敬虔な教師と完璧な取引




 踊り場でアストラルは立ち止まった。丸い窓が開いていた。良く晴れた空の色は薄く、ガラスの抜けた窓そのものが白く輝いて見える。アストラルはそこに自分の手をかざした。光を半ば透過する自分の手。光は手に触れた瞬間速度を落とし、掌の中でゆっくり輝いている。
 彼は来し方を見下ろした。螺旋階段は上にも下にもどこまでも続くような気がした。その天井も、その底も、光の閉ざされた暗がりに沈んでいたからだ。
 静かで重たい匂いがした。多分これが海の匂いだった。実体を持って最初に遊馬と遊びに行ったのはいつもの通学路、少し遠回りをした海だった。そこで鼻を刺激され、アストラルはうろたえて遊馬に尋ねた。これが潮の匂いだよと遊馬は笑って教えてくれた。地表の八割を覆う水の匂い。その中に生命の根源も死も溶かし込んだ複雑な匂いだ。
 海鳥の高い声がする。シルエットが窓の向こうを横切る。
 ハートランドシティの外れ。古い街並みが崩れ落ち、廃墟は自然に呑まれかけていた。コンクリートはかつての華やかさを脱ぎ捨て無骨は肌を晒し、日の下に佇んでいた。アストラルは一人でこの場所までやって来て、一人でビルを上るのだった。
 自分だけを呼び出した相手の正体は分からない。ただこの廃墟で一番高いビルの最上階で待つと言った。俺はナンバーズを持っている。取引をしようじゃないか。九十九遊馬の手出しは無用。もし一言でも話せば、ナンバーズは焼き捨てる。
 恐れる必要はないと思った。そもそもナンバーズの回収はアストラルの問題だったし、デュエルではそうそう負けるつもりはない。気がかりなのは、取引という言葉だったが…。
 かつん、と音がした。それは上から降ってきた。硬い音はリズミカルに螺旋階段を落ちてくる。それはアストラルの足下も通り過ぎた。人間の子どもの玩具だったのだろう。色とりどりのガラス玉が転がり落ちてゆく。それは窓から射す光にほんの幾刹那その身を輝かせ、闇の中に呑まれていった。音だけがいつまでも木霊した。果たして底まで落ちてしまった反響が残っているのか、それとも延々と落ち続けているのか。後者のような非現実的なことなどないとアストラルは知っている。
 だからまた顔を上げて階段を上る。それは人間が一歩一歩段を踏むような苦労はようしなかったけれども。もし遊馬がついて来ていたら音を上げたろうな、とアストラルは少しだけ微笑んだ。
 最上階の廊下は長く延びる。そこにドアは一つしかない。窓さえなかった。ランプシェードは凝ったスズランの形をしていて、本来廊下をあたたかく照らし出したのだろう、等間隔で壁に並んでいたが電球はどれも割れていた。
 しかしアストラルの目はたった一つのドアも苦もなく探し出した。ドアノブを握ろうとして、自分が浮いたままだったことに気づく。埃だらけなのは気にならなかったが――遊馬の屋根裏部屋だって埃だらけだ――ガラスの破片の上に降り立つのは少しだけ躊躇した。それが人間の肌であれば傷つけるものだと知っていたからだ。遊馬が割れた皿で怪我をしたことがある。あの真っ直ぐな直線、薄い切り口から滲む血。何故か遊馬のことばかり思い出された。こんなに長く離れているのはカイト戦以来だ。アストラルは慎重に床の上に降り立ち、ドアを開けた。
 思いの外明るい空間が広がっていた。広い部屋の壁一面は本来窓だった。今は窓枠ごと外れ、涼しい風の爽やかに吹くバルコニーが、その向こうに明るい海が見えた。射し込む光は立体的に床へ射している。床は倒れ込んだ窓枠と砕けたガラス、それからがらくたでいっぱいだった。ひっくり返った椅子、汚れたガウン、形の不揃いなスリッパや靴。全てが経年の埃の下、一様に褪せた灰色に染まっていた。本来の機能を備え、時に抗っているのは中央の大理石のテーブルだけだった。アストラルは広い部屋を隅から隅まで見渡した。
 不意に耳の中に響いていた音が消えた。消えた瞬間に音があったと気づいたのだった。それは風の音のように、海鳥の鳴き声のように、自然と一体化していた。アストラルの耳にもそれは心地良く響いていたのだった。
 テーブルの傍らに小柄な人影が佇んでいた。
 彼、男だと分かった。歳を取っていることも見て取れた。老人だった。しかし背筋は伸び、所作も淀みない。男はそれまで弾いていたヴァイオリンを下ろし、こちらを向いた。
「アストラル」
 男が呼んだ。
「アストラルだな」
「…あなたは」
「ナンバーズの所有者」
 何よりも雄弁な証明書を見せるように男はカードを光にかざした。
「では、早速デュエルを…?」
「そう慌てることはない」
 男はケースにヴァイオリンを仕舞うと、背後の海を振り返った。
「まだ日も昇ったばかりだ」
 実際には正午を過ぎていた。海は青く澄み、波は陽を浴びて銀色に輝いている。
「素晴らしい景色だろう」
 男は笑みはしないが、しかし穏やかで敵意のない口調でアストラルに話しかけた。アストラルもその言葉に促されるように窓の外を見た。
「ハートランドができる前、もう何十年の昔になる、ここも栄えた港だった。通りを人々が行き交い、夜も眠らぬほどの明かりが輝いていた。盛者必衰という言葉を知っているかね」
 アストラルはその言葉を知らなかったが、男の口ぶりから何となく意味を察することはできた。男もちらりとこっちを向き、一瞬視線が交わった。
「勢いの盛んなものもいつか必ず衰える。この場所がそうだったように、あの高い塀で囲まれたハートランドもいつかは滅びるだろう」
「瓦礫と鉄骨の山に?」
 アストラルが口を挟むと、男は驚いたように片眉を持ち上げた。しかしその言葉は気に入ったようだ。満足そうに頷き、セ・ブレ、と囁いた。
「そのとおり」
「今の言葉は」
「この場所が栄えていた更にその昔、俺の住んでいた国の言葉だ」
 フランス語は初めて聞くのかな?
 男はその質問をフランス語でした。アストラルの頭の中では言語が解析され、意味を成す。
 セ・ブレ、と返すと男は低く笑った。楽しんでいることが不快でたまらないとでもいうような、渋々とした低い笑いだった。
「話せる相手のようだな、アストラル、君は」
「私はナンバーズを取り戻したい、それだけだ」
「ふん」
 男は笑いを収め、正面を向いた。
「デュエルをしたいのかね」
「したいかどうかではない。ナンバーズを手に入れる方法はデュエルだ」
「勝利すればそれを得るわけだな」
「あなたもナンバーズの所持者ならば分かっているだろう」
 男は黙ってDゲイザーを装着する。
 するとマトリクスの緑の滝が現れ、周囲を一変させた。埃まみれのがらくたは消え去り、市松模様の床が現れる。磨き抜かれた床の上には老紳士の姿もアストラルの姿も鏡のように映り込んでいた。装飾的な窓枠を越してモザイク模様にされた海の景色。午後の光を柔らかく遮る薄い紗のカーテン。調度は仄かな影の中にしっとりと落ち着いている。
「昔の景色だ」
 男は軽く手で指し示し、言った。
「私の記憶の景色、失われた景色。今見えているものは全部まがい物。…しかし君の目には真実のように映るのだろう?」
 男にデュエルをする気がないのには、もうアストラルも気づいていた。しかしゲームは始まっている。
「デュエルは得意ではなかった。理論だけでは通用しない。運が左右することもある。神がその手から必要なロジックを取りこぼしてかき集めたような世界に思えてね。私は半分ほど勝った。半分ほど負けた。それよりも好きなのは」
 かつん、と硬い足音が響く。
「チェスだった」
「駒を用いたボードゲーム」
 男は頷く。
「美しい論理の世界だ。神の理論が調和した世界。やったことは、ないんだろうな」
「残念ながら」
「きっと君は気に入ると思うね」
 男の目にわずかな親しみが覗く。
「いいチェスプレイヤーになるだろう」
「強いということか」
「勝つべき勝負に勝ち、その手で神の論理を自由に遊ばせることのできるプレイヤーということだ」
 強いのは、確かにいいことではあるだろうが、と男は呟き、今度はアストラルが頷く。
「良さと強さは必ずしも一致しないのだな。記憶しておこう」
 目に浮かんだ親しみは表情全体を染める笑みに変わった。
「…ではチェスで勝負をつけようと?」
「チェスは俺の生の喜びだ。それをご一緒できれば光栄なことこの上ないが」
 男の目から親しみが消え、笑みが消える。
「これは取引だ」
「取引…」
「このナンバーズというカードは俺に力を与えると言った。確かに、これがあれば老いさらばえたと思ったこの身にも不可能はないだろう。デュエルの世界にも、チェスの晴れ舞台にも返り咲けるかもしれん。が、見てのとおりだ」
 男はDゲイザーを外した。マトリクスの滝が流れ落ちて、束の間の真実を壊してしまう。そこにあるのは本物の世界。埃と瓦礫に覆われた灰色の世界。
「俺は老いた。このカードを手にするのがもう何十年か早ければ話は違ったかもしれんが、今の俺には勝利も栄光も味気ない人生線上の点に過ぎん」
「あなたは…何が望みなのだ」
 憐れむような視線がアストラルを見た。男は教師が諭すように話しかけた。
「君一人で来いと言った俺の指示になにも感じなかったのか? 九十九遊馬を連れて来るなという」
 予感もなかったというのかね、と男が畳みかける。
「…そんな」
「異世界科学など、俺は興味ない。が、美しいもの、完璧なものへの憧憬はこの齢になっても捨てきれないものだ。チェスしかり、君も知らず聞き惚れていただろうバッハという名前も知らず、あの音楽しかり、そして」
 男の指さす先にアストラルはいた。
「つくづく君の主人は不用心だ。もし君のような美しい存在が傍にいたら、俺ならば隠して人に見せはしないだろうな、何があっても」
 指さす手は優雅に空を切り、大理石のテーブルを示した。
「さあおいで、取引をしよう」

 拡張現実の中で見た床のように、テーブルは磨き抜かれていた。滑らかな白の中に走る濃い灰色の不規則な縞。アストラルは男に言われるままそのテーブルの上に座った。膝を抱えると、怖がっているのかと男が尋ねる。
「いつも、このように座っている」
「いつも」
 男がアストラルの手を取った。すると立てていた膝がゆっくりと倒れ、アストラルは横座りになる。
「あなたは…」
 アストラルは自分の手を握った、男のかさかさに乾いた掌の感触を感じながら言った。
「私に何を求めている」
「ここへ来てその科白が出るとは、本当に無知なのか」
 手が離れ、男は瓦礫の上に腰掛ける。
「九十九遊馬は君に触れないのか。四六時中、君の傍にいながら」
「遊馬は…」
 アストラルは口を噤み、手で唇を押さえた。
 可愛らしいことだ、と男が例の低い笑い声を上げた。
「ごっこ遊びか」
「私と遊馬は…!」
 掌がアストラルの言葉を制する。
「言わなくていい、というより聞きたくないな。身体がむず痒くなる。蕁麻疹でも出そうだ」
「じんましん?」
「俺は君の主人のように懇切丁寧に教えてやるような人間じゃない」
 男は頬杖をつき、やれやれと溜息を吐いた。
 不意に静けさが舞い降りた。潮騒だけが空気をかすかに揺らした。海鳥の声は止んでいた。
 アストラルはテーブルの上に目を落とした。銀食器が自分の両側に並んでいた。ナイフにフォークにスプーン、それから小さな器と、鏡のような皿。それを見下ろすと食器の中からも小さく切り刻まれたアストラルの視線が見返した。
「この世の神の手からならぬ君を手に入れるためには」
 低く男の声が喋り出した。
「まず君をばらばらにしてしまうべきだと考えた、俺は。君を九十九遊馬から引き離し、君から九十九遊馬の記憶を引き剥がす」
「記憶を…引き剥がす?」
「羞恥によって、辱めによって、拷問によって」
 男の声はいっそう穏やかで、不穏な単語さえバッハの音色を奏でるように丁寧に発音した。
「その肌に残る九十九遊馬の記憶を蹂躙し、見失わせ、君をただアストラルという存在、肉体ひとつに戻した後、バラバラにして食べてやろうと、な」
「あなたはナンバーズの見返りに、自分の食嗜好を満足させるよう私に求めているのか」
「その科白は決して美しいとは言いがたいな」
 表情を歪め、男は言った。
「それに俺は食人嗜好の持ち主ではない」
「しかし私を食べたいと言った」
「君を手に入れたいと言ったんだ」
 男はまた溜息を吐いた。
「君が九十九遊馬とキスをしたのなら、同じ場所を穢そうと思った。九十九遊馬と交わったのなら、その場所を凌辱しようと思った。いや、俺にはその能力はない。自分で穢させようと思っていた」
「能力がない、とは?」
 アストラルの質問に、男はにやりと笑った。
「なるほど、切れ味鮮やかな攻め方じゃないか。正々堂々受けて立ってやろう。俺は不能者だ。生殖行動を取ることができない。俺のペニスはもう勃起しない」
「私のことを性的に征服しようとしたのか」
「能力があればそうしただろう」
「だが、できない」
「そもそも君と九十九遊馬の間にそんなものが存在しなかった」
「何故、私と遊馬が関係を結んでいると思ったのだ」
 しかし男は怯まなかった。唇の端に諦念を浮かべ、低く囁いた。
「が、誤解というわけでもなくなるだろう」
 あなたが私を欲しいと言うのなら。
 アストラルは呟き、傍らのナイフを取り上げた。
「あなたが私を食べたいと言うなら」
 ナイフの先は丸みを帯び、滑らかに光っていた。アストラルは躊躇わずそれを自分の脇腹に突き立てた。
 男が目を丸くしてこちらを見つめている。アストラルはわずかに耐えるように目を伏せ、ナイフを横に動かした。大きな傷口を作ると、一度ナイフを引き抜き、また同じように脇腹を切り裂く。
 そうして切り取られた自分の肉片をアストラルは手の上に取った。脇腹からは濃い青色の液体がたらたらと流れ出していた。
「あなたはナイフとフォークを使うのか」
 アストラルは尋ねた。
「この銀色の皿の上で?」
 その時の男の顔はまるで眩しいものでも見るようだった。目を細め、唇をきつく結んでいる。溢れ出る感情を堰き止めようとしているようだ。それは、ああ、という嘆息で決壊した。
「その手から、どうぞ俺の口に」
「ではここまで来てもらおう」
 男は瓦礫の山の上を下り、アストラルの足下までやってきた。アストラルがテーブルの上から肉片を差し出すと、男は神妙な顔で仰向き口を開いた。アストラルは濃い青に濡れた手で肉片を男の口に滑り込ませた。
 男は水でも飲むようにそれを飲み込んだ。喉仏が大きく動き、嚥下するのが分かった。口の中が空っぽになると、男は瞼を開いた。
「君の血を…」
 アストラルは鷹揚にそれを許した。男はアストラルの傷口に唇を寄せ、そこから流れ落ちる液体を直接飲んだ。傷の中に舌を差し入れられ、アストラルは小さく呻く。
 男の手が身体を這う。低い声が囁く。青磁の青、プロヴァンスの海の青…。模様の上をなぞるときはエメラルド・グリーンと囁き、ストーンを撫でながらサファイア・ブルーと囁いた。
「君は美しい、アストラル」
「ありがとう」
「ああ…」
 男は低く長くうめいた。
「内側から溺れるようだ」
 両腕が頭を抱えた。男は急にアストラルから離れると、ふらふらと歩き出した。まるで足下がおぼつかない。途中でヴァイオリンのケースを引っかけ、それは汚れた床の上に落ちる。きちんと留まっていなかった留め金が外れ、ヴァイオリンが飛び出した。男の足はそれを踏みつけた。アストラルはその瞬間、自分が痛みを感るかのように身体が震えるのを感じた。
 アストラルは男を呼び止めようとした。しかし、すぐに気づく。アストラルは男の名前も知らないのだ。
 男はそのままふらふらとバルコニーに出た。錆びついた柵はとっくにその役割を放棄していた。
 小さな人影が空中に消えたのはあっという間だった。
 アストラルは慌ててテーブルから下りると重い身体を引きずるようにバルコニーに出た。砂埃の上に男の足跡が残っていた。それは端で途切れていた。下を覗き込んでも鮮やかに明るい海が広がるばかりで、男の姿はない。
 思わず天を仰ぐ。薄青い空。小さな黒い影が舞う。反射的に手が伸びた。風に吹かれながら、それはアストラルの手に掴まえられた。
 ナンバーズのカードだった。
 アストラルはしばらくそこに佇んでいた。脇腹の傷からは余韻のようにまだ青い液体がぽとり、ぽとりと落ちてバルコニーに染みを作った。

          *

 遊馬に新しいナンバーズを見せると、彼は無邪気に喜ぶ。
「なんで、お前嬉しそうじゃねえの?」
「嬉しいよ、遊馬」
 アストラルは手を伸ばして遊馬を抱きしめる。遊馬は急なことでちょっと身体を固くする。
「…アストラル?」
 ゆうま、と囁きアストラルは遊馬の唇にキスをした。血を飲むように。相手を食べてしまうかのように。
 やがて遊馬の手がアストラルを床の上に押し倒す。唇に噛みつかれる。アストラルは微笑んで瞼を伏せた。遊馬、とキスの合間に何度もその名を呼びながら青い海を思い出した。鼻には埃くさいホテルの空気が蘇った。耳の奥で男がなにごとかを囁いた。ああ、とアストラルは溜息を吐いた。






没案だった俺さん老紳士バージョン。