シュールリアリズム標本




 土曜日の午後、雨が降っている。
 柔らかい雨でさっきから雲の隙間の日差しと交互に降っていた。庭木や屋根を軽い音を立てて叩き、窓に跡を残してゆく。
 広げた足の間にカードが散らばっている。さっきまではデッキを真面目に考えているつもりだった。しかし時々カードの文字が淡い緑色に滲む。アストラルの声がする。不意に手を伸ばして、アストラルの額の宝石のような部分をつつこうとする。指がすり抜けてしまい、アストラルが目を丸くした。
「遊馬」
 名前を呼ばれると魂が身体から引っ張られるような気がする。
「…お前は今日、オレの名前呼んじゃ駄目」
「駄目?」
 聞き返されるが理由は言わない。
 また雨脚が近づく。遠くからビルの林を叩き、近づいてくる。
 遊馬は待っている。もうしばらく待てば姉の明里が呼びにくる。そしたらばあちゃんの作ってくれた弁当を持って三人で海を見に行く。今年は仕事以外で海に行っていない。明里がそのことに気づいたのは朝食の時だった。出し抜けに大声を上げ、彼女にしては珍しく祖母から怒られた。
 かきこむように食事を終わらせた明里は遊馬を指さして言ったのだ。
「今日は三人で海に行くから、勝手に遊びに出るんじゃないわよ」
 急いで仕事の都合をつけようと彼女は部屋に籠もってしまい、遊馬は祖母の手伝いをして皿を片付けながらふと窓の外を見た。雨雲はすぐそばまで迫っていた。
「ばあちゃん」
「そろそろ降りそうだのう」
「行くの?」
「遊馬は行きたくないのかい?」
 用意をしておいで、と背を押されたので部屋に戻った。着替えをして、それから待っている。もうすぐ正午になろうとしているが、待っている。
 待つことには慣れている。いつか呼んでくれるものならば。
 カードを広げて、いつもなら暇潰しではないこっちが本命になってしまうものなのに今日ばかりは気がのらなかった。呼ばれるのを待っている。
 ベッドを背に床の上に座り込むと、ゆるゆるとしたぬるさが溜まってゆくのを感じる。潮が満ちるように、次第にぬるく、暑くなる。呼びに来てくれるのを待って空調は入れていない。汗ばむほどではないから構わない。ぬるい温度は皮膚からじわりと染み込み、吐く息になって出て行く。
「ゆ……」
 背後から声がかけられそうになり、自制で止まるのはアストラルが馬鹿正直に自分の命令を守っているせいだ。命令だって。そんなに強く言ったつもりもないけれど。
 アストラルの言いたいことは分かる。遊馬は手を伸ばして一枚ずつカードを拾う。魔法使いに、騎士に、共に戦う戦士たち。それらが一つの束になりケースに収まる。遊馬はそれを両手で包み込み、息を吐いて首を反らす。
 窓の外を雨が走る。黒い雲が低く這い、いつの間にか天使の梯子が消えている。あれを、雲の切れ間から下りる光線を梯子だと教えてくれたのは誰だったろう。父か、母か。
 雨がひたひたと街を浸す。いつの間にか遊馬の足下まで満ちていてズボンが濡れてしまう。言い訳が面倒だな、と遊馬は思う。違うよ、おねしょじゃねえよ、もう子どもじゃないんだからさあ。
 雨は部屋いっぱいに満ち、ゆらゆらと揺れながら遊馬は悩む。もうベッドもびしょびしょだ。何の言い訳も通用しないだろう。それにしても困ったのは部屋の中が水槽のようになってしまったから、アストラルの姿が見つからないことだ。あいつ、水に溶けるんじゃなかったっけ?違うっけ。アストラル、と呼ぼうにも口の中にも水が這入り込み声が出ない。水の中で口をぱくぱくさせながら遊馬は思う。今あいつのこと飲んだり食べたりしてるかも。
 窓を開けると天使の梯子が幾つも落ちていて、そこから水の上に上がれるらしい。ようやく一つに掴まり水面に顔を出したが見えるのはハートランドの中でも高いビルの屋根だけで、もう自分の家さえ分からない。
 アストラル、と声を出そうとすると口の中から水が滝のようにこぼれでた。みっともないなあと思いながら吐き出し続ける。そのうち止まるだろうと思ったが止まらなかった。どこかのライオンみたいだ。
 仕方なく口を閉じて水を飲み込む。もう今更呼んでも無理だと感じたので梯子を登る。銀色のビルが建っている。中がガラスのように見えるので足を止めて覗き込むと、群青色のエイが何匹もビルの中を泳いでいた。悪魔のマントのようなヒレ、尖ったしっぽ。背後で笑い声がする。どうせナンバーズ96が笑っているのだろうから振り向いてはやらない。
 ビルの屋上には小さいものから大きいものまで水たまりができていて、遊馬はそれを一つ一つ覗き込む。アストラル、と呼ばなくても知らない顔をするものはそうだし、もしアストラルなら呼ばなくても分かるだろう。
 屋上の中央に広がっているそれはアストラルの面影があって、遊馬が覗き込むとかすかに微笑を浮かべる。
「そんなところで何してんだよ」
「君を見ている」
 遊馬は靴を脱いで裸足になり水たまりの中に踏み込む。一気に落下し、急に抱き上げられるように水の中に浮いた。ああ、このままじゃあまたアストラルのこと飲んじまうな。
 群青色の海から空に向かって落ちた一滴はアストラルで、遊馬はアストラルの中から光り輝く都市を見る。まだ行ったことのない都市だ。光が渦を巻いている。違う、これは宇宙だ。生まれたばかりの宇宙が渦を巻き空を飲み込もうとしているのだ。アストラルは遊馬を取り込んだまま光の滴となり、もう一色の渦となって生まれたばかりの宇宙に飛び込む。
 エクシーズ召喚!
 そうだと分かった瞬間、歓喜と興奮に遊馬の視界は真っ白になる。輝く世界が目の前に拓ける。口を開くと光が零れた。何を喋っても光が零れた。アストラル、と名前を呼ぶとそれは新しい銀河を作って海面下の宇宙へ解き放たれる。海の上を遊馬は歩いている。歩きながらいたずらに銀河を生み出し、群青色の水の中へ落とす。遊馬がアストラルの名前を呼ぶたびに、海は銀色の光に満たされる。
 それはずるいと絡みつくものがいて、ナンバーズ96が不満そうな顔をする。また身体に絡みつかれたのが動きづらくて叶わないので、アストラル、と呼んでやると黒い霧がブラックホールになった。しまった、こいつは何でもかんでも飲み込んじゃうんだ。
 そう思った時には遅くてブラックホールはせっかく遊馬が作り出した銀河の海も飲み込む。海は螺旋を描きながらブラックホールに吸い込まれる。遊馬は仕方なく両手で掴んでブラックホールを食べる。内側から裏返り、遊馬は宇宙と同じ色をした自分の裏側を見る。
 飲み込むものが何もなくなった時に自分が現実にいると思い出した遊馬は、瞼を開いて誰もいない橋の上を歩く。夕焼けが強烈なオレンジ色で街を照らし出している。金曜の放課後はいつもわくわくと寂しさの両方が襲ってくる。何でも出来るのに、もう友達と別れる時間だ。今度はいつ、小鳥に、鉄男に会えるだろう。何年経てば、ここと同じ場所に戻って来られるだろう。
 不意に遊馬は振り向くが、そこに浮遊する薄水色の姿はなくて、胸に手をやれば皇の鍵もなくなっている。父と母が消え、姉が消え、祖母が消え、もうあいつしか残っていないと思ったのに。
 橋を渡りきると世界が二分されている。コンクリートの原と、オレンジ色の海だ。海からは波が襲ってきて、護岸壁にぶつかって砕ける。波の飛沫が降り注ぐ。
「あっ」
 声を上げた。自分を濡らす水はアストラルで、また澄ました顔をして傍らに浮かんでいる。
「どうしたんだね」
「どうもこうもねえよ、どこ行ってたんだよ」
「私はずっと君の傍にいた」
「嘘つけ」
「嘘ではない」
 水色の細い指が遊馬の唇から零れる水をなぞる。
「ずっと君の中にいたじゃないか」
「いつから」
「最初からだよ、遊馬」
 生意気言いやがって、とその手に噛みつくと簡単に食べることができた。
「こんなことをされては困る」
「じゃあオレの手、貸してやるよ」
 グローブを脱いで渡すと、仕方ない、と溜息をついてそれを着ける。
 海とコンクリートの境を延々と歩き続ける。時々蟹が目の前を横切ってコンクリートの原に横っ走りに走っていった。喉が渇かないのかな、とちょっと心配になる。
 コンクリートもいつの間にか白い砂となり、足をとられて歩きづらい。しかし遊馬は足の指の間に砂の這入り込む感触が面白くて笑いながら歩く。アストラルが、君ばかり楽しそうだ、と不満げな声を漏らす。
 遊馬は白い貝殻を拾いアストラルに、口開けな、と言った。
 白い貝殻を一つ、二つ、三つと飲み込ませた。螺旋を描く巻き貝、エイの骨のように細い突起が美しく並んでいる。
「痛い?」
 遊馬は尋ねる。
 アストラルは静かに首を振る。
「痛くはない」
 水色の身体の中に貝殻が浮いている。白い貝殻は照りつける西日を奇妙に反射させ、きらめいた。
「ごめんな、食べちゃって」
 やっと遊馬は素直に謝る。そしてグローブで隠したアストラルの手首の先に触る。
「でもオレもう飲み込んじゃったんだ」
「仕方がないさ」
 なだめるようにアストラルが言う。
「そうしなければならないのだから」
 砂の階段を下りると銀色の街がある。ようやく帰ってきた。これから家に帰って何かを待たなければならない。自分は何かを待っていた、遊馬はそれだけを覚えている。
 階段の終わりで遊馬は立ち止まる。アストラルを振り返ると、身体の中で白く輝く貝殻が、今は銀色の光を反射している。家に着くまでもう少しだ。全部食べてしまわなければならない。きっと美味しいだろうと思って貝殻を入れたけれども、今は食べるのが惜しくて仕方ない。
「オレやだよ」
 我が儘を言うとアストラルが優しく笑って口づけをした。遊馬はそのままアストラルを吸い込んだ。水を飲むように、喉を鳴らして。
 手の中には貝殻だけが残る。それはいつの間にかアストラルの額の宝石のような色に染まっている。
「青?」
 遊馬は泣きながら首を傾げる。
「緑?」
 掌をちくちくと刺す貝殻。
「何てゆうの、お前」
 自分の声に目が覚めて、急激に瞼が開き外気に触れた眼球が驚いて周囲の景色を映し出す。見慣れた自分の部屋と、床と、手の中からこぼれだしたカード。
 雨音。
 遊馬は窓の外を見る。天気の中を雨が降っている、その向こうに淡い灰色の雲と天使の梯子が見える。
 カードを拾い集めるとデッキケースに収め、遊馬は立ち上がった。その時ちょうど階下から明里の呼ぶ声が聞こえた。
「遊馬!」
 呼ばれた。
 遊馬は振り返った。そこにはアストラルがいる。薄水色の姿、淡く発光する半身。
「行こう」
 声を掛け、遊馬はドアを開けた。
 父譲りの古いタイプの自動車は三人と、そして後部座席にはこっそりアストラルも乗せて海を目指す。街を抜けるまでまた何度か通り雨に出会い、フロントガラスをワイパーが拭った。透明な水がきらきらと光るのを、後部座席から遊馬は見た。
 観光シーズンは過ぎてしまった砂の海岸に人はなく、明里と春は松の木陰で弁当を広げる。遊馬はおにぎりを一つ掴んで砂浜を走っていく。
 砂は思いの外柔らかく、足をとられる。遊馬は靴を脱いで裸足になり、ズボンを膝まで上げると濡れた砂の上を歩いた。波は時々大きく打ち寄せ、臑までを余裕で濡らす。すげえ、これ海の向こうから来てんの、と遊馬は波を蹴飛ばす。
 塩の利いたおにぎりを食べ終え、遊馬は両手をはたく。急に喉が渇いた。
「アストラル」
 振り向くと、呼ばれたアストラルが空中で止まる。
「何だね」
「喉渇いた」
 アストラルはわずかに唇を開いたまま返事をせず、遊馬の顔を見つめた。
 遊馬も気づく。アストラルに言ってどうしようってんだろう。
「お茶」
 身体を傾がせ、アストラルの横をすり抜ける。
「もらってこなきゃ」
 遊馬は松の木陰を目指して走り出す。砂が足を掴み、なかなかいつものようにはいかなかった。
 アストラルは波打ち際で遊馬を待っていた。遊馬は木陰に座らされるとお茶をもらい、それをぐいぐいと飲み干した。それからまた走って戻ってきた。
 くるりと向きを変え、後ろ向きに遊馬は歩く。砂の上には貝殻が落ちているが、器用に避けて歩く。浜を行く蟹は自分から遊馬に道を譲った。
「あっ」
 遊馬はアストラルの向こうを指さした。
 アストラルも遊馬の指さす方向を振り向いた。
「雨だ」
 海面を雨が走ってゆく。ゆっくりと、雲の流れるスピードで。天使の梯子のように、雨が雲から海へ梯子を渡している。
 遊馬は佇んだままそれを見つめる。並んで一緒にそれを眺めていたアストラルだが、やおら、ちらりと遊馬を見た。
「私はまだ君の名前を呼んでは駄目なのか?」
「あ…ううん、もういい」
「遊馬」
「うん」
 雨上がりの穏やかな陽が海面を銀色に輝かせる。遊馬は忘れていた何かを思い出し、小さく溜息をついた。






2011.9.15