イマジネイション・レコード






幽霊と夕景

空気の焦げる匂いがする。九月が近いからだ。こんな日暮れは完璧すぎて幽霊の声だって聞こえる。
流しに落ちる水を止めれば、直線的な光が消えて、淡く満たすほのかな影と眠りを享受しようとする光の余韻だけが残る。窓を開けて焦げた匂いの空気を吸う。世界の終わりから幽霊は声をかける。地平線の終焉、水平線のバニッシングポイント、生まれることと破壊されることを同時に繰り返す世界と世界の狭間で。デートするには不向きな場所だけど、二人並んで手を繋いでいるにはそこしかないんだろう?だからこれは諦めの境地じゃないのさ。いつも背中に幽霊がいる。背中合わせの冷たい幽霊。電報で知ったんだけど、もう一つトンネルがあるんだってさ。百年も千年も螺子を巻き戻して春分の光が射す遠い石のピラミッドの中で再会しないか。それとも今が再会の約束を果たした日なんだろうか。
焦げた空気の匂いがする。床に水をぶちまけて、その中に幽霊の面影を見た。泣きそうな顔するなよな。





食べる

皿の上に身体を乗せて、私を食べて、とか言う。そんなふざけた真似事さえ面白い。九月の暑さは退屈だから。どこから召し上がろうってナイフとフォークを擦り合わせる。金属音が暑さを裂いた時だけ、雨でも降るんじゃないかって清涼な感じがした。皿の上で笑うお前のどこから食べちゃおう。まずお前の口から色々突っ込んでみるのも面白いかもねって言ったら、こわいものの少ないお前は存外真面目な顔をするんだ。水と一緒に形見の指輪を飲み込んで、夜になったら月明かりにダイアが光るのを眺める。これはデザートだろう?前菜はどこだ。メインディッシュはどこだ。
咲いたばかりで早速枯れてしまいそうな昼顔を摘んで口に押し込む。唇からはみ出した蔓をスパゲティのように吸い込む、お前、食事なんかしたことないのにさ。皿の上に乗っかって、私を食べてとか言う掌の中に白い花が咲いている。その手をとって食事の前に感謝のキス。
いただきます。
どうぞお上がり。





グッバイ・トゥ・ワールド

雨の降る夕方はぼんやりと明るい。雨粒の一つずつが遠い夕焼けを反射させているのだ、と思う。遠くの音も聞こえる。発車したばかりのリニアが雨の空気を裂いて行く。車のタイヤが水を跳ねる音も、誰かが道を喋りながらゆく話し声も。
地球の空気のどこまでも透明なところを辿っていけそうだ。そうして辿り着く場所が世界の果てなのだろうと心の底でひっそり思うと、隣にいる異次元の存在も雨のように現れた気がして、雨の中に手を差し出したらその掌の上に載る。細いつま先が触れるか触れぬかの程度で掌のくぼみの上に立っている。台座の上で踊るオルゴールの人形を思い出した。このまま窓から落ちたら、二人して世界の果てまで落下するんだろう。オルゴールの音色が螺旋を転がりおちるように、円錐の一点に収斂する世界まで、光を放つ雨粒の間をすり抜けながら笑うように落ちてゆく。
掌を斜めに、水色の光がこぼれ落ちたら、自分が行くのもすぐだ。夕景を西へ追いかける。夜のやってくる世界のさよならを。二人で世界の果てを探しに行く。





ジャンクフード

夕飯はチープな皿で、それから贅沢なほどのぬくもりを忘れずに。この地球上で食事を楽しむのはもう自分しかいないから。
鳥のように空を飛びながら見下ろした草原に真っ白なHELLOの文字を見つけたんだ。炎に巻き込まれて舞い上がるHELLOの言葉を、今口にする。へロー、神様の肉と血。ジャンクフードだって、きっと神様の末裔に違いないさ。海を割り地を砕き、世界中を炎で覆い尽くすオレを動かす血肉だよ。ハンバーガーの発明者に感謝。サンドイッチ伯爵にもう一つ勲章を。それからたっぷりのコーラとげっぷと隣のあいつの笑い声。これが最後から何番目の晩餐だろう。
プラスチックの皿が溶けて消える。コーラのカップは一瞬で灰になる。オレは意地汚くストローをくわえている。反対側からそいつが噛みついてニヤニヤ笑う。残念、プレッツェルじゃなくて。このままがじがじ噛んでたってお前にキスはできないさ。するとそいつはストローを吐き捨てる。こういう奴だよ。





溶ける

ぐずぐずと溶けた身体が床の上に滴って、気づけば腕の中にあったはずの何もなくなっている。週末の夜だからかもしれない。自分だって眠たくて今にも正体がなくなりそうだ。一足先に正体のなくなったそいつは抱いていたはずの自分の掌も服もびっしょり濡らして床の上で困惑の溜息を吐く。溜息つきたいのはこっちだっての。
掌に残った液体を舐めると意外に無味無臭で、勝手に電気を帯びた存在のように思っていたから(きっと身体が光るからだろう)あまりにもさらりと飲み込めてしまったことに、飲み込んだ後で慌てさえする。うわ飲んじゃったよ。
ついでに濡れたTシャツの匂いもかぐ。匂いがしないのが、水道水や飲み水のようでもなくて、しかし鼻の奥にもやもやとなにか思い出せそうな気配もするから懐かしいなと思って襟ぐりをちょっと吸ってみると、じゅっ、と小さな音を立てて水が吸い込まれる。こうなったら床の上におりて、飲んでいい?と尋ねるのが早い。
傍らに膝をついて月明かりに光る水面を見つめる。これを全部飲み干したら、こいつの存在は消えてしまうのだろうか。毎日食べる肉や野菜は身体の一部になるけれど、その表現も今回は違う意味合いを帯びそうだ。床に這いつくばって口づけに飲むの?コップで汲み出せる感じじゃないけども。ストローで飲もうかと言ったら、嫌だと言われた。意志はしっかりあるらしい。
つま先から絡め取られる。飲み込まれる。おいおい完全に液体なんだぜ、お前。だから何だと水色の水は言う。私の名前は…。解ってるよお前が誰なのかくらい、だからこうやって飲み込まれかけてやってんじゃん。触れていたい、その意志にばかり忠実な水色の水は形さえ成さないまま身体をすっかり飲み込んでしまおうとする。これじゃ逆だ、と言うと、君が私の中に入っているのに何故、と逆に問われて、ああこいつオレを中に包んでりゃそれだけで気持ちいいのか、と高次の快楽にめまいがしそうになった。
いつものお前が見たいよオレ、と水色の表面に掌を滑らせれば、そうやってできた波紋の中に面影が見つかるから、あれ?オレも結構見た目なんかどうでもよくなってきてるのかな、と一度頭まで飲み込まれて日向のプールに沈むようなゆるやかな心地良さを味わった。息継ぎ。顔を出す。あ、キスができない。キスし放題なのかもしれないけど、と、再び足下を浸すだけになった水色の水に跪き、額ずく。水面越しのキスをしているみたいだ。唇の下には確かにいつもの存在があった。顔を離し、掌を水色の水に浸す。へへ、と照れて笑う。
「なんかエロいの」
さてどうやったら元に戻るのだろう。王子様のキスはとっくにすませたつもりだったから、もしかしたら自分まで一緒に手に負えない存在になったんじゃなかろうか。じゃあ呪いを解いてくれるお姫様待ち、あるいは百年の時待ち、もしくは永遠にこのまま。たまには顔出せよな、と言うと、波紋の中でアストラルが笑った。





浴槽

バスタブのすっかり冷たくなってしまった湯の中に瓶が沈んでいて、透明なそれも、水色のそれも、緑のそれも、輪郭をわずかに水に溶かして一体化してしまったようで見飽きないからじっと見下ろしている。何世紀も昔の遺跡を、何百万年も昔の化石を見ているかのようだ。浴槽の中に違う世界がある。いつの間にこの中に歴史を溜め込んでいたのだろう。
これが、と水色の瓶を指さす。最初に出会った時。それから青い瓶。緑の瓶。透明な瓶が透かす光と陰影の層は二人が混じり合って次元も世界も超えた証拠、その足跡と一緒。透明な影の階層を見ていると意識が滑り落ちそうになる。
刹那の間に時を巡りめまいに視点が反転した、ふと、白いバスタブを目の前に一人であることに気づいた。ああ、思い出ばかりあるのに姿を見ないと思ったら、オレはいつのまにかあいつの心の前に立っていたんだ。浴槽の中に両腕を沈める。鼻先が水面に触れる。波紋の中から、遊馬、と呼ぶ声が聞こえた。





コーヒーゼリー

古い傷痕が固い皮膚で覆われても、それと正常な柔らかい皮膚との境目は今でも痛みをもたらし傷のありかを明確にするものだ。
「コーヒーをいれて」
不意に声をかけられ肩を震わせ振り向くと、姉が長い髪をほどき、掻き上げながらあくびをしている。真夜中をすぎたばかり。無理だよ、と抗うと、インスタントでいいから、と疲れ切った声が返ってくるのでそれ以上の抵抗を止めポットを覗いた。白い湯気が鼻先にふわりと浮かび上がる。姉のマグカップ、ティースプーン。
「寝られなくなっちゃうんじゃないのかよー」
「ミルク入れて、ぬるくして。すぐに寝るから」
冷蔵庫から牛乳を取り出しながら振り返る。
「オレ、ゼリー食べていい?」
「一個だけね」
姉は牛乳ですっかりぬるくなったコーヒーを半分飲み、ぐったりとテーブルに伏す。このまま寝たら風邪ひくぞと思いながらコーヒーゼリーを口に入れるとそれは砂糖がほとんど利いていなくて、遊馬は冷蔵庫に引き返し、一口欠けた黒いゼリーの上に練乳をかけた。
「あんたさ」
ぽつりと姉が呟いた。顔を上げると腕が伸びてきて自分の頭を撫でたところだった。唐突なことに、味わいもせずゼリーを飲み込む。柔らかな塊が食道から胃へ滑り落ちる。
「な、に」
姉はぼんやりとした視線を投げていたが、やがて飽きたかのように腕を引き残りのコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさま」
頭をポンと叩かれる。
この前も泥だらけになって帰ったのにほとんど怒られなかった。最初だけ怒られて、それから泣きそうな顔で抱きしめられただけだ。父と母を失ったのは遊馬だけではない。遊馬にとって姉がたった一人の姉弟であるように、彼女にとっても弟はたった一人の姉弟だ。
あのデュエルを思い出す。自分のことだから全身を見れたわけじゃないんだけれども、へへ、オレ結構格好よかったかも。
馬鹿なことを言うな、と腹の中から声が聞こえた。聞き覚えのある声だがアストラルではない、この粗野な感じ、憎々しそうな感じ。
「ナンバーズ96?」
コーヒーゼリーと思って食べていたら奴だったらしい。冷蔵庫なんて紛らわしい場所に入っているからだ。しかし悪魔の囁きはめげずに腹の底から誘惑を持ちかける。俺と手を組め、なに悪い話じゃない、お前にもその内分かるはずだ。お前にはこの星など必要なくなるのだから。
気がつかないのか、お前は格好良いだの寝ぼけたことを言ったが、お前自身が一体何をしてしまったのか。お前はもう幸福ではいられない。負債が嵩むのに見て見ぬフリをしていられるのも今のうち、そうお前が瞼を閉じて眠りに落ちるまでの話だ……。ごちゃごちゃと話は続くが遊馬は『ふさい』という言葉も漢字変換できないから聞き流している。
おい遊馬、聞いているのか遊馬。
「うるさいなあ」
指先を腹に当てるとするすると黒い触手が絡みつき、全身を絡め取られてしまう。そいつは悠々と腹から姿を現して、鼻先で笑って見せる。遊馬は自分の腹からナンバーズ96の黒い身体が生えているのを見て、自分を拘束する触手も自分の身体のあらゆる場所から生えているのも見、うわ、グロい、と眉を寄せ舌を出す。
「俺の手を取れ、遊馬」
腕を放してもくれないのにナンバーズ96は持ちかけ、細い指で遊馬の顎を持ち上げる。こういう造形だけはアストラルにそっくりだから、背筋が少しぞわりとする。ナンバーズ96はもう勝ち誇った笑みだ。にんまりと端を持ち上げた口は三日月のような亀裂を描いている。
「やだね」
「なんだと…?」
「悔しかったらお前もオーバーレイネットワークを構築してみろよ」
すると急に目の前から笑みが消え、キッチンは静まりかえった。見開かれた目がじっと遊馬を見ている。遊馬の目の中の何かを見ている。そこに見いだしたもの、全てナンバーズ96の持たないものだろう。希望も、不屈の輝きも、黄金の光も。だから目の前の顔はみるみる悔しそうに歪み、噛み殺したうめきが鼓膜を擦る。
「…お前、泣くの我慢するんだ」
意外だったのをそのまま言葉に出すと次の瞬間にはナンバーズ96の姿は掻き消えた。身体から生えて拘束していた触手も姿を消し、皮膚の下に鈍い痛みだけが残っている。遊馬は腕を擦りながら立ち上がると、姉の残したマグカップとゼリーの皿を流しに持って行って水の中に沈める。ふと濡れた手で腰に触ったが、そこにデッキケースはない。勿論、屋根裏の鞄の上だ。あいつは今頃あそこに帰って泣いているのだろうか。
「まあ無理だろ…」
Tシャツの裾で手を拭い、キッチンを後にする。電気を消すため振り向いた一瞬、現実と現実の境目が引き攣れる感触がして目元に触った。
目を閉じて、スイッチを落とした。

パチン。






2011.8.30〜9.20