オリジン・ザ・ブラックの一生




 確かに暗闇から生まれた。
 しかし目覚めたのはあの夕映えの景色の中だ。海の中にとろけるような夕日と、オレンジ色に染まった空気。なんて美しい光景だったろう、空もコンクリートも燃えるようだった。命を燃やし、その身を燃やし、燃えさかる景色。
 それは勝利の景色だ、そして遊馬の最初の記憶だ。
 遊馬はDゲイザーを外し、瞼を開く。
 夜の海さえも真っ赤に染めて都市が燃えている。この大陸はもう終わりだろう。何かを象徴していた女神の像も崩れ落ちた。あの広大な大地に人間はもうほとんど残っていない。残っていたとしても広がる炎は砂も、不毛の地さえ焼き尽くす。命あるものは長らえない。
 揺れるヨットの上で遊馬はそれを眺めた。波の音も、潮の香りも彼には馴染みのないものだった。不愉快だと嫌悪していると言ってもいい。ただ燃えさかる炎の熱、燻る匂いだけが心を落ち着かせる。
 夜の波に揺れるまま、遊馬は腰を下ろした。どしんと尻をつくと更に揺れて、背中から倒れ込む。
 黒い空には曇った星明かりがわずかに見えた。大陸を焼く炎は空をも焦がし清しい星の光もかき消している。それを更に漆黒に染めるように奴が顔を出した。
「どうした、遊馬」
 闇に亀裂でも入ったかのような嘲笑いの口元。目元はニヤニヤと歪められ、金色の左目を隠してしまう。
 遊馬は返事をするのも億劫だったが、その金色の瞳が見たくて手を伸ばした。それは体温のない頬の上に触れた。
「笑え」
 そいつは言った。
 ナンバーズ96。
 漆黒の闇からの使者。この世界の全てを破壊する者。この星を燃やし尽くし、破壊し尽くすのが奴の使命だ。そして遊馬もまた、元の遊馬ではない。今となってはナンバーズ96の使命を知り尽くし、理解し尽くしている唯一の人間、唯一の存在だ。
 まるで創世神話を逆さに辿るように、彼らは世界を壊し尽くす。デュエルを、人を、都市を、国を、そして大陸を大地を。破壊し炎の海に変える。
 六日で地球上のほぼ全ての都市が壊滅した。それは想像以上に呆気なく、他愛もないものだった。何故ならナンバーズ96と遊馬は強かったから。力、それ以上のシンプルで分かり易い答えはいらない。遊馬が目を覚ましたあの夕景の中、ナンバーズ96は自分を最強のナンバーズと名乗った。それはこの世界の力を凌駕した存在の頂点に立つという意味だったのだから。そのナンバーズの選んだ人間が遊馬なのだから。
「笑え」
 自分はすっかり笑みを消して、ナンバーズ96が言う。
 遊馬は頬を動かし、ちょっと笑って見せる。しかしナンバーズ96はそれで満足せず、遊馬の頬をぐいぐいと引っ張って笑みを作ろうとする。
「痛ぇよ」
 そう呟くと自然と口元が笑い、ナンバーズ96も笑う。
 ヨットは常識外れのスピードで夜の海を滑る。地球の運命を最初の一ページまで戻すのに必要なのはあと一昼夜のみ。一度の昼と一度の夜だ。ヨットは決するに相応しい場所まで二人を運ぶ。
 ハートランドシティ。
 始まりの地が終わりの地になるのは別に意図したところではなかったが、星の運命の終焉というドラマには相応しい。そこに地球の核を破壊する最後のスイッチを守る力がある。それを守っている最後の人間がいる。ならば戦い、斃すまでだ。
 黒煙の空を抜け、ヨットの上に光が射した。清しい月光は遊馬の隈の浮いた目元、傷つき血の乾いた手を照らし出す。遊馬はその手をナンバーズ96の金色の瞳に伸ばし、その瞳の光をかすむ視界に見る。
 疲れ果てていた。月光を眩しいと思った瞼が閉じた、次の瞬間には遊馬は深い眠りの底に落ちていた。
「遊馬、おい遊馬」
 ナンバーズ96が頬をつまむが目を覚まさない。
 すると彼はつまらなそうに顔を歪め、触手を伸ばしてヨットと遊馬に絡みついた。影が月光から遊馬を守った。漆黒の影の下で遊馬は眠った。


 ナンバーズ96は焦っている。ボロボロのヨットが止まり、廃墟と化した港湾の都市に到着したのは夜明け前だ。人間は日が昇ると目覚める生き物だが、それが絶対ではないことはナンバーズ96も知っている。だから遊馬を起こそうとした。
「起きろ遊馬、起きろ」
 寝汚いのはいつものことだが、いよいよ最後の仕上げといこうという日にこれでは締まりがない。黒い掌で起きろと何度も頬をぶったが、遊馬は起きなかった。
 そこで初めてナンバーズ96はまじまじと遊馬を観察した。汚れた頬は煤まみれだ。乾いた唇は本来呼吸をする器官だが、その音が聞こえない。右手が赤黒く染まっているのは血のせいだ。もうとっくに乾いてしまっているが、深く切れた傷がある。焼け焦げた服、赤く腫れた火傷の痕…。
 人間には意外と弱点が多い。
 不意にそんな言葉がナンバーズ96の頭に浮かんだ。
 これでおしまいか?
 遊馬は壊れて…いいや死んでしまったのだろうか。
 これで終わりか?
 制御できない感情が漆黒に染まった細い身体を駆け巡り、ナンバーズ96は衝動のまま腕をふるう。長く伸びた鞭のようなそれは残されたビルを鋭く切りつけ、破壊する。砕かれたコンクリートの塊が降り注ぐ。
 思わず舌打ちが漏れた。
 ナンバーズ96は遊馬の痩せた身体を抱え、腕を伸ばす。二人の姿は夜明け前の、暗い廃墟に消える。また何ヶ所か建物の壊れる地響きが聞こえた。ナンバーズ96が自分を制御できず腕をふるっているのだ。
 ようやく落ち着いたのは夜明けが迫り、灰色の空が見えるようになった頃だ。街中にはまだもうもうと土煙が起こっていた。余波により崩れるものはあったが、破壊はもう止まっていた。
 上階を鋭く斜めに切り捨てられたホテルが建っている。オーシャンビューの、かつて、ほんの一週間ほど前、人間の住んでいた頃はたいそう賑わって三つ星もいただいたホテルだ。最上階のスイートルームは本来の広さの半分ほどになっていた。
 すっかり埃だらけの広いベッドの上に遊馬の身体は寝かされていた。
 ナンバーズ96は不機嫌そうにその周りを歩き回る。遊馬が目を覚まさないのは、エネルギー補給を行っていないせいだ、多分。しかし遊馬は何でも食べたし、何を食べさせれば遊馬がすぐに目を覚ますのかナンバーズ96には分からない。いや、どう食べさせればよいのかも知らない。
 水だ、とナンバーズ96は考える。水を経口摂取する。これは飲み込むだけだから簡単だ。咀嚼などという面倒なプロセスを辿っている暇はない。
 遊馬はよく箱の扉を開き、飲み物を取り出していた。それと似たものがこの部屋にもあった。ナンバーズ96が扉を開くと、見覚えのあるような瓶が並んでいる。琥珀色の液体の入った瓶もちまちまと並んでいるが、小さなものでは役に立たない。
 彼は黒い液体を選んだ。それが見た目にも気に入った。
「遊馬」
 頬を張るが、遊馬は瞼を開かない。
 ナンバーズ96は瓶の蓋を開ける方法を知らなかった。だから指を一振りして瓶の細い首を切り落とした。黒い液体がぼとぼとと零れだし、遊馬の顔にかかる。
「飲め、遊馬」
 それは開いた遊馬の口にも入ったが、遊馬がそれを嚥下する様子はない。
 押し込んでやる、とナンバーズ96は自分の口を遊馬の口に近づけた。口を塞ぎ、自分の舌で遊馬の口に溜まっている液体を喉の奥へ押し込む。
 ぬるい液体が流れた。
 ナンバーズ96は瓶に残った液体を全部遊馬の口の上に零すと、また同じように喉の奥に押し込んだ。遊馬の喉が動き、それを飲み込んだ。
 遊馬の舌が動く。動いて自分の舌に絡みつく。そうじゃない、飲み込むんだ、と思ったが、更なる水分を求めるように遊馬の舌は絡みついて離れなかった。ナンバーズ96は両手で遊馬の髪の毛を掴み、ようやく引き剥がした。
 遊馬は瞼を開いていた。笑った顔がこちらを見ていた。
「おはよう」
 腹が立ったが、もうビルを壊すほどではなかった。頬を張り、馬鹿が、と言った。
 頬を張られてもなお、遊馬の笑みは消えなかった。掌で頬を擦り、べとべとする、と笑う。
「コーラ?」
「何だと」
「これ、飲ませてくれたんだろ」
 転がる空の瓶を取り上げる。
「まだ足りない…」
「自分で取りに行け」
「オレ、まだ動けねえよ」
 ナンバーズ96は不機嫌そうな顔のまま、腕を長く伸ばし転がった瓶を引き寄せる。
「さんきゅ」
 遊馬はそれを受け取って蓋を開けようとした。しかしスクリュー式の蓋を開けるだけの力もない。それをもどかしそうに見ていたナンバーズ96は指先で瓶を壊すと、吹き出したコーラは遊馬の全身を濡らした。
「は…はは……」
 力はなかったが遊馬は笑った。笑いは自然とこみ上げてくるものだった。そう言えば声を上げて笑うのは初めてかもしれない。
「何がおかしい」
 遊馬は笑いながらナンバーズ96に手を伸ばす。いつも金色の瞳に向かって伸ばすそれを更に向こうまで伸ばし、首筋を掴んで引き寄せた。コーラは、もうその味がするだけだった。遊馬はナンバーズ96の舌に吸いつく。水分がしみ出すような気がして、しつこく吸った。
 ナンバーズ96は目を開いていた。そして目を閉じて熱心にそれを繰り返す遊馬を見ていた。
 唇を離した遊馬に彼は言った。
「何のつもりだ」
「お前もさ、壊すだけじゃなくて人間のことを少しは学習しとけよ、オレがいるんだから」
 遊馬は唾液に濡れた顎を拭う。
「エネルギー補給しないとオレは死ぬ。補給したら出さないと死ぬし、出すところを見られても死ぬ。怪我をしたら治さないとゆっくり死ぬ」
「死んでいない」
 ナンバーズ96は遊馬の右手を持ち上げる。
「酷いとすぐ死ぬ。これは酷くなかったけど、オレ、もうあんまり手の感覚ないんだぜ?」
「あと一日保たせろ」
「じゃあそれなりのことしてくれよ」
「オレに命令するつもりか」
「困るのはお前だろ」
 エネルギー補給足りねえ、と言うと、幾つもの瓶やペットボトルを押しつけられた。遊馬は今度こそコーラを飲み干し、濡れてべたべたする服を脱いだ。
 素裸の上からミネラルウォーターを浴びる。六日分の土埃と煤が洗い流され、かわりに傷や火傷が露わになる。
 急に静けさを感じた。遊馬はここがホテルの部屋らしいことと、それは半分壊れて拓けた向こうに灰色の空と海が広がっているのを見た。
「ここ、ハートランドじゃないのか…」
「お前のせいだ」
 ナンバーズ96がぶっきらぼうに言った。
 遊馬はその声を振り返った。彼は中空に浮かんでおらず、遊馬と同じベッドの上に足を組んで座っている。
「なあ…」
 その腰に遊馬は手を伸ばした。
「人間の欲求…三大欲求って知ってるか」
「知るか」
 遊馬はその細い腰を抱き寄せ、肩に噛みついた。
 途端に物凄い勢いでナンバーズ96が振り払う。
「何をする!」
「性欲っての、もう一人の俺も、それからアイツも教えてなかったっけ」
 遊馬は立ち上がりかけた自分の性器をなぞる。ナンバーズ96が眉を寄せてそれを見下ろす。
「なんにも知らねえの?」
 見上げると、ナンバーズ96はあからさまに不機嫌そうに言い返した。
「お前はどうなんだ」
「そこは本能が教えてくれるんだよ」
 これを突っ込めばいいんだ穴に、そう言って遊馬はまた性器を擦る。それは形を変えて、なるほど目的を成し遂げるための準備をしている。
「穴ならお前も持っているだろうが」
 ナンバーズ96は指さすが、そこはオレの尻、入るかよ馬鹿、と遊馬が言い返し、口の利き方に気をつけろ馬鹿が、とナンバーズ96が言い返す。
「穴を満たせばいいだけなら、オレが手伝ってやる」
 うねうねと動く触手が遊馬の身体を触るが、遊馬は、オレが入れなきゃ駄目なんだよバーカ、と笑った。
 その笑いはしもべとしての遊馬ではなく、自分と対等な立場の者の表情のようで、ナンバーズ96は自分の表情を殺し、遊馬の身体をベッドに押し倒した。
「遊馬、主人はオレだ。全てを決めるのはオレ。世界を破壊するのもオレ。お前はそのしもべだということを、もう一度分からせてやる」
 触手が遊馬の性器に絡みつく。潰されるのかと一瞬身体を強張らせた遊馬だったが、自分の上にナンバーズ96が馬乗りになったので目を丸くした。
 少しひやりとしたものが触れた。体温より低い、水よりは冷たくない、それ。
 触手がほどける。ナンバーズ96がゆっくりと腰を落とす。
 飲み込まれるような感触。
「うあ…」
 遊馬は思わず声を上げた。
「これ、お前の中…」
「黙れ」
「いや黙るとか」
 無理、と言おうとしたが勝手に腰が動いて、そこで得た快感に言語がうやむやになった。
 熱がある。ナンバーズ96の中には炎の熱を内包したような熱さがあった。焦げた街の匂いがここにも漂っている。それら刺激に煽られるように遊馬が腰を突き上げようとすると、ナンバーズ96の触手が上から押さえつける。
「気に入ったのかぁ、遊馬?」
 でも駄目だ、しもべは躾けてやらないとな、と細い腰が動く。遊馬は強い力で上から押さえつけられたまま、熱に、快楽に翻弄される。
 かすむ瞳で遊馬はナンバーズ96を見上げた。いつもの嘲笑う表情が少し崩れている。触手が何かを求めるように遊馬の頬にすり寄った。遊馬は開いた口にするりと這入り込んで来たそれに舌を絡みつかせ、強くしゃぶった。
「遊…馬っ」
 急に触手が離れる。黒い両手が自分の頭を強く掴み、勢いよく唇が重なった。
 互いの舌が絡む。唇を食む。唾液を飲み込む。
 遊馬もその黒い腕にすがりついた。絶頂が近かった。しかしそれで終わりではないだろうとも感じた。まだ熱が溜まっている。まだ終われない。
 遊馬はナンバーズ96の名前を呼ぼうとして、
「あ……」
 強く相手の舌を噛んだ。


 目覚めた時、動かない時計が十二時を指していた。空は相変わらず暗い灰色だ。朝なのか夕方なのかも分からない。
 裸のまま目覚めた遊馬は、強い風に吹き曝されているにも関わらず自分の身体が冷たくないことに気づく。腕を伸ばす。日焼けした肌色の皮膚、右腕…。
 傷が消えていた。遊馬は裸の胸や肩を撫でた。傷も火傷もすっかり消えてしまっていた。それどころか皮膚はどこも清潔だ。
 ばさばさと何かが降ってくる。新品の洋服だ。
「さっさと着ろ、行くぞ!」
 上空から下りてきたナンバーズ96が声を荒らげた。遊馬はにやにや笑って服を着た。
 この眠っていた時間は世界の終わりを一日遅らせたのではなかった。遊馬の眠った二十四時間が、破壊の七日目、まるで創世記をなぞるかのように安息を得てしまったその一日が、地球の崩壊を永遠に近い時間引き延ばしてしまった。
 炎の燃えさかるハートランドシティで二人を待ち受けていたのは天城カイトだった。
 アストラルが恐れた存在を、ナンバーズ96は最初から最後まで恐れなかった。ただし侮り過ぎていた。
 確かにナンバーズ96と遊馬にはこの世界を凌駕する力があった。だが天城カイトも自分の守るもののためには人間を捨てたのだ。
 ナンバーズ96ブラック・ミストのカードがカイトの手の中に奪われた時、遊馬は初めて恐怖に歪む彼の顔を見た。いつもの嘲笑いも、歪んだ笑みも消え、そこに残ったのはただの歪み、歪みだ。
 漆黒の姿がカードに吸い寄せられる。黒い霧となって消えてしまう。それと同時に遊馬の意識も肉体から乖離するのを感じた。
 ああオレは遊馬だけど、九十九遊馬じゃなかったんだ。
 オレには家族もいない。友達もいない。オレはアイツが遊馬と呼ぶから遊馬だった。
 オレはアイツのしもべで、アイツの唯一の協力者、アイツの一部。
 遊馬は目を閉じる。肉体の瞼は開いているのに、もうその目で世界を見ることができない。
 これで終わりだ、デュエルも、世界も。
 でもそれがアイツの望みであり使命だったんだ。もしアイツがデュエルに勝っても、オレが生きていられた保障はない。最初からオレの運命は一つだったけど、一つだけ違ってしまった。消えてしまう世界に、アイツの存在も落ちてきた。
 眩しい光が炎を、闇を切り裂く。
 カイトの手からカードが離れ、ばらばらと空に舞う。炎がそれを飲み込もうとする。遊馬はそれを追って身体を飛び出す。
 ナンバーズ96ブラック・ミスト。
 怖いか?
 遊馬はカードに向かって話しかける。
 もうおしまいだ。これがオレたちの世界の崩壊だ。オレとお前二人が描いた崩壊の崩壊だ。でもオレはお前と一緒にいてやるよ。もう一人のオレだってアイツを見捨てなかったんだ、オレだってお前を見捨てやしないさ。
「だってオレにはお前がアストラルなんだ」
 カードが燃え上がる。捲れる灰が、上がる煙が形をなす。
 遊馬は漆黒に染まったその細い身体を抱きしめた。






2011.9.9 BGM:スイッチが入ったら