懐かしい水の匂いに過去証明は

不要であることの証明




 雨が降っている訳ではないが懐かしい水の匂いがする。記憶に刷り込まれている。顔を上げて分厚いガラス窓の向こうを見ると銀色に光る雲が流れ、時々月を隠す。夜の街は黒く、しっとり濡れていた。世界の終わりの前の夜はこんな景色だろう。墓石のように見えるビルの影は、しかし不吉ではない。静けさは美しく、人工灯がなくとも反射させる月光に世界は真の闇ではなく、生まれたばかりの闇の無邪気ささえたたえている。
 古い屋根裏は、そこだけ人間の気配、何千年と積み重ねこの星に、遺伝子に綴り続けてきた文明の証に満ちていた。おそらくここが最後に残る標本箱だろう。かつてはフィールドを彩るオブジェクトであった、しかし今となり、次元さえ越える手がゲームを本格的に始めようとしている今となり…。
 主役たる人間を不要としてしまえばフィールド上のそれらはゴミでしかない。黒く濡れる墓標も灰色の残骸となり白い砂と砕ける運命は目の前で、今、このひとときこそ都市が文明が一番美しく存在しているのかもしれなかった。ひと形の最も美しい形は死と崩壊の際でつま先立ちに保たれた肉体、人形であると言ったように。
 言った、誰が。
 オレが聞いたのか、読んだのか、こんな言葉を。
 遊馬は顔は窓の外に向けたまま横目に視線だけを落とす。
 お前の知識、お前の意識か。
 記憶の集合体。それはナンバーズというだけの話ではない。父が探した世界の果てのように、一つのロマンとして存在するあのアカシック・レコードのように、次元を渡り手を伸ばし戦争の一駒を進める者。者と呼ぶさえ相応しくはないだろう、意志、奔流、存在。それらが一つの形の中に収まっている。
 美しい真円を描く黄金の瞳もヒトならぬ肌の色も、かつて見慣れたはずのものが全くの異質に変化している。否、見た目は全く変わらないのだ。アストラル、そう呼ぶことが何もおかしくはない。しかしその肌は遊馬の記憶を持たない。その瞳が自分を想って流す涙はない。たとえそれが性交の後だとしても。
 彼――もはや彼と呼ぶことさえ相応しくない存在――にとって遊馬は記録であり知識だ。この地球を舞台に繰り広げられる異次元の戦争を進める駒にすぎない。彼にとってモンスターは仲間ではない。しもべであることは当然のことで、支配者たる意識さえないだろう。全ては為されるように。デュエルの全ては必然と言い切ったアストラルを思い出す。
 アストラルのことを思い出すと、また急に濡れた下半身が肌寒さを覚えた。床の上には精液が散らばっている。だらしなくこぼれた白濁とした液体は月光が射すとぬめぬめと光る。生きようとし、生きようとしたものの末期の姿に見えた。
 遊馬は組み敷いた身体にまた視線を落とした。彼は自分の視線を受け、返しはするが感情と呼べるものは浮かんではいない。
 耳の奥で金属質の高い音が響く。止めていた息を吐き無表情な身体の上から退くと、一気に力が抜けて尻餅をついてしまった。足の間で性器がくたんと項垂れた。寒さにくしゃみが出た。
 薄水色の身体は横たわったまま、しかし意識はこちらに向けているらしい。相手のすっかり露わになった足の間に目をやると、確かに交接の残滓が溢れ出ているけれども、それは多分セックスと呼べるものではなくて、オナニーよりもたちの悪い、終わってみれば気まずい何かだった。無論、相手にそんな感情はないから気まずさを感じているのは遊馬だけなのだけれど。そうだ、これも記録されたんだろうな、と思うと気まずさはいや増し、いっそ笑えるほどだった。笑いはしないが、遊馬は唇を歪めた。その歪めた唇の端から、少しずつ実感は広がっていった。
 アストラルはもういない。
 目の前のそれがアストラルの姿をしているのは、それが遊馬を動かすのに都合がいいからだ。自分が違和感さえ感じなくなればアストラルの姿を取る手間などさっさと省くようになるだろう。そして次元を超えて伸ばされるその手で直接遊馬を動かすに違いない。今や遊馬にも多くのことが見え始めていた。これが報償であり代償だった。
 ナンバーズを、彼の記憶を全て集めること、その先にハッピーエンドが待っているとどうして無邪気に信じられたのだろう。なくしたものを取り戻すのは嬉しいこと。事実、自分の名前を確信を持って思い出したアストラルはしつこく自分の名前を呼ぶよう求めた。あの時アストラルには感情が伴っていなかっただけで、それは嬉しいと呼ぶものだったに違いない。そうだと感じていたから遊馬は。
 雲が流れ、また月が顔を出す。街が濡れた銀色に輝く。分厚い窓ガラスを越して射し込む光は、旅行鞄の上のカードを照らし出す。
 百枚目のナンバーズとなるあのカードを遊馬は引いた。きっとアストラルは予感していたに違いない。彼には九十九枚分の記憶があった。かつての自分が、大いなる意志が何をしようとしていたかを理解していた。だから躊躇わず引けと言ったのだし、遊馬はその言葉に励まされドローした。真っ新なカード。その場でこそ生み出されたカード。あのカードの中にアストラルはいる。今、眠っているのだろうか。自分の傍らにいる時は、昼も夜も関係なく、人間の営みとは違うバイオリズムの中に存在していた。アストラルとしての使命を完遂し、今ようやく安息を得ているのだろうか。自分との記憶を夢に見たりはするのだろうか。
「遊馬」
 静かで感情のない声がした。遊馬の意識はぶれた。まるで一年前のあの日、デュエルの最中に突然現れた彼が自分を呼んだかのような、背筋の寒ささえ感じた。
 それは身体を起こし、遊馬を見ている。視線の冷たさに感じるのは懐かしさより違和感だった。目の前のそれはオレを見ている。表面だけの話ではない。あの瞳には体温も自分の心臓の鼓動も血液の流れも全部見えていて、そして何らかの判断をしているのだろう。
 遊馬は嬉しそうではない、そう言葉というほど明確な形を持ったものではない、概念のようなものが頭に流れ込んできて、自分のレスポンスを求めているらしい。
 が、遊馬は口を噤んでただ相手の目を見つめ返す。アストラルの姿をしている。オレの言葉が分かってその口があるのなら、言いたいことは言えってんだ。
 そう頭の中で思えばタイムラグはない。
「何故、突然消沈している」
 冷たい声が尋ねる。アストラルそっくりの声で。
「君は笑い、喜んで私を抱きしめた」
「ああ」
 そうだ。たとえ死にかけたこの地球でも、アストラルと二人ならば救うことができると信じていたから。だからこの死に瀕した街の最後のデュエルを乗り切った時、どれだけ嬉しかっただろう。再びその手に触れることが出来た時、遊馬はそれだけで足下から痺れるような快感を味わったのだ。それは生命の奥底から湧き上がる歓喜だった。
 何よりも特別なことだった。アストラルがようやく全ての記憶を取り戻した。まるで自分のことのように嬉しかった。もし両親が帰ってきたら自分はこんな風に喜ぶのだろうと思った。失われたと思ったもの、なくしたはずのものが、まったき形で手の中にある!
 綺麗な身体。
 傷一つない美しい身体。
 アストラル。
 アストラルだったもの。
 出会ったことを悔いはしない。扉を開けたことに後悔はない。そしてセックスをしたことも、だ。
 溶ける身体に自分の欲望を突き立てて、おそらくその行為は今までのものと本質的に変わりはしなかった。あるいは全く違っていた。
 身体の中に自分と異なる生き物の高い体温を包み込む、その刺激にそれは身体を溶かし、遊馬の精液を異物として排除する。呼吸が荒いのは遊馬と同調しているから。しかしアストラルのそれには全て、引きずられ混ざり合う感情があった。高い声が自分を呼び、自分も何度もその名前を呼んだ。それは性交ではなかったかもしれない。しかし遊馬とアストラルにとっては確かに交歓だった。濡れた自分の下半身を拭うのも、床に落ちた精液を片付けるのも、照れくさくも自分は楽しかったのだろう。遊馬は口元の歪みをかすかな微笑に変える。すると目の前のそれも鏡に映すように微笑をたたえる。
 アストラルの姿をしたそれは、終始その淡い笑みを浮かべていた。今も。その笑みは美しく、埃を被ったこの人間の歴史博物館最後の展示室にはそぐわない。崩壊の際の都市を見下ろすのと同じ視線で、それは自分を見ている。そのどちらの視線も優しく、自分の駒に対する慈しみに満ちている。遊馬は片膝を立て、俯き加減にそれを見た。それの微笑みは消えない。遊馬は根負けし、敗北宣言を口にする。
「一人で舞い上がって、バカみたいだ」
 するとそれは場面に相応しく、首を傾げて見せる。
「精神の高揚がそんなに愚かしいことかね?」
「だから、オレ一人が、さ」
「高揚したのは君だけではない」
 今度は遊馬が戸惑いを感じる番で、顔を上げ目をそばめる。しかし真円の瞳は真っ直ぐにこちらを見据え、淡々と口にする。
「私は君が私に抱いている愛情を存分に感じることができた。それは君たちの言葉で言えばとても喜ばしいことだ、遊馬」
 トテモヨロコバシイ…、と遊馬はオウム返しに口にする。濡れて冷たくなった性器は下を向いている。遊馬は何となくそこを握りしめ、とても喜ばしい…、ともう一度口にした。
「違うか?」
「…違わないんじゃねーの、多分」
 今更人間の観念に自分の意識を沿わせる必要はないはずだが、きっと遊馬が相手だからすり合わせをしようとしているのだろう。繰り返すように遊馬はそれの駒だが、同時に彼が一番使い勝手のよく愛着のある駒でもある。
「何故、そこを握る」
 細い指がさす。
「もう一度するために刺激を与えているのか?」
「違う」
 そこでこぼれた笑いは、割合心から自然と溢れたもので、笑えなくもないのだなと思うと遊馬はまた唇の端を歪めた。
「なあ」
 股間を掴んだまま尋ねる。
「お前はアストラルなのか」
「そうだ、遊馬」
 目の前のそれは、やはり美しい微笑を浮かべて答えた。遊馬は後ろ手をついて天井を見上げて大きく息を吐いた。アストラルの姿。アストラルの声。アストラル、だ。かつて現れたあの真っ黒な奴に比べれば是と即答していい。
 膝の間を少し広げる。見下ろせば精液が半ば木の床に染みている。遊馬は手を伸ばす。
「来いよ、アストラル」
 アストラル、は近づき遊馬の腕の中に収まる。やり方を一つ一つ覚えてゆくようなキス。体温を伝播させるように背筋に手を滑らせる。
「さっきの嘘」
「嘘?」
「もっぺん、しようぜ」
 するとそいつは言った。
「嬉しい、遊馬」
 どうすれば自分が喜ぶかをよく知っている。
 だから本当に嬉しかった。それが知識と技法であれ構わなかった。アストラル、と囁いて口づけをすればまた優しい気持ちが広がった。
 月が陰る。銀色の雲が空を覆い尽くす。雨音が遠くから聞こえ、遊馬は懐かしい水の匂いをかいだ。






懐かしい水の匂いは、アストラルとのセックスの後の匂い。

リクエスト書かせてくださいとツイッターで叫んでいたら、ニナさんが優しくも構ってくださいました。
「一人で舞い上がってバカみたいだ」なゆまアス。
完全体アストラルは本当に受けた影響の集合体