた。ビルに設置されたオーロラビジョンからだ。また遠くにサイレンの声。遊馬は顔を上げる。
 木枯らし一号のニュースだ。木枯らしの吹き渡るハートランドシティの風景。サイレンが鳴り響く。
「木枯らし一号のサイレンだって」
 遊馬が呟くと、アストラルはまた宙返りをし遊馬の肩の傍に浮かんで同じようにニュースを見上げた。
 実際には木枯らし一号を報せるサイレンではなく、乾燥注意報のサイレンだった。この時期は火災が多くなるらしい。
 アストラルがそう訂正しようとすると、姉ちゃんだ、と遊馬が呟いた。
「…君のお姉さん?」
「姉ちゃんが書いたニュースだ」
 やけに確信を持った遊馬の言葉にアストラルはもう一度繰り返されるニュースを見上げる。しかしアナウンサーは遊馬の姉ではないし、記事の署名があるわけでもない。
「何故分かるのだ」
「オレ、姉ちゃんの文章なら分かるよ」
 遊馬はもう次のニュースに移ったオーロラビジョンは見ておらず、すげーすげー姉ちゃんの記事がトップじゃん、声のニュースになってんじゃん、と繰り返し足早に歩き出す。
「どこへ行くのだ」
 アストラルは予想外の方向へ歩き出した遊馬の後を追う。
「帰る方向が違うぞ、遊馬」
「お祝いしなきゃ」
 振り返りながら遊馬が言う。
「ニュースの配信とやらは君のお姉さんの通常の仕事だろう?」
「これは特別なの」
 遊馬は人差し指を立てて走り出す。
「姉ちゃんが書いたニュースが、ハートランドシティ中に響くニュースになったんだぜ」
 その人差し指に率いられアストラルは人混みの上を飛ぶ。遊馬はすれ違う人の波を楽しげに避けながら走る。走り通しの上に心臓の強く打つ身体、汗の気配さえ感じてアストラルはそれを追う。

 お小遣いはいつも乏しい。なにせデュエリストは投資が大事。
 財布の中から工面したそれを後ろ手に隠し、遊馬はリビングに顔を出す。
 既に騒いでいるかと思ったが祖母も明里も思いの外静かで、夕食の時間近くなっても帰らない遊馬を待っていた。
 食卓も普通の献立だ。急に不安になる。
「姉ちゃん…」
 自信なさげに呼ぶと、何よ、と明里は遊馬の表情に眉を寄せる。
「また何かしでかしたの?」
「違ぇよ! あの、さあ、夕方のニュース」
 木枯らし一号のサイレン、と言うと、ああそれ?と明里は軽く笑った。
「うん。見たんだ、遊馬」
「見た」
「へへっ、凄いお姉様だろ!敬え!」
 頭をぐりぐりと強く撫でられ遊馬は、もー!と暴れながらプレゼントの袋で明里の腕を叩く。
「あら」
「やる」
「やる、って?」
「おめでと」
 髪の色と同じオレンジとピンクのリボンを付けてもらった、でも中身は小さなチョコの詰め合わせ。中学生デュエリストの財布事情。
「ありがと」
 明里はそっけなく言う。
 それだけかよ、と思ったが遊馬は急に視線を逸らした明里を追いかけず、隣の席に腰掛ける。
 急だったからちょっと間に合わなかったけどねえ、と祖母が出してくれたのは普通のシチューだったが、ニンジンがハートの形をしていた。
 背後ではオボミが充電をしながら小声で何かを呟いている。サイレンの音が混じっていたようで耳を澄ますと、オボミはあのニュースの音声を記憶していたのだった。背後に流れていたサイレンの音まで忠実に。
「もう…恥ずかしいじゃない」
 明里は真っ赤になりながらしかし笑顔でシチューを平らげた。遊馬とおかわり合戦をした。
 もちろん彼女の勝ち。

 木枯らしに窓が強く鳴る。
 屋根裏の明かりが暖かみを帯びる季節がやってきた。
 遊馬は自分用に買ったチョコを食べようとして後ろから、もう歯磨きをしただろう、とアストラルに咎められる。
「いーじゃん」
「君は歯医者の効果が苦手だったのでは?」
 仕方なくチョコは諦めた。
 いつも買うコンビニのお菓子ではない。包み紙の印刷から綺麗だ。
 遊馬はふと思い出して宝箱の中を探る。それはほとんど両親が置いていったままにしているけれども、遊馬の宝物もこっそり隠されている。
 小さなブリキの箱は、それもお菓子が入っていたものだ。クリスマスのお菓子の詰め合わせの容れ物。
 暖かな光の下で遊馬はブリキ箱の蓋を開ける。
 中には色とりどりのお菓子の包み紙、ジュースの瓶の蓋が入っている。父親と一緒に海外に行った際、空港などで買ったお菓子の包み紙だ。遊馬は久しぶりにそれを手に取り、一つずつ床の上に並べる。色も大きさもバラバラのそれはカラフルなモザイク模様を作る。
「…それは?」
 アストラルもそれを、お菓子を食べた後のゴミとは言わない。遊馬の手つきからそうではないことが分かる。
「オレの父ちゃん、ほんと変な人でさあ。オレ、父ちゃんとあちこち行ったし、子どもがするかってことまでかっとビングでチャレンジしたけど」
 遊馬は幾つかを手に取り、これはロッククライミングの時、と言った。
「これ見ると、どこに行って何したか全部思い出せるよ」
「記憶が蘇るのか」
「ナンバーズのカードみたいにさ、一枚一枚に思い出があるんだ」
 そういやお前ご褒美とかないよなー、と遊馬は言った。
「ナンバーズは私の記憶。私は自分のものを取り戻す、それだけだ」
「そうだけどさ」
 遊馬がじっと見上げるので、アストラルは隣に並ぶように座った。
 うん、と遊馬は頷く。
「お前が猫嫌いって以外、お前の好みとか聞いたことねーや」
「好み?」
「好きなもの」
 ロビンはお気に入りだよな、と言うと、ロビンは素晴らしい、とアストラルは真面目な顔で頷く。
「例えばさ」
 遊馬は手にしていた包み紙ももう一度床の上に並べた。
「どれが好き?」
「どれが…」
「お前の好きなの、やるよ」
 遊馬はあまりにもあっさりと言った。アストラルは意外な提案に遊馬の目を見つめ返す。
 この世に存在するものには、ナンバーズのカード以外触れられない自分に、遊馬はものをくれると言う。ただのものではなく、彼の思い出の詰まったものを。
 色とりどりの包み紙、瓶の蓋。
 分からない、と呟きかけてアストラルは口を噤む。そして真剣な目でそれらを見下ろす。
「これを」
 真っ赤な一枚を指さした。
「これ? どうして?」
「私には自分に好みがあるのかどうかもよく分からない。しかし…」
 アストラルは遊馬が取り上げた真っ赤なセロファンと、遊馬を順に指さした。
「君の光の色だから」
「オレ?」
「これは、君とオーバーレイネットワークを構築した時の、君の光と同じ色だ」
 それを聞くと遊馬は、ふっと笑ってもう一枚鮮やかな水色のセロファンの包み紙を取り上げた。
「じゃ、これとセットでオーバーレイネットワークを構築な」
 遊馬はその二枚をクリップで留めた。
「見てみろよ」
 天井の明かりに透かすと、二枚のセロファンは色が交わり紫色の光になる。
 ゼアルだ!と遊馬が小さく口の中で叫んだ。
 来い、遊馬!とアストラルも小さく口の中で叫んだ。
 それから肩を並べて遊馬は笑い、アストラルも微笑みを浮かべて互いの顔を覗き込んだ。






ニナさん就職お祝い。