ダイヤモンド




 見慣れない色の反射が見えたような気がして遊馬は振り返るが、そこに浮かんでいるアストラルはどうと言うこともなく遠くを見ている。何かあったのか、と尋ねようとしたが何があっても遊馬はそれを知っているはずなのだ。アストラルは鍵の中に籠もる以外、自分から離れたことがない。また三つの太陽でも現れない限り。お前はオレのこと知ってるっていうけど、オレだってお前のことを知ってる。
 視線に気づいてアストラルがこちらを向いて目顔で尋ねるが、遊馬はそれに笑顔だけで返した。何も心配することなんかない。オレたちは一心同体なんだから。
 しかしもう一度振り返れば分かったはずで、海の向こうから射す強烈な夕陽は確かにアストラルの体内で奇妙な屈折をした。腹の奥に光るそれをアストラルは無言で見下ろす。
 小指の先ほどのダイヤは時々このように光って存在を主張した。アストラルはその価値を大して認めない炭素の塊。まるで星の輝きのようだと言われてこの身体の中に詰め込まれた――捧げる、と言われた――小さな宝石。ドロップカットは涙の滴だと言われた。涙とは何だろう。分からない。
 遊馬に見せたくない、と思った訳ではないが言えずにいる。自分の手では取り出すことができない。しかし遊馬の手ならこれを取り出してくれるのではないだろうか。知られてしまうけれども…。
 取り出して、この夕焼けの海に捨てて欲しい。綺麗だと言って遊馬が喜ぶ気がしたから。アストラルは腹にそっと手を当てて反射する光を遮った。


 真夜中だと思った。眠りと覚醒の境界が曖昧で、自分が眠っていたという意識さえない場所からハンモックの上に意識を引きずり上げられる。心臓がどきどきする。腹の中が熱い感じがした。身体の奥は熱いのに鳥肌が立った。
「ア…」
 思わず声が呼ぶ。
「アストラル」
 呼んだ意識さえなく、その声が耳に届いてからアストラルのことを思い出し、また心臓が跳ねる。皇の鍵を奪われ、アストラルが独りで戦っていると感じたあの時の戦慄にも似ていた。
「アストラル…?」
 返事は聞こえない。しかしそこにいると感じていた。目が見えるようになる。床の上を見下ろすと模様の浮いたあの細い背中が丸まっている。
 悲鳴は口の中で小さく噛み殺し、遊馬はハンモックから滑り落ちる。小さな声で名前を呼ぶが何ができるわけではない。アストラルは顔を伏せ、苦しそうに呼吸している。口の端から唾液か何かが垂れているがそれは床を濡らしはしない。嘔吐する時の様に似ていた。風邪を引いて気持ち悪くてしかたがなかった時、トイレに蹲っていた自分の姿に似ていた。あの時は姉が背中を撫でてくれたが、アストラルの背中を撫でてやれるものは誰もいない。オレはここにいるのに、苦しそうなのも見えるし、ぜえぜえいう息も聞こえるのに。
「アストラル…」
 小さな声で呼ぶと、大きな瞳がちらりとこっちを見た。しかしそれはすぐに伏せられ、それから何かを吐き出そうとする苦しげな音。濁った水と一緒に吐き出された何かが木の床の上でこつりと硬い音を立てた。濁った水はすぐに見えなくなる。しかし音を立てたそれは残っている。
 アストラルは蹲ったままだ。遊馬が床の上に転がったそれに手を伸ばそうとすると、遮るように発光する腕が伸びたが、勿論触れることなくすり抜ける。遊馬は背後からの月明かりを受けて光るそれをつまみ上げた。透明で、涙の形に削られた…ダイヤだ、と遊馬は思う。多分本物のダイヤだ。物凄く透明で、こんなに光を反射させるものは。
 遊馬、と掠れた声が呼ぶ。アストラルが眉根を寄せ、見上げている。
「どうしたんだ、これ」
「それは…」
 遊馬はダイヤを持った手を伸ばしアストラルに触れようとする。しかし遊馬の手もダイヤもその水色の身体をすり抜けた、いつものように。
「それは…」
 アストラルは顔を伏せた。しかし遊馬は笑顔で尋ねる。
「お前、身体の中でこんなもん作れるの?」
 え、と尋ね返す声は気が抜けて、アストラルは思ってもみなかった、という顔をする。
「お前の身体のことって全然分かんないけどさあ、これ、お前が産んだんだろ」
「産む…?」
 もらっていい、と言って、直後遊馬はいや別にダイヤが欲しいとか高そうだとかそういうんじゃなくて、お前に触れないだろ、オレ、だから…。変な意味じゃないけど、と遊馬は顔を赤くした。
「お前に触ってるみたいじゃん、これ」
 私に、とアストラルが身体を起こす。もうほとんどいつもの顔をしている。文字通り喉元過ぎればというやつなのだろう。
「私に…触れたいのか、遊馬」
 その言い方はずるいだろ、と遊馬は言う。
「お前だってオレに触りたいんじゃないのかよ」
 そして手の中のダイヤを見下ろし、オレはお前に触りたいって思ってたんだぜ、ずっと、と呟いた。
 少しだけ沈黙がおりた。遊馬の腹の中にわだかまっていた熱は消えていた。鳥肌立つような寒気も。そして触れられない目の前の相手との間に、何か電気か火花のようなものが走るのを感じた。触れられないけれど同じ空間にいるのだから、姿が見えて声が聞こえるのだから、きっと何もないはずはないのだ。だからアストラルが苦しんでいる時に自分は目を覚ました。触れられなくたって。だけど触れたい。
「それは君が持っていてくれ」
 遊馬、とアストラルが言った。顔を上げると、笑みというより少し苦しそうな顔をしている。
「本当に?嫌じゃないのか?」
「君に持っていてほしい」
 その言葉と共に表情は少しほどけて、遊馬も息を吐く。ありがと、と小さく呟くと、嬉しいと感じているのは私の方なのだ、とアストラルが呟いた。
 もう苦しくないか、何かあったらいつでも言えよ多分起きるから、あ、でも何もないなら起こすなよすごく眠い、ハンモックの上から念を押すと、君が眠ったら鍵の中に入るからとアストラルは言った。
「おやすみ」
「おやすみ、遊馬」
 ダイヤを挟んで触れられない手を重ね合わせる。
 瞼を伏せると砂の中を滑り落ちるように眠りに落ちるのが分かった。同じ速度でアストラルも鍵の中に消えたのだろうと思う。遊馬は眠りの中で右手を握りしめる。明日になったらもしかしたら溶けて消えているかもしれないダイヤを、強く握りしめ、ならば今夜だけは絶対に離さないと誓った。






ついったでけろこさんが「貢ぎ物を全部体内に入れてしまう俺アス」と発言されたのを受けて