マイ・ビューティフル・ワールド 「…おはよう、アストラル」 「おはよう」 「ここ……どこ?」 「皇の鍵の中だ」 「皇の鍵…? 夜みたいだ」 「ああ、そうだな」 「見たことない星ばっかりだ」 「そうか」 「どうしてオレたち、こんなところにいるんだ?」 「………」 「ごめん、オレすごく眠い、疲れてるのかな」 「君は疲れている。ゆっくり休むといい」 「ごめんな、おやすみ」 「おやすみ、遊馬」 * 砕けた世界の中に閉じ込められている。 凍えた星空の下、アストラルは佇んでいる。あの日から星は動かない。砕けた世界の中では一切の運行が停止している。本来巡るはずの星も、目的の解き明かされることのなかった巨大なパズルも。 冷たい砂漠の上に歯車がばらばらと落下している。組み合わさった部品は一つもない。全てが破壊され、砂上に落ちた。その砂漠も急な場所で分断されている。急な断崖、向こう岸とを隔てる虚無。その向こうにも分断された砂漠が、壊れた歯車が、動かない星空が砕け、傾いでいる。 バラバラに砕かれた皇の鍵と同じように。 ナンバーズ96がデュエルに勝利し、砕いてしまった皇の鍵。 この世界はもう意味をなさない。全てが元通りになることはない。巨大なパズルも、砂漠も、星空も。 虚無には触れることができない。アストラルの力をもってしても、隔たれた向こうの空間へ渡ることはできない。否、もうアストラルはかつてほどの力を持たない。自分の記憶一つ手中にすることはできない。 「…おはよう、アストラル」 嗄れた声。 アストラルは振り向く。冷たい砂の上に横たわった遊馬が瞼を開いている。 「あれ…もう夜?」 「ああ」 練習した微笑みを顔に浮かべ、アストラルは遊馬の傍らに膝をつく。 「大丈夫か、遊馬」 「うん…何だか身体が重い、すげえ疲れてる」 「まだ休んでいて構わない」 「……ここ、どこだ?」 砂の上、遊馬は首を巡らせる。 「何あれ。時計? 歯車?」 「ここは皇の鍵の中だ、遊馬」 「皇の鍵…」 遊馬は口を噤み考え込む。しかし皇の鍵を思い出すことはできない。 分かっている。何度繰り返しても同じだ。 「ここは安全だ。君は安心して眠っていい」 「そうなの?」 遊馬はゆらゆらと手を星空にかざす。 アストラルは遊馬の手の先、指さされる星空を見上げる。 「変なの、知らない星ばっかりだ」 「…そうか」 「見たことない星座…、お前は知ってんの?」 「私にも分からない」 「お前にも分からないことあんだな」 ちょっと声に出して笑い、遊馬は力ない咳をする。 「……すごく眠い」 「眠っていいんだ、遊馬。私はここにいる」 「どうせ、お前はオレから離れられないんだろ?」 皮肉っぽく笑って見せるが、遊馬はしかし安堵したように腕の力を抜く。空を指していた手が、とさり、と静かな音を立てて落ちる。 「じゃ悪いけどオレ寝る。また起きたら話聞いてやるから」 「ああ、ありがとう」 「…素直じゃん、気持ち悪いの」 言葉とは裏腹に嬉しそうに笑い、遊馬は瞼を伏せる。 「おやすみ、アストラル」 すぐに寝息が聞こえ始める。巡ることをやめた星の下、冷たい砂の上、動かない歯車に囲まれて、遊馬だけが息をしている。胸がかすかに上下している。首筋が脈打っている。体温がある。 アストラルはその額に触れる。 「おやすみ、遊馬」 囁き、触れた唇は冷たく、遊馬の額は少し熱があるほどに温かい。 アストラルはもう知っている、自分の身体が冷たいこと、遊馬の身体が温かいこと、柔らかいこと。乾いた皮膚がカサカサと触れるのも。細い骨のしっかりした硬さも。もう全て知っている。 次に遊馬が目を覚ましたら何と言うのか。 そして瞼を閉じる時、何と言うのか。 自分が何と言って彼の目覚めを迎え、彼を眠りに見送るのか。 それはもう何十回と繰り返されている。 遊馬は何も覚えていない。 * 自分の身体を乗っ取ったナンバーズ96がデュエルに勝利し皇の鍵を砕いた瞬間、アストラルの意識は一度途切れた。闇に完全に飲み込まれ何も見えなくなった。何も感じられなくなり、自我が、意識が消えた。 いつ目が覚めたのか、意識の始まった明確な瞬間はない。ただアストラルはこの砕かれた空間に浮いていたし、遊馬は砂の上に横たわっていた。今、あの世界に、かつて遊馬とアストラルが一緒に存在することのできた世界にいるはずのナンバーズ96と遊馬の肉体がどうなっているのかは分からない。そしてあの世界そのものも。 初めのうちこそアストラルは隔たれた空間へ移動する術はないものか手段を講じた。しかし今はもうずっと遊馬の傍にいる。離れることはない。 遊馬は浅い眠りと覚醒を繰り返す。記憶は全く持続しない。それどころか一体何があったのかも明瞭には覚えていないのだろう。ナンバーズ96のことも、鉄男とのデュエルも。 「…おはよう、アストラル」 掠れた声がする。遊馬が目を覚ます。 身体を起こそうとするが、力が入らないらしい。肘で支えていた上半身が崩れ落ちそうになった。アストラルは腕を伸ばし、それを支えた。 「さんきゅー」 遊馬はアストラルの腕が触れていることに何の疑問も抱かない。 「どうしたんだろ、身体が動かねえ…」 呟き、遊馬は俯く。 小さな声が、寒い、と言った。それは初めてのことだった。 「ここ寒くね?」 遊馬は掌の下にあるものを撫でる。冷たい砂。砕けた歯車の破片。 「砂? ここどこだよ。アストラル…?」 「ここは皇の鍵の中だ、遊馬」 「皇の……」 反射的に遊馬の手が胸の上を握る。しかしもうそこに皇の鍵はない。 「あれ…?」 「大丈夫だ、気にしなくていい」 「そんな訳にはいくかよ、あれは大事な」 勢い込んで遊馬は言葉を続けようとするが、息が続かない。 弱った身体が傾ぐ。アストラルは抱きかかえるように遊馬の身体を支える。 「……なんかおかしくないか、アストラル」 「…おかしい?」 「変だ、なんだか…」 遊馬は息を切らし、アストラルの胸にもたれかかる。 「…冷たい」 「大丈夫か?」 「冷たくて気持ちいい」 額を押しつけ、遊馬は言った。 「水ん中いるみたい」 「…水泳のプールのことか?」 「水……」 喉、乾いた、とがさがさした声が遊馬の唇から漏れた。その唇もすっかり乾いていた。 ここに閉じ込められてどれほどの時間が経ったのだろうか、アストラルにも分からない。この時間の進みが、外の世界と同じものなのかどうかも知れない。遊馬はほとんど眠り続けていて、一度もエネルギー補給をしていない。 「み、ず……」 遊馬が呟き、瞼を伏せる。そして聞こえ始める弱々しい息。 おやすみ、もなく。 「遊馬」 アストラルは軽く身体を揺さぶる。 「遊馬…!」 「あ…すとらる?」 唇だけが朦朧と動く。 アストラルは遊馬の顎を持ち上げ、上を向かせる。首はがくっと反れて顔が仰向いた。 瞼はほんのわずかに開いているだけだ。睫毛の影から、光の失せた瞳が見上げている。 「遊馬、しっかりしろ遊馬」 「…喉……オレ……」 「遊馬」 知識によって行動する自分に衝動というものがあるならば。 アストラルは知識でも思考でもないものに突き動かされ遊馬と唇を重ねた。 口の中はからからだ。乾いた舌が縮こまっている。遊馬は水を欲しがっている。 水を、遊馬のための、遊馬の命のための水を。 アストラルは固く瞼を閉じ、祈る。一体誰に、どこに向けた祈りかは分からなかった。 ただ遊馬のことだけを思った。 遊馬の手が持ち上がり、アストラルの肩を掴んだ。重なった唇を食むように動く、舌が何かを追い求める。水を、命を繋ぐものを、今何よりも欲しているもの…! 遊馬の喉が、ごくり、と動いた。 アストラルはその音を聞いた。遊馬はごくごくと何かを飲み干している。懸命に、一心不乱に。意志に対し行為が間に合わない程なのが頬に感じられる鼻息で分かる。遊馬は水を飲んでいる。水を? 自分の舌の感触がなくなっていることにアストラルは気づいた。遊馬と絡み合うものはある。しかしそれはもう形をなしてはいない。 何かがなくなってゆく。自分の中から失われてゆく。自分の中に残された力が消失してゆく。 しかしアストラルはそれを心地良いと感じた。 遊馬、と呼ぶようにいっそう深く唇を重ねる。遊馬の喉がまたごくりと大きく鳴る。遊馬に飲まれている。飲み込まれ、飲み下され、アストラルを離れて遊馬の一部となる。 覚醒の意識が明瞭でないように、いつ唇を離したのかも気づかなかった。遊馬はだらしなく口を開けて息をしていた。唇が濡れ、透明な液体が顎まで垂れていた。 「アストラル…」 「もう…癒えたか?」 「まだ…」 遊馬は両腕でアストラルの頭を抱え込み、自分の唇に近づけた。アストラルも、躊躇いもなく遊馬が求めるものを与えた。唇を重ね、零れるほどの水を遊馬に与えた。遊馬は法悦の表情でそれを飲み干した。 * 砂の上に遊馬が横たわっている。両腕を広げ、大の字になって凍った星空を仰いでいる。 アストラルは遊馬の腕を枕に砂の上に横たわっている。 遊馬は何も喋らない。いつものお喋りも、深い満足感に影をひそめている。ただ星を見上げているだけで満たされている。アストラルもまた、遊馬に触れ、遊馬と共に星空を眺めるだけでもう何の言葉も必要としなかった。 二人は時々、ちらりとお互いの顔を見た。 まだ眠らないように。 もう少し覚えていられるように。 * 「…おはよう、アストラル」 「おはよう」 「ここ……どこ?」 「皇の鍵の中だ」 「あれ…、もう夜なのか」 「ああ」 「すげえ星空」 「ああ」 「綺麗だ、見たことない星ばっかり」 「綺麗だ……」 「アストラル…、ずっとオレの傍にいたの?」 「ああ」 「ずっといろよ」 「ああ」 「少し眠い…、けど、アストラル、ここにいろよ」 「ああ遊馬、ここにいる」 「ちょっと寝る、ちょっとだけな」 「ゆっくり眠るといい」 「おやすみ…アストラル」 「おやすみ、遊馬」
2011.9.10
|