宿題にされた感情




「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」
 思いの外暗い声が言葉を吐き、アストラルの意識を引き寄せた。
 屋根裏の下の遊馬の部屋。明かりがついているのはデスクの上だけで、窓からは月光が射している。丸い月がぽっかりと都市の上に浮かぶ。アストラルはその光を浴びながら、遊馬の視界の外で一人の考えに浸っていた。
 机の上の電気に照らされ、遊馬の上半身の影が床の上に長く伸びている。本人は電子テキストを開いて宿題の最中だ。
 宿題をする遊馬にアストラルはなるべく話しかけない。遊馬はすぐ気が散るし興味が逸れれば喜んでそちらに向かう。宿題ができなくて困るのは遊馬だから、彼の便宜と効率のためにもアストラルは静かにしている。たまには鍵の中に姿を消すこともあるが、いつも遊馬が眠ってしまうまでは表に出ていることの方が多かった。
 遊馬は半眼を閉じ、電子テキストを見つめている。睨む、というには眼力がない。声と同じように、それは少し暗い。宿題をする遊馬はよく困った顔をしているが、この暗い顔はいつもの表情とも違うようだった。
 英語とやらの宿題のようだった。いつもはテキストに英文が並び、遊馬は辞書を駆使しながらそれを自分の使う言葉に翻訳しようとする。しかしモニターには英文と並んで、既に翻訳された言葉が載っていた。

  ―――I have loved you with an everlasting love;
     I have drawn you with loving-kindness.

 英語は文字と発音の規則が定まっているから、遊馬の後ろから眺めていた知識でアストラルもそれを音読することだけならできる。
「アイ・ハヴ・ラヴド・ユー・ウィズ・アン・エヴァーラスティング・ラヴ」
 アストラルが発音すると遊馬が振り向く。
 続ける。
「アイ・ハヴ・ドローン・ユー・ウィズ・ラヴィングカインドネス」
「ドローン」
 笑いながら遊馬が繰り返す。
「な、分っかんねえよ」
「何がだ?」
 笑いはちょっとしたものだった。遊馬はすぐにそれを引っ込めて、アイ・ハブ・ラブド・ユー…と繰り返す。
「翻訳された言葉なら書いてある」
「そんなの分かってる」
 英語の宿題じゃねえの、と遊馬は言った。
 アストラルは遊馬の隣まで下りてくると、一緒にモニターを眺めた。
 薄く緑色に発光するモニターに輝く文字。読むことはできるが意味の分からない言葉。
 これを、と遊馬が英文を指でなぞると、なぞる先から色が反転し強調される。
「こういう風に訳した人がどう思っていたのか考えなさいっての」
「考える…?」
「言葉ってさあ意味が一つじゃねえだろ?」
 遊馬が『drawn』という文字を引っ張り、辞書のウィンドウを広げる。
「現在形だとドローでさ、それってデュエルの時も使うドローじゃん。ほら」
 単語の下には十を超える意味が連ねられている。引き寄せる…、汲み上げる…、描く…、明示する…、ゆがむ…。
 遊馬の指は再びテキストの上をなぞる。翻訳された文字が反転する。アストラルはそれを声に出した読む。
「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」
 振り向いた遊馬がじっと見つめてきた。アストラルはただそれを読んだだけだ。黙って遊馬を見つめ返すと、冷てえ声、と遊馬が呟いた。
 遊馬だけを比較しなくとも、この世界の人間たちと比べても自分の感情が希薄であり、言われるように冷たくさえあることはアストラルも自覚している。感情が記憶によって養われるものであれば、いまだ記憶の大半を失ったままの自分にそれがないのは道理だ。もし感情がもっと根源的で原初的なものであるとしたら、デュエリストとしての自分が、使命を負った自分が冷静さを何より重視しているのだ。アストラルはそれで構わない、と思っていた。遊馬が仲間と呼んでくれるまでは。
 遊馬の口がわずかに開いた。目を見れば、何かを謝ろうとしているのが分かった。今の「冷たい」という言葉のことだろう。アストラルはそれを遮るように言った。
「単語には複数の意味があることは分かった。それで?」
「…ああ」
 遊馬は何故か残念そうな顔をしてモニターに向き直った。
「日本語と英語の意味だけじゃなくてさ、言葉っていったら、何てゆうの、こう、もやーっと考えてることがあって、そんで言葉を選んで…」
「概念?」
「そういうの」
 ニュアンスがちょっと違うと言葉って変わっちゃうだろ、と遊馬はテキストの次のページを示す。
「オレがお前と喋ったり、みんなと喋ったりする言葉だって、そのまま伝わらなかったりするから…、だからこういう風に考える宿題が出たりするんだよ」
 ヒントのページには別の表現で翻訳された文章が載っている。アストラルはそれを読んだ。
「わたしは永遠の愛をもってお前を愛してきた、あわれみの綱でお前を引き寄せてきた」
「こっちの方がドローの意味は分かるな」
 あわれみの綱って意味よく分かんないけど、と遊馬は問題のページに戻る。
 つまりこれを書いた人間は『draw』を『注ぐ』と訳した訳だ。『loving-kindness』が『慈しみ』か。『love』が愛すること、愛そのものを示すことはアストラルにも分かる。
「慈しみ…とは?」
「んー」
 遊馬は目の前に辞書のウィンドウを開いているのにそこには入力せず自分で考え、たどたどしく説明した。
「相手の事が好きで、大事で、理屈じゃなくて大切にしたいって思って、守ってやりたくて……」
 言葉が途切れ、モニターの光に照らされる遊馬の瞳が不意に潤む。
 しかし遊馬はぎゅっと目をつむると、ぱちぱちとまばたきして涙を散らした。
「母ちゃんが子どもを見る、みたいな感情…。授業参観にみんな来てたろ、で、応援したり心配したり…、ああいうのだよ」
「君の家族も来た」
「うん…」
「君の姉は君を愛し、君の祖母は君を慈しんでいる」
「うん……」
 遊馬の表情が和らぎ、目があの日の光景を追うように遠くなる。
 会話が途切れ、遊馬はモニターを見つめていた。アストラルは少し下がって遊馬の後ろ姿を見ていた。少しすると遊馬は手を動かし、空欄に記入した。
 問、訳者はどんな気持ちだったのか?
 答え、愛して慈しむ気持ちだった。
 遊馬はモニターを消すとDパッドを鞄に仕舞った。
 明かりが落ち暗くなった視界に月の光が射す。遊馬は急な暗がりに目を擦りながら振り返った。月光に足を浸けるようにアストラルは浮いていた。
「君は皆に好かれている」
 アストラルの言葉に遊馬の表情がまた静かになる。
「初め、君は暗い声であれを読んだ」
「…宿題なんか面白くねえじゃん」
 見せる笑いはわざとらしく皮肉げだ。
「君にも裏があるんだったな」
「どうだっけ」
 アストラルの横をすり抜け、遊馬は屋根裏に続く階段に足をかける。しかし頭が屋根裏にもぐる前に足は止まり、一段だけ段を下りて遊馬は腰掛けた。その背後に浮かんでいたアストラルはちょうど遊馬と視線が合う。
「オレだってみんなのこと好きだしさ、ばあちゃん好きだし、姉ちゃんも恐いけど嫌いとかそういうんじゃないし」
 独り言のように早口で言う。
 軽く伏せられていた瞼が持ち上がる。はっきりと開いた両の瞳が正面からアストラルを見据える。月光の影の中でも、それは光のようにアストラルに届く視線だった。
「わたしは」
 遊馬は静かに口を開いた。
「とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」
 その声に込められていたのは感情、遊馬が答えに書き込んだような愛や慈しみの気持ちというより、決意に近いものだとアストラルは感じた。この言葉を口に出し声を発して伝えるという決心。
「わたしは」
 アストラルは軽く目を伏せ、遊馬が膝の上で握りしめた拳を見た。
「とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」
 遊馬の拳が開き、掌が近づく。それが持ち上がるのに合わせてアストラルも瞼を持ち上げ、正面から遊馬を見た。
 視界が不思議な色に満たされた。遊馬の真っ直ぐ伸びた手はアストラルの左目を貫き、指先が内側からアストラルの存在と夜気の境をなぞっている。遊馬はそのまま身体の中心を辿るように手を下に下ろした。胸の模様が鋭角に閉じ、その下に楕円。人間の…遊馬の心臓の位置よりわずかに下だろうか。遊馬はすり抜けたアストラルの身体の中で掌を開き、閉じ、すっと抜いた。その仕草は先日見た天城カイトの手が人間から魂とナンバーズを抜き取るそれに似ていて、背筋がわずかに震えた。
 遊馬は自分の掌を見下ろし口の中で何かを呟いた。それはかすかすぎて、アストラルの耳にも届かなかった。
「……そう言やお前、英語下手だな」
 顔を上げた遊馬はいつものからかう笑顔で言って階段を上った。
 アストラルも屋根裏に上り、遊馬の背中に向けて言う。
「君の発音も似たようなものでは?」
「オレの方が上手い」
「ならば聞かせてもらおう」
「もう忘れた」
 ハンモックに勢いよく横になり、遊馬はもう目を閉じている。
「おやすみ!」
 宣言するように言って、それっきりだった。事実少しすると寝息が聞こえて来た。誤魔化された感はあるが眠った遊馬を起こすようなことではない。アストラルは月明かりの下に移動すると、遊馬の寝顔を見下ろした。しばらく何かを考えているようで何も考えていなかった。それから、さっき遊馬の拳を見つめて言った自分の感情に思いを巡らせた。
 分からない。
 それは確かに自分の中に生まれた感情だが、アストラルはそれに適合する名前を見つけることができなかった。
 アストラルはもう一度英語の発音を繰り返した。やはりそれは遊馬ほど下手ではないように思われたけれども。






2011.9.13 エレミヤ書31章3節より