Fe また鉄の匂いがする。 遊馬は瞼を開き、まだ真夜中の部屋の暗がりと、窓から射す淡い光の見慣れた光景の中、視線だけを漂わせじっとしている。アストラルの姿はない。また消えている。離れられないと言ったくせに、奴は時々どこへともなく姿を消す。再び現れる時は急で、しかもすぐ目の前にいるから完全に成仏した(この表現が正しくないこともそろそろ理解し始めたけど)のではないことは分かるが。 鉄の匂い。それは血の匂いだ。遊馬はハンモックから下りてティッシュの箱を探す。床の上を手で探っている最中に、鼻から垂れたものが急な速度で唇の上を伝ってぽたりと膝の上に落ちたのが分かる。片手で鼻を押さえ、もう片手で探した。指先に触れた紙箱の感触に、乱暴な仕草で何枚か取り出し鼻にあてる。掌がべたついている。血で濡れたのだ。 時々鼻血が出る。明里はエッチなことでも考えてたんでしょとからかうが、祖母は子どものうちは皮膚も弱いから別におかしなことではないと言ってくれた。 実は納得している訳ではない。しかし、理由は分からない。血はしばらく止まらない。横になるとうっかり逆流した血を飲んでしまうから、遊馬はティッシュを鼻につめてしばらくぼんやり座っている。今も喉の奥にかすかな鉄の味がする。今日は寝ている間に急に流れたから。 窓から射すのは月光ばかりではない。夜の街を照らす常夜の明かりはここまで届く。太陽の反射した静かな光も、人工の光も、分厚いガラス窓に漉されて淡く拡散する。古いものの集められたこの屋根裏部屋で、降り積もった埃の匂いと、長い時の色褪せた色彩の中で柔らかな影を落とす。鋭利な光を反射するのは唯一、机代わりにしている革トランクの上、カードと一緒に投げ出された皇の鍵だけだ。 遊馬はそれに手を伸ばし、いつものように首にかける。首から胸に馴染んだ重み。冷たいそれを掌に握る。 「どうした、遊馬」 冷えた静かな声が呼んだ。軽く視線をやると、今までちょうど視界から外れていた、しかしすぐ傍にアストラルの姿がある。いつものように、身体に淡い光をまとって。 「…べっつに」 遊馬は鍵から手を離し、鼻を指先で押す。まだ血は止まっていない気がする。熱い。 「血だな」 アストラルは珍しく自分から遊馬に近づき、顔を覗き見た。 「血が流れている。口を怪我したのか?」 「は?」 違うよこれは鼻血、と言おうとして舌に触れた鉄の味。さっき唇を伝った血が残っている。遊馬は手で唇をなする。掌にはもう血はつかない。唇の上で乾いてしまっている。 「鼻血だよ」 遊馬は答えて、舌で唇を舐めた。血の味だ。黙って飲み込む。 「鼻血?」 「子どもは皮膚が弱いから急に血が出るの。別に怪我じゃねーよ」 「弱いから破れたのではないのか? それは怪我なのでは?」 「うるせーなー」 鼻が熱い。遊馬は血を吸ってしまったティッシュを鼻から取り出して、新しいものを詰める。 「…遊馬、手が汚れている」 「知ってるよ」 「洗わないのか?」 「いちいちうるさいっつの」 足音を立てないように階下に下りると、当たり前のことだがアストラルもついてくる。 廊下の明かりには手を触れず、洗面台の電気だけをつけた。鏡には鼻の下へ向かって一筋の掠れた赤い線が乾いている。遊馬は手を洗い、濡れた指先でそれをなぞった。 振り向くとアストラルがいる。多分、血は流れていないんだろう、冷たい色をした姿。 「人間には血が流れている」 アストラルの声を聞きながら、指先についた深紅を洗い流す。 「普段は体内を循環しているが、外皮が破れるとそれが流れ出す」 授業で聞いた言葉だ。それをそのまま覚えているのか。 「痛くないのか」 蛇口を締める。タオルで手を拭う。 「別に」 短く答えた。 電気を消すと、途端に感じていた以上の暗闇を感じる。アストラルの身体は発光しているのに、それは全く周囲に影響を与えない。 部屋に戻った遊馬は鼻にティッシュを詰め直してハンモックに横になった。皇の鍵をつけたままだ。別にいい。邪魔ではない。アストラルはやはり傍にいる。 「消えてる時さ、お前、どこ行ってんの?」 不意に遊馬は尋ねる。何か答えを期待した訳ではない。ただ思いつくままに、言葉は口をついて出た。 「それとも、俺が見えないだけ?」 喋りながら、喉の奥に血の味が流れ込んでくる。遊馬は激しく咳き込み、身体を丸める。 「遊馬」 呼ぶ、声。 傍にいる。 当たり前だ。アストラルの姿は遊馬にしか見えないのに、遊馬にまで見えなくなったら、それは完全に消えてしまったのと同じことだ。 遊馬はそのまま目を閉じる。眠ったふりをする。水で洗ってひんやりした手に皇の鍵を握る。 自分の息はかすかに鉄の匂いがする。うがいをすればよかったと、その時になって思った。しかしもう瞼は開けない。 「…遊馬」 声だ。まだいる。まだ傍にいる。 触ることができたなら、今だけその手を掴んで離さないのに。
2011.8.3
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