Foul player and Pure sacrifice




 その部屋には何もなかった。何があろうとも関係はなかった。指定されたのは古い街並みの残る一角、危ういバランスで建つビルの上階だった。およそ途中に見える窓という窓は割れ、廊下や階段にはガラスが散らばっている。壁にスプレーの落書きがされているから、そういった輩の溜まり場になっているのかもしれない。しかし今現在、人の気配はなかった。ゴミは散らかっているがどれも古いもので埃を被っていた。
 遊馬はビルの入口で立ち止まった。隣にいるアストラルは地面からわずかに浮いているものの、その身体の得た重力に従うように肩を落とし、項垂れていた。
「ここから先は一人で行けるな?」
 尋ねたが、アストラルは顔を上げない。遊馬は困った様子で笑った。
「そんな顔するなよ」
「遊馬、私は行きたくない」
「どうして?」
 あっけらかんと遊馬は返す。
「ナンバーズを、お前の記憶を取り返したいんだろ?」
「そうだが…」
「今までどんな危険なことだってしてきたじゃないか。命を賭けたデュエルもしたし、異空間にも入ったし、それに比べたらなんてことねーよ」
「君は…なんとも感じないのか?」
「だって」
 遊馬は微笑んでアストラルの胸に手を伸ばした。掌が優しく押し当てられる。
「お前が壊されるわけでも、殺されるわけでもないだろ。平気だよ。オレは何があってもお前が好きだぜ?」
 遊馬が好きと言うとアストラルの唇はどうしても微笑んでしまう。快楽と幸福の回路に遊馬の声は繋がっている。
「一番上の階に行くんだぜ」
「…分かった」
「オレ、先に帰ってるから」
「…ああ」
「ナンバーズ取り返したらすぐ帰ってこいよ」
「遊馬」
 アストラルの腕は急に遊馬を抱きしめた。遊馬は抱きしめられるまま、黙って微笑んで胸の上に一つキスをして送り出した。
 ガラスの散らばった床も浮かんだまま移動するアストラルには関係ない。しかしその上を通過するごとに自分の身が切り刻まれてゆくような錯覚を覚える。この先のことへの不安がそんな妄想を駆り立てているのかもしれなかった。
 この古いビルの最上階を指定してきた男。ナンバーズの所持者。心を操られているのだろうか。それ故に、ナンバーズ96の時のように自我を持ったそれが自分を駆逐しようとしているのだろうか。分からない。アストラルには自分の身体が欲しがられる理由が分からない。遊馬以外の誰かがこの身体を欲しがるということが理解できない。
 暗い階段を上りきって、目の前には一つの扉がある。実体化しているから扉をすり抜けることもできない。逃げ出すことも。いいや、逃げることなどどんなに状況が許してもできないのだ。この扉の向こうにナンバーズがある。それ以上に、行けと遊馬が言ったのだ。
 アストラルは汚れた床の上に両足を着いた。サビの浮いたドアノブを握る。恐れを振り払い、毅然と前を向いて扉を開いた。
 想像を覆し、清潔に掃除された広い部屋が広がっていた。パーティションも取り払った更地のようなフロア。窓は新しいものを嵌めたばかりで、まだ半透明のビニールがその表面を覆っている。濾された光は淡く、時の感覚が曖昧になる。市松模様の床はチェスボードのようだった。光と闇。善と悪。天国と地獄。このフロアにはそれが混在している。
 中央に黒い人影。
 その向こうにはどうしてもその存在を無視することができない、大きなベッド。
 人影は周囲の明るさのせいで影に沈んでいるのではなかった。黒い服で上から下まで整えている。腰掛けていた椅子も黒だ。そして市松模様の黒の床の上。
 彼がキングなのだ、とアストラルは感じた。この部屋では彼がキングだ。彼のルールで全ては進行する。自分はポーンほどの力も持ち得ているのだろうか。
 男が立ち上がってこちらに近づく。一歩一歩、キングが一マスずつしか進めないように、ゆっくりと確実に。しかしアストラルは動くことができない。このままでは取られると知りながら。そして男はもう目の前に近づいていた。

 投了のためゆっくりと盤上に倒される駒のように、アストラルの身体はベッドの上に横たえられた。王手を取られたというより、これはアストラルがゲームを投げたに近い。もともと相手に優位なフィールドだった。なす術はアストラルの外側にはなかったし、内側には尚のこと存在しなかった。アストラルを押し倒したのは男の手ではあるが、彼にとっては遊馬の手も同然だったのである。
「ナンバーズは…」
 そう漏らした声は最後のささやかな抵抗だった。
 男はベッドの傍らに佇んでいた。アストラルにはその表情がよく見えない。ただ微笑んでいるような気配がある。それは勝者の鷹揚のようであり、角度次第では紳士的なもののようにも見えた。男は拭き上げられた床の上で靴音を鳴らし、椅子をこちらに向かせ浅く腰掛けた。
「俺がナンバーズを持っていることは、もう知っているじゃないか」
「見せてほしい」
 アストラルは目に少し光を取り戻し、わずかに起き上がった。男の顔が正面から見えた。しかしその印象は曖昧で、どこにでもいるような男の顔に見えた。笑みを湛えてはいるが、それが胡散臭いものであると本能が告げる。
「君がナンバーズを欲しがるように、俺にとってもこれは大事なものだ。そう易々と見せるわけにはいかない」
「最後は私がもらう約束だ」
「勿論だ、それが契約であり、何より俺の心に訴えかけた約束だ。君との約束を破るほどゲスじゃないよ」
 男は胸のポケットを指で叩く。
「が、こっちにもそれなりに用心させてもらわないとな。君は目的のためならば何でもやるだろう」
「何でも…」
「ナンバーズを取り返すために俺に身体を売るんじゃないか。カードを見せたが最後、奪われて逃走されてはかなわない。その程度の猜疑心は持たせてもらわないとね」
 笑い声がアストラルから血の気を引かせた。
 男の言ったとおりだった。ナンバーズを持っていると分かった。デュエルのかわりに出された条件はこの部屋、アストラル一人、アストラルの身体。遊馬はそれを承諾した。契約は交わされた。ビルの入口の前で遊馬が言ったとおりだった。今までに比べてどれだけ平和的な方法でナンバーズを取り戻すことができるのだろう。
 アストラルが顎を引いて黙り込むと、等価交換というやつさ、と男が言った。
「俺とてそこまで吝嗇というわけじゃない。君のためにこの部屋だって借りた。君を迎えるためにリフォームし、君のためにベッドを用意した。傷つける気はないよ、そんな酷いことをするもんか。ただ、君と君の所有者、九十九遊馬がいつもしていることをしようというだけさ」
 遊馬の名前が出された途端、これ以上ショックを受けるだろうかと思っていたアストラルの目の前が暗くなる。
「交歓の行為だよ、悦びであり愉しみ」
「私は…」
 声が震えている。今更怖がることなど、怖がるなど。相手を見ろ、と頭が命令をする。記憶の奥底から声がする。アストラル、使命のためには何事も全てやり遂げるのだ。
 アストラルは顔を上げる。男の顔はよく見えない。等価交換さ、と男は繰り返した。
「脚を広げて、見せてくれるか? 俺は俺の大事なカードを見せるんだ、君が大事なところを見せるのも道理だと思うね」
 大事な。
 遊馬が触れるまでそんな意識もなかった。遊馬だけが触れるからその箇所は特別であり、男の言うとおり大事なところ、なのだ。
 アストラルは膝を立て、そこに両手を添えた。
 脚を開くのを、男は相変わらず余裕をもって眺めていた。興奮するというより、じっくりと味わいながら楽しんでいるのだった。
 アストラルの脚の間。本来なにもなかったそこが、今は溶けるようになってしまっている。そうと遊馬が望めば穴も生まれ、受け入れようとする。全ては遊馬の望みだった、アストラルの意志だった。目の前の男をこの後絶対に受け入れることになるのだろう。そうと分かっていても、今はそこは冷たく閉じている。ただ視線を受け、腹の奥がひどく熱くなるのを感じた。
「本当に、なにもないんだ」
 男は素直に驚いたようだった。今までの余裕ある態度に比べ、それは無邪気でさえあった。
「しかし不完全だとは思えないな。完璧みたいだ。セックスするには少々不便だが…」
 アストラルが反射的に脚を閉じようとすると、男は笑って手を振る。
「言っただろう、乱暴なことはしないさ。ただ入れる時にちょっと無理をするかもなって心配しただけだよ」
 君のことは常に考えているよ、と男は笑みを残したまま言った。
「そのためには財産だって擲つし、ナンバーズだって差し出す。俺は心底真面目に、力のない一般人なりに君への愛情を示しているんだ」
 指が胸ポケットからカードを取り出した。それが目に映り、アストラルの意識は些か明瞭さを取り戻す。確かにナンバーズだ。贋物でないことは、デュエルを介していなくてもアストラルには分かる。正真正銘の本物。この肉体的交渉を代償に取り戻そうとしている自分の記憶の一部。
「信じてもらえたかな」
 男が顔を覗き込み尋ねる。アストラルは無言でひとつ頷いた。結構、と男も至極真面目な顔で頷いた。
 カードは椅子の上に置かれた。男はベッドに上る前に自分の着ているものを全てはぎ取り床に捨てた。その肉体は淡い光の中に晒されたのに、アストラルにはやはり男の身体が黒く染まっているように見える。ナンバーズの力のせいだろうか。まさか96ではあるまいし、とは思うが視線が刻印を探してしまう。
「じろじろ見るなんて、男の裸を見慣れてないわけじゃないんだろう?」
「それは…」
「十三歳の少年の身体とは違うかい? …いや、君はきっと俺に興味はないんだよな。ナンバーズの刻印だろう」
 素裸になった男はベッドの上に乗り上がる。膝をつき、アストラルに向かって右手を差し出す。
「この手の甲だ。見てみたかったかい?」
「…何故、デュエルではないのだ」
「説明を始めたら日が暮れる」
 不意打ちで男の唇が押しつけられ、アストラルは思わずのけぞる。しかしその身体はもう大人の男の腕に捕らわれてしまっていた。ベッドが優しく背中を迎える。それは屋根裏の床よりも勿論、遊馬のベッドよりも寝心地のいいものだった。しかしアストラルは自分の身体がどこまでも深い沼の底へ沈んでゆくような冷たい感触が胸の奥から全身に広がるのを感じた。
 男がアストラルの秘められた箇所に気づくのに、時間は大して要しなかった。しつこいほどに繰り返されるキス。愛撫も丁寧すぎる、とアストラルは思った。彼にもっと語彙があれば、ねちっこいと表現することができただろう。遊馬が本能のままに触り押しつけるところを男は一つ一つ確認しながら意図しながらアストラルの反応を見ながら触れた。
 本来、嫌悪しか感じないはずだった。目の前の男は遊馬ではない。遊馬以外の誰にも触られたくないのだ。この世界に降り立った時、自分の姿を見ることができるのも声が聞こえるのも遊馬だけだった。この姿も声も遊馬のためのものだったし、実体を持つことができた時真っ先に触れてほしかったのも遊馬だった。遊馬はアストラルのその望みを叶えてくれた。アストラルの望むところ全てに触れ、漏らす声の全てを聞いてくれた。
 その歓びの記憶の上に、男の手は触れてくる。その愛撫に傷つける意志がなかったとしても、アストラルの記憶は無遠慮に触れられ蹂躙されているのだ。
 唇を固く閉じてはいても、鼻の奥から漏れる息は隠しようがなかった。耳を舐められ吐息が直接吹き込まれると、頭の奥まで犯されるようで逃げ出しそうになる。唇が開いた。
「いや…」
 遠くに聞こえたのはアストラル自身の声だった。うわずり、震えていた。
 腕の下で拒絶の言葉を吐かれても、男は余裕をかけらも崩さなかった。むしろ喜んでいるようだった。
「もっと声が聞きたい」
 唇の隙間から男の指が割り込む。思わず低い悲鳴が漏れ、アストラルは男の指を噛んだ。
 しかし男は意外なことを言った。
「可愛いな」
 アストラルは今聞いた言葉が自分に向けられたものだと知り、目を丸くした。誰も自分に向けてそんな言葉をかけた者はいなかった。肌を重ねた遊馬でさえ、そんなことは言わなかった。
 男は指先でアストラルの舌を撫でながら言った。
「甘噛みっていうのかな。いつもこんなふうにじゃれてるのか、九十九遊馬とは」
「ゆ……」
 遊馬の名前を呼ぼうとすると、舌が自然と男の指に押しつけられてえずきそうになる。
 アストラルは歯に力を込めた。
「痛くないよ」
 男は笑った。
「本当に可愛いもんだ。噛む力がないのか…だとしたら好都合かもしれないな」
 男が指を引き抜く。ぬるりとした液体が唇の端を撫でる。唾液だ。遊馬とキスをした時も出た。それが今はぬるぬると不快になすりつけられる。
 男が真上からアストラルを見下ろした。背けようとした顔を両手で包まれ、正面からキスをされる。唾液に濡れた舌が突っ込まれ、息が苦しい。男の唾液を飲み込み、互いの呼気の混じり合った生ぬるい空気を吸う。
 唇が離れると視界がぼやけていた。瞳の上を水の膜が覆っている。それはまばたきをすると目の縁からこぼれ落ちた。
 息の上がったアストラルをなだめるように、男の手が優しげに頬を撫でた。
「君は人間の肉体をどれだけ知っているのかな」
 指先が目から伝うものを拭う。
「九十九遊馬は君に歓びを与えたろうが、優秀な教師とは言いがたいだろうな」
「…なにが言いたい」
「何故キスが気持ちいいのか、考えたことは?」
 遊馬だ。遊馬がしてくれるからだ。 男の指が唇を撫でる。
「進化の過程で培われた古い古い記憶さ。子どもを産み育てる際、または育てられる際、それに関わる行為が不快情報では困るんだ。この唇で乳を吸い、この胸は赤ん坊に吸われる」
 男の手はゆるゆると下りてアストラルの胸の上に押しつけられる。
「ここを触れられるのはとてもイイこと、と脳が反応するように人間は自分の神経を調教したんだ」
 どうだい、と男が押しつけるだけの手から愛撫を再開する。アストラルは自分の中で蠢く感触の情報に低く喉を鳴らす。
「アストラル、もし君がこの唇で、この身体で快楽を感じるとしたら、それはこの世界の人間と交わることを前提とした肉体の作りなんじゃないのか?」
 アストラルはまばたきをする。遊馬の姿が見える。遊馬は笑って気持ちいいと言った。キスをすることも、自分の性器をアストラルの中に入れることも。アストラルはアストラル自身の身体を調教した。遊馬の触れるところはどこも気持ちがいい。遊馬が入れたいと望めば、自分には本来備わっていなかった機能も…。
 短く悲鳴を上げた。男の手が脚の間を這っていた。そしていつの間にかとろけ始めていた箇所に、彼は気づいた。男は一瞬真顔になり、それからゆるゆると笑みを広げた。指先がとろけた場所と丁寧にじわじわと撫でる。そして入口を見つけ出す。
「九十九遊馬の…」
 指がもぐり込み、内側を撫でる。
「かたち、というわけだ」
 そのまま征服されるのだ、とアストラルは目を瞑った。しかし男の気配はすっと退く。薄く目を開けると、そんなに怯えなくても、と立て膝に座った男が笑っている。
「物事には順序がある。身も心も九十九遊馬のものである君を手に入れようとするのにもだ」
 男はアストラルの腕を取り、自分の傍に引き寄せた。
「まず、俺のかたちから覚えてもらおうか」
 指先が唇を撫でる。アストラルはある種の予感に背筋を振るわせた。男はその手でアストラルの髪を掴んだ。
「その口で」

 口の中を穢したその液体を吐き出すことは許されず、アストラルはそれを嚥下する。実体を伴ってからも何かを食べたことはない。口の中に入れたのは今までも遊馬の唾液だけだった。白濁とした液体はほとんど使われることのなかったアストラルの味覚も嗅覚も蹂躙した。喉の奥に絡むのが苦しく、咳き込むと唇から諸々の混じった液体が垂れ落ちる。
 アストラルは既に力を消耗していた。ぐったりと、もう倒れ伏してしまいたかったし、事実そうした。声を漏らすのも億劫だった。喉の奥で呼吸が嫌な音を立てる。また咳き込んだ。男のことなど気に掛けもしなかった。
 相手に腰を持ち上げられても、もう抵抗する気にもなれなかった。脚の間のとろけた箇所をまた指が撫でる。今度はさっき以上に内部を探られた。ちょっと狭いと男が笑った。
「十三歳を相手ならこんなもんかな。でもガキの性欲は歯止めが利かないから」
 君を満足させてやれればいいんだが、と優しげに言われるのにも耳を塞ぎたかった。しかしアストラルにできたのはシーツを握りしめることだけだった。
 交接は果てしなく続くかと思われた。歯止めが利かないのはどっちだという呟きが虚ろな胸の中に転げた。外はもう暗くなりかけていた。しかし男は満足することなく果ててもなおアストラルの中に入り、律動を繰り返した。
「早く終わればいいって顔だ」
 アストラルの脚を抱え上げ、折り重なるようにしてのしかかった男が言う。
「でも、まだだ。確証が持てるまでは」
「かくしょう…?」
「呂律がまわってないぜ」
 男はそんな些細なことが楽しいらしく、表面的な笑みではなく湧き上がった微笑みを浮かべた。
「確証だよ、本来ならば触れ得なかったはずの異世界の住人たる君を手に入れたという確証。一途に所有者を乞い求める君を俺のものにしたという確証」
「所有者…」
「九十九遊馬さ」
「遊馬は…」
「違うと言いたいのか? 君の自覚はどうあれ現実的な関係はどうだろうな。それに、気づいていないのか」
「なにを」
「自分が九十九遊馬の名を呼び続けていることに」
 アストラルは息を飲み、そして口の中で呼んだ。反射的に呼んでいた。遊馬、と。
「君の身体を簡単に売り飛ばした、君の神様の名前だよ、アストラル」
 自分の名を呼ばれた途端、アストラルは手を伸ばしていた。何かをしようという具体的な意図があったわけではない。しかし相手を傷つけたいという意志はあった。指が鉤に曲がり暗がりの中で笑う男の目を目指していた。
 しかしその手は簡単に縫い止められる。支えを失った脚が落ちて、スプリングの上で跳ねた。
「遊馬、か」
 男の声にまとわりついていた微笑みが消えた。
「君は俺の名も尋ねなかったな、アストラル」
 突然乱暴に動かれ、アストラルは悲鳴を上げた。交接する箇所はとろけ、また男の吐き出したものでぬめっていたのに、それでもなお無理矢理奥まで押し込まれる痛みを感じた。
「もしもアストラル、君の身体が人間と交わることを前提とした肉体なのならば、俺と君の遺伝子の交配物もできるんじゃないか?」
「…っ何を」
「九十九遊馬を受け入れるための細胞を、君は用意し始めているんじゃないだろうか」
「馬鹿な…」
「俺が横取りしたならば、流石の九十九遊馬も怒り狂うかな」
 乾いた笑いがすっかり暗くなったフロアに響いた。
 何度も押し入られ、それまで吐き出された精液が溢れ出して不快な音を立てた。脚の間を伝い、シーツを汚しているのも、その不愉快な感触から分かった。しかし男は夢中になって自分の腰をアストラルに打ちつけた。
 ビルの谷間から月が昇り、窓ガラスがぼんやりと光る。男の表情の端が、アストラルにちらりと見えた。情けない顔で笑っていた。
「孕むまで、ちゃんとしてやるよ」
 アストラルは首を反らした。市松模様の床、黒いパネルの上に椅子が一つ。そこに置かれたカードを見た。
 光と闇。善と悪。天国と地獄。全ての構造は崩壊していた。淡い光をはらんだ灰色の、がらんどうのこの場所には既に支配者は、キングは存在しなかった。
 吐息と共に思わず漏れそうになった名前を飲み込み、それからアストラルは静かに瞼を伏せた。

 遊馬、と呼ぶと革トランクの上に頬杖をついていた彼が振り向き、満面の笑顔で迎えてくれた。
「おかえり、アストラル」
「ただいま…」
 アストラルは少し離れた場所に座り、上目遣いに遊馬を見た。
「なんだよー」
「…いいや」
「ナンバーズは?」
 軽くカードをかざしてみせると、よかったな、とまた無邪気な笑顔で言われる。
「取り戻せなかったのかと思ったじゃねーか」
「え…?」
「ナンバーズ取り戻せなくて怒られると思ってんのかなって」
 こっち来いよ、と遊馬が手を引く。しかしアストラルはそこから動けない。
「遊馬…」
「なに」
「私は…その、くさくは、ないか?」
「はあ?」
 遊馬は鼻を鳴らして匂いをかぐ。
「なに? 犬のウンチでも踏んだの?」
 アストラルが首を横に振ると、今の笑うところだろ、と遊馬は唇を尖らせる。
「なに心配してんだよ」
 遊馬はアストラルの両手を取り、頬にキスをした。
「言ったろ。何があっても、お前が何をされても、オレはお前が好きだって」
 黙って頷くと、今度のキスは唇にされた。アストラルはまた視界がぼやけるのを感じた。
「泣くなよー」
 あたたかい手がわしわしと頭を撫でる。
「遊馬、しかし、私は、あの男……」
 思わず言葉が出るが、その先をどう言えばいいのかアストラルは結局口を噤んでしまう。
「心配すんなって」
 遊馬の両手がアストラルに顔を上げさせる。
「あいつはもうお前に何もできねえよ」
「何も…?」
「ああ。だってあのビル、もう壊れちゃったからな」
 笑顔のまま遊馬は言った。アストラルはその瞳に意識が吸い込まれてしまうような頭のぐらつきを覚えた。
「壊れ、た?」
「壊してもらったんだけどさ、まあいいじゃんか詳しいことは」
「あの男は」
 死んだのか、という問いは囁きだった。
 それに対し遊馬ははっきりと是と示した訳ではなかったが、相変わらずの笑顔でこう言った。
「だってもうナンバーズ持ってないんだぜ? いらないじゃん」
 アストラルは脱力して遊馬の胸にもたれかかった。遊馬の笑い声が耳をくすぐる。あたたかい手が背中を撫でる。
「おつかれさま、アストラル」
「遊馬…私は…」
「ん?」
「私は…君のことが好きだ。世界中のなによりも、宇宙に存在するなによりも」
「ありがと」
 遊馬はアストラルの耳元に囁いた。
「オレも好きだぜ、アストラル」






ついったでけろこさんが「ナンバーズのために身売りするアストラル」と発言されたのを受けて