パラレル・ワールド・ウィンドウ






代償として人間として世界に存在できなくなった遊馬
内部はアストラルと合体済


 ゲートを通り抜ける。勿論パスを持っていないから一度は警報が鳴ってガードと司書が飛んでくるけど、事務室に連れて行かれる最中自分に背を向ければ彼らはもう十三歳の少年の姿をしたこの存在を忘れてしまう。だから遊馬は広い図書館に悠々と解き放たれる。水族館に飛び込んだ自然魚のように。
 ざっと70億人ほど存在する地球上の人間の誰も、もう彼にとってはオブジェに似たようなものだ。生きて呼吸し、言葉を話し、体温もあるけれども、自分にはどれもこれも関係がない。生きて動き彷徨っているのは自分であると定義づければ、彼らの生は植物のように静かだった。図書館はその最たる場所。本棚の間を泳ぎ、自分が地球上に人間として認識され存在した頃は見もしなかった棚の前で止まる。
 本は、それを開いた者へのみ世界を開示する。今や人間以上に雄弁な存在だ。そして自分の中に常に流れ込み、星の間を巡る彼にとっては微細な娯楽。本当は人間のことなどもうどうでもいいくせに。
 それでも遊馬がまだ人間の肉体を保持し存在しているから、愛着のようなものが湧いているのだろう。遊馬の瞳を通して既に形をなくしたかつての背中合わせの存在は、半ば以上遊馬としてその本を読む。
「オレにはゲゼルシャフトなんて言葉難しいし、縁がないよ。当然だろう、私しかいないのだから」
 なめらかに口をつく呟きは問いと答えの切れ目もない。
「ゲマインシャフトってやつも、もう作れないだろうし。それを諦めるのは早いのでは、私がいるのに。どうしろってんだよ、こないだ言った交雑ってやつ?星とセックス別にセックスは必要ないだろう遺伝子のことを君が考えているならばちょっと待て」
 口を噤み、本棚の間の柱にもたれかかる。
 横目に見ると通路のベンチに腰掛けて古い文献を漁っているのは姉、だった、明里だ。しかし彼女にももう遊馬の言葉は届かない。その声だって空調の唸りと同じようなものだし、たとえ肩を叩いても羽毛が触れた程にも気づかないだろう。
 ゲマイン…何だって?
「解ってるよ」
 遊馬は耳の横で掌を無意味にひらひらと踊らせた。
「お前…っていうか…まあ、お前がいるんだし。アストラルだ。ああ、アストラル」
 微笑みを浮かべたのはどちらの意志かは知れないが、たとえ自分の中に流れ込む星の奔流のそれであっても、今の遊馬はそれを拒否する気分ではない。まあ、こういう存在になってからは互いの意見の相違はいつの間にか溶けてしまうし、明確な拒否など一度もしたことがないのだけれど。
 自分が遠い次元の意志に染められてきているのは分かっている。見える景色も随分変わってしまった。
 まばたきをすると、一瞬にしてそこは深海に変わる。明里はあたたかな光だ。遊馬は眩しげに瞼を伏せ、もう一度開いた。
 人工的な空気の匂い、図書館の光景が蘇る。遊馬の指がゲマインシャフトの文字をなぞると、それは空中に飛び出して緑色に発光する文字で解釈の文章を連ねる。
「血縁、地縁、友情…などにより自然発生した…有機的な関係」
 間髪入れず、我々のことだ、という言葉が口をつく。
 それに対し遊馬はぐっと一呼吸間を取って言った。
「オレたちに名前はいらないよ。オレたちしかいないんだもん」
 手がそっと本を棚に返す。
 名前を欲しくはないか、という呟きがこぼれた。ほしいのかよ、と小声で呟くが返事はなかった。愛、とか。囁くと、それが人間の用いる言葉だから私はその言葉を使いたい、と拗ねた自分の声が言うので少しおかしい。
「人間の言葉も、動物の言葉も、植物の言葉も、星の言葉も、お前絶対全部使わないと気が済まないんだろ」
 喉の奥で笑い、好きだ、愛してる、アイラブユーと知る限りの言葉を口にする。
 好きだ、好きだ、好きだ、
「大好きだよ、遊馬」
 そう極上の優しさで囁いたのは自分の声なのだが。遊馬はこらえきれずに声を上げて笑う。明里が顔を上げるが、どこかではしゃいだ笑い声が反響したようにしか聞こえないのだろう。その瞳は遊馬を映さない。
 遊馬は明里に手を振って、その場を立ち去る。
 今日はどこで夕飯を食べよう。またカウンター席のある店で隣の料理をもらおうか、すっかり悪くなった手癖のままにリンゴを盗もうか。
「オレ最近自分で畑作ろうかって思ってるんだけど冗談だろう、そこにかけるエネルギーには無駄が多すぎる」
 くだらないおしゃべりをしながら、また警報を鳴らす。走ってくる警備員を尻目に表に出ると、乾いた風が吹き抜けた。
 肌が乾燥する。唇が痛い。まだまだ人間の身体。時に不便であり、時に懐かしい三十六コンマ五度の体温の身体。その身体が星の意志ではなく、遊馬の意識でなく、ふと自由を感じて浮ついた歩き方をした。踊るように歩道のタイルを踏む。
「どこにでも行けそうだな」
 まばたきをすると街路が雲の上の飛行機雲に変わる。
「ああ、どこにでも行ける」
 何も持たず、地球のあらゆる関係性の糸から解き放たれた十三歳の少年は、遠い星の言葉と声を合わせ雲の上で踊る。
「どこにでも、大好きな君とお前と一緒なら、どこにでも」





花を食べる

 花を食べている。
 ハンモックからこぼれ落ち床をも埋め尽くす色とりどりの花を食べている。味はしない。よく分からない。水に濡れてすかすかになったレタスとか、そういうものを囓るのに似ていると思う。でもこれは見た目も花で、蜜の匂いがして、口に入れれば青くさいからこれが花の味なんだろう。
 仰向けになり、胸の上に落ちてくる花を適当につまみ上げては口に入れる。花は次から次へと落ちてくる。自分の上に座った淡く発光する身体は、さっきから為す術もなく花を吐き出し続けている。涙が流れている。泣くのか、と思うと、花よりもそちらの方が驚いた。涙ははらはらと流れ続ける。それは自分の上には落ちてこないのに、口から吐き出される花ばかり。
 多分何かを言おうとしているのだ。しかし言葉は音声になる前に花になる。それがもどかしくて泣いているのだろうか。実際、遊馬にはアストラルが何を言いたいのかが分からない。取り敢えず花を食べてはみたけれど。
「泣くなよ」
 声を掛けると、いっそう花が溢れ出して胸にぽとぽとと落ちた。
 そんなに花を吐き出し続けて息は苦しくないのだろうか。紫色の斑点の散った不思議な花を口に押し込み、アストラルが言葉にしようとしたものの残骸を見下ろす。
「このままだと溺れちゃうぜ?」
 口の形が、名前を呼んだらしい。
 ユリのような、紫色の不思議な花。どこかで見たことがあったかもしれない。ずっと幼い頃、父に連れられ登った崖のどこかに咲いていたかもしれない。どうしてそんな花をアストラルが知っているのだろう。
 アストラルが吐き出した花、どれもこれも遊馬の記憶の中に咲いている。
 遊馬は潤んだ大きな瞳の底を覗き込んだ。そこに自分の過去さえ眠っている、そんな気がした。そして…それから…何を伝えたいのか。
 手を差し出すと、その中にはらはらと花が降る。両手一杯のそれを口に押し込み、遊馬は微笑む。
「オレもお前のこと好きだって」
 また溢れるように涙と花が湧いた。
 ようやくそれが読み取れた。花になってしまった言葉のどれもこれも、言葉にならない好きの証だった。
「ラブレターみたいだな」
 アストラルが首を傾げる。遊馬は少し照れながら言った。
「ラブレターっていうのは、あなたのことが好きです、愛してますって手紙だよ」
 ハンモックから花が降る。
 それがほんの数秒途切れて。静けさ。そしてくすくすと潜めた笑い声。
 また花がこぼれ落ちるのを日焼けした手が拾い止めて、口に放り込む。





アストラル本体と一体化して色々忘れてきてる遊馬

 思い出せない、と呟いたのに違和感を感じて、これは忘れた訳ではないと思うのだけどうまく口が動かない。
 彼女の顔も声も仕草も、名前だって、その文字だって全て正確に思い浮かべることができるのに、それを舌の上に乗せる方法が分からない。
 そして空疎なオモイダセナイという呟き。
 適当にチョイスした言葉だが、それに対する感情の希薄さも含めて、この身体が吐く言葉には相応しい気もする。すると溶け合った意識も、君は彼女のことを忘れた訳ではない、みたいに感じているらしくて、だよな、忘れる訳ないもんな、と思いながらも唇はまた、ああ思い出せないや、と勝手な呟き。
 頭の中にぱっと言葉が閃く。 彼女の名前は小鳥。観月小鳥。
 そうだ小鳥だ、確かにこの身体一つで地球の上を駆け回っていた時はそう呼んでいた。今でも地上をこの足で歩いてはいるが、人間との縁は随分薄くなってしまったし、本気を出せば星から星へ渡ることくらい出来そうな最近なもので。
 小鳥、と意識が繰り返す。もっとゆっくり、と思う。一つ一つ、音を出す為の唇に、歯や舌に意識を集中させて。
「こー」
 やっと声が出た。そうだ、小鳥の「こ」は今座っているコンテナの「こ」と同じだ。
 オレンジ色の海に向かって、遊馬はもう一度大声で発音する。
「こー!」
 次は「と」。跳び箱の「と」。
 小鳥の「り」はリチウムの「り」。目の前の海にもたくさん溶けこんでいる。
「こー!とー!りー!」
 名前を呼べただけで嬉しくて、遊馬は大声で笑う。大量に酸素を消費する、これはこれで心地良い。夕暮れの埠頭に、小鳥の名前と笑い声が響く。気持ちが揺れるのは小鳥の名前ばかり呼ぶから嫉妬だろうか。
「なんだよアストラル」
 既に己と区別のない存在へ向けて、遊馬はわざわざ言葉を発する。
「お前の名前は一度も忘れたことないぜ、あの時から」
 意識の奔流はうねり、遊馬の身体へ向けて注意を促す。楽しさにかまけてまた意識が逸れていたせいだ、人の形が崩れている。足がだらしなく伸びている。
 軽く蹴り上げると一度ゴムのように伸びて、するするとヒトのあるべきような形へ戻る。足はOK。手は?この前は指の数が多すぎた。片方で五本。合わせて十本だ。手なんかデュエルの必需品なのに忘れるなんてどうかしてたよなあ、と思いながら夕日に掌を透かす。半透明の掌の向こうに夕陽が沈む。
 ぱちん!と両手を叩き合わせると思い出したように皮膚の色を取り戻した。
 今夜はどこへ行こう、どこで眠ろう。その前に夕飯をこの身体に与えなくては。面倒なものだが、このくらいの手間がなければ面白味もない。遊馬はコンテナの上から飛び降りる。着地の体勢を崩すが何とか持ちこたえる。
「そうそう、オレさ」
 モーテルへ足を向けながら、滑らかに動くようになった舌で言葉を紡ぐ。
「コドモ欲しいなーって思ってんだけど」地
 球に何も残らないのも、寂しい?みたいな気がして。
「お前とオレのコドモなら作ってもいいと思うんだけどさ、アストラル、これどうしたらいいの?」
 無邪気な笑顔で他愛もないことを問いかけた。





最終回後・お焚き上げ

 夜がいいだろうと思ったからそうした。星空の下が適している、そう感じた。実際には炎が明るくて星の光は遊馬が見上げてもかすんでしまったのだけれど。
 父と母が、その後は姉が撮りためてくれた自分の写真。遊馬はそれをアルバムから一枚一枚剥がして火の中に投じる。
「覚えてるか?」
 その一枚一枚ごとが灰になるたびに問いかける。オレはこんな思い出話もした。過去の記憶、昔話、お前曰くオレの精神の構成要素を。お前は一つ一つ耳を傾けたけれど、今もそれを覚えているだろうか。もう空と見分けがつかないほど拡散し遠く離れてしまったお前は。
「だからさ、もう一度話してやるよ」
 時間はある。夜は長い。火を絶やさないのも難しいことではなかった。送り届けたいものはこんなにもある。お前が欲しがって触れられなかったもの、お前が欲しがらなかったけどオレが与えたかったもの、二人でこうあればいいと願ったもの。それは星空を写した本であったり、あたたかいマフラーであったり、安いお菓子であったり、今炎の中に放り入れたロビンのポスターであったりした。サイン入りだよ、と遊馬は笑う。
 そうだなエスパー能力が欲しい。異次元に消えたお前の顔が見たい。これは届いているだろうか。白い灰になって夜空に立ち上るオレの記憶やプレゼントは。
 届いていると信じてはいる。寂しさの反対側でこれは揺るぎない。信念、信仰、なんという言葉を使えばいいのか遊馬には分からない。いやシンプルなことさ、オレはお前を信じたし、オレたち二人のことを今でも信じてるんだよ、アストラル。
 だから遊馬の瞼の裏にはマフラーを巻いたアストラルの姿も見えるし、彼が戸惑いながらお菓子の袋を引っ繰り返しているところも見える。星空はもういつでもすぐそばにあるんだろうけど、この地球のある景色はご無沙汰になっちゃったんだろ、思い出したい時に見るといいぜ。
 火が指先を掠める。焼かれた皮膚が悲鳴を上げるが、遊馬は顔を歪めない。この痛みも、次元を超えて届くか?
 オレ、だよ。
 焼かれた魂の切れ端が届くならばどれだけ幸福だろう。遊馬は火傷をした指先を口に含んだ。宇宙の味がした。





凌遊事後、しかしゆまアス

 いいのか、と囁かれ、いいんだよ、と囁き返した。そういう優しい気分だったし、疲労もあったが穏やかな気持ちだった。天井を見上げる視界の中にはアストラルがいて、じっと自分を見下ろしている。いい、と遊馬が言ったからそれなりの心配の加減で見守っているのだろう。
 首をごとりと傾けるとベッドが見える。すぐ、そこだった、のに。笑いがこみあげてきて喉をくすぐった。ちょっとそこまでいけばベッドだったのに、そこに行くことも考えなかったんだなシャークも、そしてオレも。エッチなことっていうのは多分ベッドの上でやるんだろうとは思っていたけれど、それにはちゃんと理由があった訳だ。
 背中も尻も、とにかく身体中が痛い。使用済みのゴムはゴミ箱に捨てられていったけど、あれだって姉ちゃんやばあちゃんにバレないように処分しないと。でもまだ動く気になれない。開いたままの足を閉じることもできない。痛い、まだ真っ最中の痛みには及ばないけど、でもじんじんする。今夜中は消えないだろう。明日も、多分。
「アストラル」
 こっち来て、と呼ぶと彼は音もなく下りてくる。ふわりと上から見下ろされる。
「オレ、明日学校休む」
 ズル休みか、とはアストラルは問わない。そうか、と呟いて遊馬を見下ろす。
「だからさ、明日。今夜からオレ、ベッドで寝るから、アストラル、隣で寝ろよ」
「ん?」
「今夜も、明日も、オレの隣にいろよ」
 お願いだよ、と付け加えると、分かった、と綺麗な微笑みが返された。嬉しくて遊馬はくくくと喉の奥で笑う。
「やった」
 力の出ない小さな、しかし無邪気な呟きだった。
 アストラルの手が伸びて遊馬の裸の上をなぞる。実際には触れることはできないが、好奇心がそうさせるのだろう。めくり上げられたTシャツ。下は全部脱がされた、と思ったが慌てていたのだろう靴下が残っている。
「靴下」
 また遊馬は笑う。
「あの行為には直接関係がなかったから、か」
 剥き出しになった部分がひやひやするのは汗がひいてきたせいだろう。
「まだ濡れているようだ」
「あんま見んなよ」
「なぜ」
「恥ずかしいの」
 オレがトイレと風呂にお前絶対に入れなかっただろ。恥ずかしかったからだよ。こういうの見られるとヒトは恥ずかしいの。っていうか見せちゃいけないんだよ、大事な人以外。
「もう、お前はしょうがないけどさ。全部見られたし」
「見せてくれたのだろう?」
 バカ恥ずかしいな、と遊馬は顔を覆った。アストラルは遊馬の枕元に腰を下ろす。
「彼も、君の大事な人間なのだな」
「うん…」
 まさかエッチするとは思ってなかったけどさあ、と遊馬は溜息をつく。
「でも、シャークでよかった」
 その言葉と共に吐く息は、ほんのりあたたかく、また優しい気持ちになれた。あんな風に逃げ帰らなくてもよかったのに、シャークのやつ。肌の表面が震える。シャークのことを思い出したせいか、寒さに震えたのか判然としない。またアストラルを呼び顔が近づくと遊馬はキスの真似事をした。今日覚えたばかりのキスの仕方だ。
「なるほど」
 アストラルは目を伏せる。
「確かに君はドスケベだ」





最終決戦前みたいな妄想

 遊馬には何も感じることがなくて、ただ後ろから自分の脇腹を押さえている手が、そこに溢れ出す血が「取り返しのつかないことをしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまった」と繰り返し呟いているようで、次第に胸の奥が冷たくなった。
「シャーク」
 指輪をした手を見下ろす。声が掠れていて、どこかから空気が抜けているようだ。
「痛い。シャーク」
 しかし凌牙は応えず、後ろから強く遊馬を抱きしめる。物凄く恐がっているようだ。遊馬は相手をなだめようと手を伸ばそうとしたがその手にも真っ赤な血が滴っていた。目の上にそれを持ち上げ、ぬるりと流れ落ちる様を見る。べとべとする…。と思いながらもシャーク、シャークをなだめなきゃという思いばかり強くて、当てずっぽうに後ろに伸ばす。髪の毛が濡れた手に貼りつく。血と髪を貼りつかせながら頬に触れる。
「ごめん、ごめんな。だからシャーク、手、はなして」
 馬鹿か、と小さく叫ぶ声がして、よかった聞こえていたと安堵した。
「なあ」
 遊馬は首を反らし、相手の顔を見ようとするが、上向いた瞬間に視界が暗くなって、ああこれは駄目なんだなあ、と胸の中で嘆息する。
「頼むよシャーク」
 声が少し甘えた。
「オレ、アストラルのところに行かなきゃいけないんだ」
「行くな」
 今度ははっきりと聞こえた。遊馬は首を振る。オレが行かなきゃ駄目なんだよ、オレのことを呼んでるんだアストラルは、オレが助けてやらなきゃ…。オレには、オレとアストラルには力があるから。
「アストラル…」
 その名を呼ぶと力が湧いてきて、遊馬はシャークの腕から逃れようと一歩踏み出す。その瞬間、周囲の景色が全て認識され、理解できた。音と呼べる音はなかった。街は静まりかえっていた。ビルというビルに明かりはなく、真っ暗な空に異様な色の太陽だけが浮かんでいる。しかし投げられているはずの光は表面をのっぺりと照らすだけで、影は液体のように濃い。
「96…」
 顔を歪めながら遊馬は呼んだ。
「お前はまだここにいるんだろ、96」
 後ろで息を飲む音。遊馬の目の前で影が人らしき形を成し、立ちはだかる。
「オレを呼んだようだなァ、遊馬」
「力を貸せよ」
「なぜ、お前に?」
「なぜもどうしてもないだろ、オレがそう言ってんだよ」
 遊馬は完全に凌牙の腕を振り切り、勢い身体を支えることができず前につんのめる。すると地面から、影という影から湧き出た黒い腕が、人の手ならぬ腕が驚くほどやさしく遊馬の身体を受け止めた。
 ナンバーズ96は、両手を血に濡らした少年を見つめた。神代凌牙はまだ遊馬を抱きしめた格好のまま、腕をかたまらせていた。真っ赤だ。異様な太陽の光に照らされてぬらぬらと光っている。影ばかり濃い景色の中で、血の色も異様なほど鮮やかに赤い。ナンバーズ96は笑ってはいなかった。静まりかえった冷徹な面で、遊馬と同じヒトではなくモノでも見るように見つめている。凌牙はみるみるその表情に憎悪をみなぎらせ、目の前の異形を睨みつけた。何かを言いたげにその口が開く。それを見てナンバーズ96は薄笑いを浮かべようとした。
 その時、黒い腕を遊馬の手が掴んだ。力ない手ではあったが顔をあげようとしていた。
「シャーク」
 荒く息をしながら遊馬が言う。
「シャーク、逃げてくれよ」
「馬鹿!」
 怒声が響く。
「遊馬!」
 遊馬と小さく囁いてナンバーズ96はその顔を覗き込んだ。
「遊馬…」
 黒く細い腕が幾本も遊馬の身体に絡みつく。それは脇腹を深く抉る傷からこぼれるそれを、太陽の光を受けて鮮やかにいっそ美しく濡れ光っている内臓を押し戻す。遊馬は顔をしかめ、そこで初めて痛みを知った顔をする。
「…ってーな」
 迫力のないなりに睨め上げるが勿論ナンバーズ96が堪えるわけもなく、せせら笑いと共に触手は内臓を全て押し込めてしまうと傷口を庇うように巻きついた。
「さあ、どこに行く?」
「アストラルのとこだって言ってんだろ」
 傷を塞がれた遊馬は顔を上げた。
「…シャーク」
 振り向いたその顔には表情も戻ってきている。凌牙はぞっとしながらその姿を見る。黒い触手は半ば以上遊馬の身体に溶けこんでしまっている。
「元気でな」
 遊馬、と叫んだ所でどうなっただろう。一斉に湧き上がった触手は絡まり合い、細かく編まれると禍々しい翼となって遊馬の身体を覆い隠してしまった。
「貴様!」
 ようやく叫んだが、その時目の前の悪魔は翼を一打ちして空へ舞い上がっている。





96と闇遊馬はLOVELOVEデストロイヤーズ

 枯れた花を抱いている。枯れた蓮の茎の先には折れた首のような枯れた果実。何本もの枯れた蓮と枯れた葉を抱いて、遊馬はそっと笑っている。その指先はもう真っ黒だ。
 夜が来るのを待っている。涼しげな風が吹いて空を黒く染め上げ、遠い星明かりさえも遮ってしまう。地の底から唸りが聞こえる。この水を干上がらせ、赤い血潮のような炎を巻き上げて地上を焼き尽くす。そればかりが楽しみで。
 午後になったばかりの陽は穏やかで、誰も通らない道はゆらゆらと陽炎を立ち上らせる。遊馬はバス停のベンチに座り、風が自分の髪と抱いた蓮の花を揺らすのを待っている。空の青は淡く、陽があまりに明るいので白く脱色してしまったかのようだった。鳴かない鳥が舞い、影が道の上を横切った。
 遊馬は陽に向かって手をかざす。黒く染まった手は濃い影を目の上に落とす。それよりも更に深く黒い場所からやってきた相棒は今朝から姿を見せない。もしかしたら、と思って正午の少し前から葬式の真似事などを始めた。悲しくはなかったけれども、もし本当に死んでしまったのなら
「それはかわいそうなことだ」
 と思ったし、
「オレはあいつのことが好きだから」
 こうして改めて口に出してみれば確かにかわいそうな気もする、愛しさは胸を突く。遊馬はからからに乾いた蓮の花弁を手の中で砕く。さりさりと、かつて美しかったものが崩れてゆく音がした。乾いた世界に、それは清浄に響いた。このかすかな音が、今の遊馬には空を揺らす鐘の音のように聞こえる。
 沈黙するように瞼を伏せる。懐かしい闇が訪れる。オレはこの闇の主。そしてあいつのしもべ。夜が待ち遠しい。
 夕闇が落ちればまた二人で楽しくやれるだろう。もし死んでいなければ。この真昼の葬送が馬鹿らしいものだと、三日月のような口で笑って金と漆黒の眼で睥睨してくれれば。踊るように世界を駆け、海さえ干上がらせよう。
 枯れた蓮を抱きしめ遊馬は微笑む。夜を待つ間、そっと居眠りする所存。
 すると小さな寝息を立てる遊馬の影から、静かなざわめきと共に黒い腕が伸びてやさしく遊馬に絡みつく。目が覚めれば気づくはずだった。きっともうこの身体のどこからでも闇を溶かした触手は現れるし、その歪んだ笑みを見たければ自分の影を覗き込みさえすればいい。夜ともなれば俯くこともない、世界は彼らの天下なのだ。
 さりさりと音を立てて枯れた蓮は崩れてゆく。枯れた葉も、枯れた茎も。枯れた果実が首の折れるようにアスファルトの上に落ちて、砕けた。涼しげな風が吹いた。蓮は跡形もなく消えてゆく。






ツイッターで色々影響を受けながら書いた断片