聖餐なる晩餐




 急に冷たい雨が降り出した。季節が変わるのかもしれない。それは鼻先にまずやってくる。
 高いビルの隙間から灰色の空が見える。雨に濡れる下で鈍い銀色にかすむその中にも、まだ人間の営みが残っている。この街に残る人間はもう随分灰色の空に慣れてしまった。夏の終わりから降り止まない、梅雨が再びやって来たかのような長雨。しかしその匂いが、今日の午後決定的に変わってしまった。
 冷たい季節がやって来る。
 傘を畳んで玄関に飛び込むと、家の中は明かりも消えてしんとしていた。夜の手前の暗さ。輪郭はやけにはっきり見えるのに、影が濃い、暗い。返事がないことを承知しながら、ただいま、と声をかけ靴を脱ぐ。しん、と冷たいがその空気がやけに肌に馴染むのは、締め切った空気が昨日の生活、一昨日の生活の匂いを残しているからだろう。肌に馴染む瞬間、わずかにぬくもりさえ感じる。
 濡れた靴下を放って、ぺたぺたと廊下を鳴らす。明かりはつけなかった。遊馬の目には暗い光景もよく見えた。
 キッチンテーブルの上にはからっぽのおやつの皿。青いかけらが残っているので、意地汚く舐める。昼間、小鳥に言われた。鏡を覗くと、舌が真っ青に染まっていた。こんなところに残っている、誰も知らない消失が。白い皿のかすかな反射の上に舌を映す。きっと青いんだろう。
 台所の片隅で影が動いた。
「ユウマ、ユウマ」
 リボンを揺らしてオボミが近づく。遊馬はしゃがみこみ、丸い頭を撫でてやる。
「ユウマ、アッカンベ」
 オボミは顔をくるくる動かして尋ねる。
「違うよ」
 青い舌を覗かせて、遊馬は教えてやる。
「これはアストラル」
「アストラル」
 オボミが繰り返す。
 次に自分が喪うものを思えば、どれもこれも美しく切ない。夕闇の中で機械の身体に額を押しつけ、遊馬は囁く。
「お前は覚えておいてくれよなー」
「キオクスル! ホゾン、キロク、アーカイヴ」
 青く染まったこの舌がアストラル。お前のリボンは小鳥がくれたんだ。覚えるものはたくさんある。同じ数だけ、なくすものも。負債のリストはあってなきが如しだ、全て喪うまで奪われ続けるだろう。それで構わなかった。涙が零れる、これもきっと青い色をしているはずだ。
「アストラル、アストラル、キオク」
「そ、これがアストラル」
 青い涙を拭い、微笑む。屋根の下はいよいよ暗くなる。窓だけくすんだ花色にぼんやりと明るい。キッチンテーブルに腰掛けると、オボミが濡れた足跡を辿って廊下に出て行く。暗がりから「オソウジ、オソウジ」と声が聞こえる。靴下を拾い上げたのだろう。洗濯してくれ、と言おうとして遊馬は口を噤んだ。洗濯したところでこれが乾くような天気はやって来ないし、今更靴下一足を惜しむこともなくなったのだ。
 遊馬は空っぽの皿を取り上げる。もうかけらも残っていないが、自分が舐めたその跡が残っているのをその瞳は捉える。だからもう一度皿を舐めた。味も、匂いもしなかった。しかしそこには思い出が残っていた。
 皿の上に座り、私を食べろと言ったアストラル。それを躊躇なく為した自分。それ以外に互いを手放さない方法はなかった。既に負債の回収は始まっている。
 求める力の代償に一番大事なものを失う。
 何度も繰り返されてきた忠告だ。しかしそんなことを言われたって遊馬は扉を開けるしかなかったし、何度真っ新な状態からやり直したって扉を開けたろうし、何を失うか理解した今でも何度だって開ける。
 だから何度運命が巡ってもやっぱり自分はアストラルを食べるのだろう。
 家族も失った。友も失った。シャークなんか真っ先持って行かれた。そんな状況で小鳥が今だに遊馬のそばにいるのは奇跡的なことだ。彼女はこの戦いの意味も理由もおそらく理解していない。目の前に存在する遊馬を遊馬と信じ、遊馬を受け入れている。勿論、彼女もいつか遊馬から奪われる存在だ。
 こうなれば理解せざるを得ない、アストラルこそ代償のメインディッシュだろうと。失いたくなければ自分から喰らってやる他なかった。離れたくなければ自分から食べられる他、なかった。
 皿の上にのったのは二人の食事という最初で最後の行為への思い入れだ。まったく夕食を摂るように、遊馬はアストラルを食べた。皿の上の彼をナイフとフォークで。
「君は箸を使うのが下手だから」
 ナイフが差し入れられる直前、アストラルは微笑んだ。
 とは言え、最後は手掴みで食べてしまったのだけれど。一かけらだって残したくはなかった。最後まで舐めてすすって腹の中に収めて……残ったのは台所の惨劇。食い散らかしたに等しい。もう聞こえない声が耳元で笑う気がする。やはり君の食べ方は汚い、これだから…。
 これだから、何だろう。文句を最後まで言って欲しい。しかし皿の上に残るかけら、テーブルの上に滴る青い水たまりの他、アストラルの存在した痕跡はないし、かつて存在したものは九割がた遊馬の腹の中だった。
 残された名残は青く染まった舌。テーブルも舐めたもんな、と遊馬は思い出した。
 アストラルが消滅した今、アストラル世界の破滅を憂う存在はここにはおらず、それを望む者どもに好きにやらせればいいようなものだが、遊馬はこの星を壊すために戦っている。既に意義はない。もしアストラル世界が残れば、あのアストラルが帰って来るのではないかという望みも最初は抱いたが、そんな淡い希望は当然一笑に付された。
 何故戦い続けるのか。始まってしまったものに終止符を打つことを覚えたのだろうか。自分の血と肉に溶けこんだアストラルがそうさせるのか。それともオレはこの地球の命運を賭けてもデュエルがしたいだけなのか。
 どろりと手に触れるものがある。自分が益体もない考えに駆られている時はこうだ、察して奴は顔を出す。
「どうした遊馬、まるでまだ憂いという感情があるかのような顔じゃあないか」
「うれい?」
 鼻で笑うと、目の前に現れた真っ黒な姿もまた鼻で笑っている。
 その姿はアストラルの名残、いいや唯一の形見と言ってもいいだろう。ナンバーズ96はその黒く染まった両手を伸ばし遊馬の頬を包み込む。
 既に何かを喋るのも億劫だった。繰り返すのはこの身体にアストラルが混じっている満足感と、相反する目の前から彼の消えた喪失感。そして永い時を潰す為のデュエルとデュエルとデュエルだけなのだ。今更語り合うような新しい話題などありはしない。目の前にいるならば耳を掴んで引き寄せキスするくらいしかないだろう。
 もぎり取る強さで掴むと、黒い腕はいつものようにしがみつかず耳を掴む遊馬の手を引き離そうとする。キスをしながら片手間の攻防。キッチンテーブルの上に黒い身体を押し倒して、遊馬の勝ち。しかし仰向けに腹を晒した悪魔は勝者をせせら笑う。
「この俺も食べるのか?」
「誰が…」
 遊馬も自虐の笑みを浮かべて答える。
「誰がお前なんか食うかよ」
 食べるだなんて、そんな一世一代の愛の営みをお前となんかするつもりはない。腰に絡みつく長い脚の線をなぞって、目をつむって味わえればオレはそれでいいんだ。デュエル中に顔を出せば皇の鍵で粉々に砕く。フィールドに必要なのはブラック・ミストだけ。まして合体など未来永劫、この宇宙とアストラル世界とバリアン世界、三つの次元が砕けたってしてやるものか。
 しかしナンバーズ96は懲りもせず顔を出す。遊馬がこの地球を壊す気になったことを無垢な邪気の塊で喜んでいる。遊馬としては悪魔との契約書にサインしたつもりはないが、喜んで縋り付いてくる腕が心地良いから、ただ何も言わずにいる。
 沈黙した勝者に対し、立場をわきまえぬ悪魔は強気だ。あるいは見通せていたとしても些事であると考えているのかもしれない、このエピキュリアンは。悪魔には退屈なほどの時間が与えられている。その中で存在意義と世界がまったき一つになる瞬間を目の前にすれば、そこに至る時間のどれもこれも愉しみに姿を変えるだろう。伸びた触手が遊馬を床の上に叩きつける。黒い肢体がその上に馬乗りになる。こんな人間の真似事だって。
 あーあ、と遊馬は視線を逸らす。満たされた顔しちゃってさ。そして否応なく興奮を引きずり出される自分も同様に嗤ってやるしかない。キスをねだる薄紫色の舌に噛みつき、やさしいキスの仕方を忘れた、と思った。本当に忘れているのは、やさしいキスなんか一度もしたことがないという事実だけど。アストラル、と遊馬は胸の中で名前を繰り返す。
 アストラル、お前が恋しいよ。
 人真似の行為の終焉で、遊馬は自分の身体にまだ人間らしい能力が備わっていることにまじまじと感心しながら、どろどろに溶けそうになっているナンバーズ96の身体を引きずり上げる。
「ほら、カードの中に戻ってろよ」
「貴様…」
 また耳を掴まれたナンバーズ96は遊馬を睨めつけたが、遊馬は微笑んでその尖った耳に囁く。
「おとなしく留守番しててくれるだろ。あいつにできたんだ、お前にだってできるよな」
「馬鹿に」
 するな、とまで声が続かなかったのは遊馬がその耳を食んだからで、鋭い視線だけが皮膚を掠める。どろりとした液体が皮膚の表面を滑り落ち、床に落ちた瞬間灰のように砕けて消える。
 遊馬はだらしなく服を脱ぎながら歩き、浴室に向かった。オボミは有能なハウスキーパーだ。遊馬の望んだ時にはすでに浴槽からあたたかな湯気が立ち上っている。
 明かりを点けると浴室は白い湯気に輪郭を柔らかく溶かし遊馬を迎える。ほんのちょっとだが気分が高揚し、残った下着も脱ぎ捨てなみなみと満たされた湯の中に飛び込んだ。
 肌が冷たい。身体も、骨の芯まで。雨の冷たさ、やって来る季節の寒さの匂いが肌に染みている。遊馬は顔も半ばまで浴槽に沈み込み、ぶくぶくと泡を立てる。ぬくもりが身体の芯まで届かないのは異形との交わりばかりを要因としない。論点はむしろ、何故異形の冷たい肌が自分に馴染むのかというところに置かねばならない。
 あたたかいと感じるのは湯の熱が表面に移っただけのこと。だが遊馬は満足感を感じた。
 湯を滴らせながら廊下を歩くと、タオルと下着を両腕に掴んだオボミが後ろからついてくる。
「ユウマ、ユウマ」
「さんきゅ」
 歩きながら遊馬は器用に下着を穿き、タオルで髪を拭く。性欲を満たしたせいでうっかり忘れていたが、まだ夕飯を食べていなかった。そのまま台所に向かい、さっきと同じ椅子に腰掛ける。
 急に明かりがつき、電気のスイッチを押したオボミが今度は足下にまとわりつく。
「ナニタベル? タベル?」
「そうだなー」
 遊馬は目をしぱしぱさせながら考えた。さっき性欲と言ったが、厳密に遊馬にある欲望と言えば満たされない感覚だけだ。性欲にしろ食欲にしろ睡眠という肉体の欲求にしろ、その区別は明確ではない。アストラルを食べたあの日から、空腹を感じなくなった。いつからか眠らなくても平気で、自分から股間を握ろうという気にもならなくなってしまった。しかし据え膳に手を出さないかと言われれば否、だ。
「あったかいご飯」
「ゴハン!」
 オボミは復唱し、キッチンに向かった。
 夕飯の間、オボミは全ての仕事を中断し遊馬の向かいの席に座る。こうしてオボミを家族として扱うなら、いつかオボミも喪うことになるはずだ。その時まで遊馬はあたたかい食事と残された団欒を味わう。もし彼女がいなくなったらその時は、もう自分では食事など作らないはずだから。
 欲しいのはアストラル、ただそれだけ。
 目の前から消えたアストラルを惜しみ欲する限り遊馬は人間としての遊馬であり続ける、おそらく。そして寂しさが消えたその時は本当にアストラルと一体になっているはずだ。だから…寂しくはあっても悲しいと思ったことは一度もない。
 食事を終えた遊馬は洗い物をするオボミを振り向かせ、舌を出す。
「アストラル!」
 オボミが答え、遊馬は満足をする。
「覚えててくれよな、オボミ」
「キロク、キロク」
 遊馬はテーブルの上の皿を手に取り、最初からアストラルのことを繰り返す。
 それは彼を食べ尽くしたこの腹の中に還ってきて、永遠に紡がれる物語だ。
「昔々、オレが人間だった頃」
「ニンゲン?」
「そ」
 遊馬が伸ばし触れるその手は、もう機械の身体に触れても冷たいと感じない。
「小鳥や鉄男と同じ人間だったころ、お前に出会うより前の話だよ」
 機械の脳にアーカイヴされる記憶、皆がいなくなってもこの星が消えても冷たい宇宙空間に漂う破片となって残り続ける、誰にも読まれることのない物語。それをきっと、この星が終わるまで紡ぎ続ける。
 青く染まった舌で語り続ける。






2011.9.22