ハッピートロンフレンズ

略してハピトロ






 寝ているのか覚めているのか分からない。彼には最近時間の感覚も曖昧だ。何をしたのだろう。手の甲の紋様が疼く、痛み止めを飲んだ?まさか、そんなものにはとっくに頼っていない。なのに夢も現実も曖昧だ。時間の感覚も、匂いも、温度も、味も。
 用意された朝食をぼんやり眺めていると、弟が早く席につけばと促す。大きなテーブル、用意された揃いの皿と、カップと、鈍く光るナイフとフォーク。朝食、そうか今は朝なのか。
 カップからは湯気の立ち昇るのが見えるが、匂いは届かない。彼は自分の目の前の、おそらく自分のために用意されたカップに手を伸ばし、持ち上げる。鼻に近づけても、それがなんなのか分からない。窓から射す鈍い光に透かそうとする。コーヒーだろうか、紅茶だろうか。でもすっかり冷めているようだ。指を突っ込んでかき回したが、体温より少し低い不愉快なぬるさがまとわりつくだけ。それがどろりと濁った気がして、慌てて手を離すとグラスは床の上で割れ液体が足下を濡らした。
 これは血じゃないか。
 高笑いが聞こえる。自分の声だ。誰かを――誰を?――地獄に陥れ愉快そうに笑う自分の声。なのに、彼の喉は渇ききっていて、そんなものを出せるはずもない。弟の呼ぶ声も、その笑い声にかき消される。誰だ、笑っているオレは誰だ?
 顔を上げると眼前に奴が立っている。何故、こんなところにいる、どこから這入り込んだ、神代凌牙!シャーク!
 凌牙が汚れた手で皿を撫でる。血が皿にパンにテーブルクロスにこびりつく。白かったものが真っ赤に穢されてゆく。貴様!と手を払いテーブルの上の皿を叩き落とした。また弟の声。何を怯えているんだ、凌牙はオレが追い払ったのに。そう思った次の瞬間、彼は背筋を凍らせる。弟の背後には奴が立っている。
 何をする、何をする、何をしやがる!
 彼はテーブルの上に乗り上がり、弟に手を伸ばす。凌牙は自分のペンダントを後ろからそっと弟の首にかけ、彼を見てニヤリと笑う。ぐっと込められる力。弟の悲鳴が途切れる。弟は手をばたばたと自分の方に向ける。凌牙はいよいよ笑って弟の首を絞める。
「やめろ!」
 その声は哀願するようで彼は自分自身に驚きながらも、しかし弟の首から奴の手をどかそうとする。
 やめろ!やめろやめろやめろ!手を離せ!
「なにをしているの?」
 その声が聞こえた瞬間、暗い部屋に明かりが灯ったかのように思考が明瞭になる。
「手を離すんだ」
 トロンの声が笑っていない。
「今すぐに手を離せ」
 トロンの声は背後から彼を打ち据える。そして彼はようやく自分の手の中のものを見る。両手で強く握りしめ、奇妙な方向に曲がった首。さっきまで笑っていた弟の顔は歪みきっていて、目は白目を剥いている、鼻から何か垂れている、口からは汚い泡と濁った血の色の舌がだらりと…。
 悲鳴と共に手を離した。
「違う、オレは…」
 オレじゃない。
「凌牙が…」
 トロンが名を呼ぶ、その声は鞭のように彼を打ち据える。彼はテーブルの上でゆっくりとトロンを振り向く。トロンはかすかに口元を歪め、食堂の入口から動こうとしない。後ろには兄も控えている。
「凌牙が…」
 うつろな声で繰り返すと、トロンが諦めたように目顔で兄を促した。兄の手には革紐が握られている。まさか、オレを縛るつもりか?家畜のように、罪人のように。違う、オレは凌牙からこいつを助けだそうと。
 そう訴えようとした瞬間、兄の背後にナイフを振りかざした凌牙の姿を見る。彼は悲鳴を上げてテーブルを飛び降りる。手が掴んだのは割れた皿の破片。
「凌牙あああ!」
 兄の首を掻き切ろうとするその手に向かって彼は破片を振り下ろす。吹き上がる血しぶき。
 今度こそ、やった。そう思ったのに崩れ落ちたのは兄の姿だ。兄の首は半分以上裂け、血が噴き出している。血が彼の手を顔を汚す。
「そんな」
 彼は血を拭おうとする。嫌悪感が湧き上がるが、しかし服も血まみれで拭う場所がない。
「違う…」
 トロンを見ると、トロンは自分に向けて銃を構えている。
「違うんだ…」
 そして彼の目にははっきりと見える。神代凌牙がニヤニヤと笑ってトロンの頭を潰そうと豪奢なツボを持ち上げているのを。勿論彼は飛びかかったのだった。赦さない、オレの家族を奪う者は赦さない。特に貴様は、神代凌牙、お前の存在はこの宇宙から絶滅させてやる赦すものか死ね死ね死ね死ねオレが殺してやる!
 凌牙の首を掴み何度も大理石の床に叩きつける。頭蓋骨の割れる音、それから白い破片が飛び散る。脳が、血が、様々な液体が放射状に飛び散り、その中心に彼は何度も凌牙の頭を叩きつける。
 今度こそ殺したぞ、凌牙を。やっとオレは、これで、オレは…。
「手を上げろ!」
 大音声が響き渡った。
「今すぐ手を頭の上に上げ、彼から離れろ!」
 入口の外は明るい。もう昼なのだろうか。朝食は冷めてしまった。眩しすぎる。誰だオレに命令するのは。トロン、一難去ってまた一難だ、トロン…。
 彼はトロンを探す。しかし見つけることができない。ライトが眩しい。ライト?昼じゃないのか?違う、神代凌牙を殺したのは正当防衛だ、奴はこの家で虐殺を…。
「手を離せ!」
「だから凌牙を…!」
 叫ぼうとして彼は自分が馬乗りになった相手を見る。それは小さな身体。自分よりも背の低い、まるで子どもの。白く砕かれた破片。脳と、血と、髪の毛がこびりついて、散らばっている仮面の破片…。
「トロン…?」
 オ…レ…が…?
「警告は無駄だ」
 冷たい声が耳に刺さった瞬間、左目に、いや顔面に強烈な痛みが走る。それは全身を貫き、彼は悲鳴を上げる。スタンガンのコードが自分の眼球に刺さり、激しい電圧がそれをあっという間に水風船のように砕いてしまったのを、彼は理解できない。そのまま気を失う。

 気がついた時は灰色の壁の内側だった。鋼鉄の扉、強化ガラスの窓。射し込む光はいつも濁っていて、朝か昼かも分からない。出される料理はどれも冷たく、あるいは不愉快にぬるい。しかし彼はそれを食べるしかない。その日も冷めたマッシュポテトが皿からはみ出した食事を与えられる。彼はスプーンを握ったままぼんやりとそれを見下ろす。
 すると高笑いが聞こえて来た。自分が誰かを――誰を?――地獄に陥れたときに高らかと上げる笑い声だ。彼は顔を上げる。マッシュポテトを挟んで凌牙が笑っている。






ツイッターで影響を受けながら書いたもの。元ネタは「a bit of pickles」