不完全燃焼の終末 改訂版




 あまりに高く澄んだ空の下で遊馬は目覚めた。
 目覚めてもなお、夢の続きの景色にいるのかと思っていた。それは砂漠で見た夜空そっくりだった。遮るものも邪魔するものもなく、地平線の彼方まで包み込む空は何色もの青を混ぜた深い色をしていて、星の光がつめたく刺さるかと思うほどの光を放っている。
 夜だ。一体何時だろう。明日は何曜日だろう。
 学校、友達、デュエル。
 いつもの景色を思い出しながら遊馬は涙を流す。
 小鳥の笑顔。鉄男の笑い声。シャークが楽しそうに笑うところって見たことないなあ。
 泣いている自分に気づかないように遊馬はもっとたくさんのことを思い出そうとする。
 デュエルで委員長に勝てた時は嬉しかった。徳之助がウラトラCを使っても、オレはもう対処法を知っている。キャッシー…キャットちゃんもデュエルの時みたいにもっと喋ればいいのに、あんな小さな声じゃなくて。
 姉ちゃん、デュエル禁止してたっけ。でもばあちゃんはデュエル飯って言っていつも応援してくれた。デュエル庵に行くように仕向けてくれたのもばあちゃん。ブラマジ格好良かったよなあ、あれ。ブルーアイズは恐かったけど、自分がブラマジになれるなんて凄い経験…ああ六十郎じいちゃんの所にもまた行きたいな。
 遊馬は涙を拭うこともせず、空を見上げていた。いつの間にか傍にアストラルが寄り添い佇んでいる。最初からいたのかもしれない。あの日から二人はいつも互いの傍にいる。離れたことがない。
 次から次へ溢れてくる涙はとどまることを知らず、景色が滲んでゆく。深い夜空も星の光も涙の膜で溶け合って、新しく生まれた宇宙でも見ているようだった。それはあまりに美しかった。
 爽やかな風が吹き、清浄な白い砂が視界を塞ぐ。それはとても細かく灰より軽い。触れれば分子にまで崩れていきそうな砂だった。
 遊馬は真っ白な砂の上に横たわっていた。ハートランドの中心部は人間の生活と文化の気配を全く留めない白い砂漠と化していた。
 そこで何が起きたのか遊馬は知らない。その目に映っていたものを何一つ覚えていない。
「遊馬」
「アストラル…?」
「話をしよう」
「ああ…」
 ナンバーズ96、あの一件。鉄男とデュエルをしたあの日から遊馬が失ってしまった日々のことをアストラルは一つ一つ丁寧に、時間をかけて教えてくれた。二人には今や無限の時間があった。
 そう、この星の上にはもう遊馬とアストラルしか残っていない。

 最後にデュエルをした生身の相手は天城カイトだった。
 その結末を遊馬はうっすらと覚えている。
 熱く焼けた地面の上、炎がちろちろと人間の生活の痕跡を焼いている。幾重にも揺らぐ陽炎の向こうにカイトは立ちはだかっていた。
 遊馬は自分の足で立つことができず膝をついてしまった。何故こんな場所にいるのか、カイトを目の前に何をしているのか分からない。靴の裏が溶ける。ついた膝に熱と痛みが襲いかかる。うめき、前のめりによろけたところで、急に自分以外の力がこの身体を支えた。
 視界を青白いオーラが包む。遊馬の足は自分のものではないかのように、すっくと立つ。頭はぼんやりしているのに、恐ろしいほどの冷静さで相手を見つめる両眼。
 …アストラル。
 唇は自然とその名前を呼んだ、つもりなのに声が出ない。
「デュエルはまだ終わっていない、そうだな天城カイト」
 勝手に動いた口から出るのは自分の声ではない。
 するとカイトの表情が禍々しく歪んだ。
「そのとおりだ、九十九遊馬」
 アストラル、ともう一度呼ぶがそれは声にならない。しかし遊馬の唇は勝手に動き、返事をする。
「安心しろ遊馬、私はここにいる」
 オーラをまとい、仄かに光る身体。
 この身体の中にアストラルはいた。遊馬に乗り移り、今しもついえそうな遊馬の命と肉体を支えていた。
 一体何が…、と呟く遊馬の目に映ったのはカイトの持つカードだ。
 ナンバーズ96。
 長きにわたり遊馬とアストラルの心身を支配していたそれは、今やカイトの手の中でただのカードと化している。
 オレたち、助かったのか…?
「いいや、違う」
 ギャラクシーアイズの攻撃!と叫ぶカイトの姿。オーラの向こうから遊馬に突き刺さる視線は怒りと使命感、剥き出しの殺意だ。
「デュエルは続いている」
 アストラルが罠カードで攻撃を防ぐ。フォトン・ストリームの眩しい光が弾け飛び、遊馬はその身体を動かすことができないまま、悔しげに歪められたカイトの表情を見る。
 デュエル…一体何のデュエルだ…?
「この世界、君たちの住むこの星を賭けたデュエルが」
「そうだ。貴様と貴様の相棒が仕掛けた最後の戦いだ!」
 カイトの声は語った。それまでにナンバーズ96に操られていた遊馬とアストラルがしたことを。この世界はもう長くはない。ここで遊馬たちを倒さなければ、残った全ての人間の存在が、この星が消えてしまう。
「貴様らとアストラル世界を潰すまで、オレは倒れない!」
 まさか想像したことがあっただろうか、自分が世界を滅ぼす張本人になるだなんて。しかしアストラルがこの世界にやって来たのはアストラル世界を守るためだった。悪夢の扉を開けた時から、出会った時から、本当は決められた結末だったのだ。
 負けないことで何からも手を放さないできたはずなのに、今この星と、自分の命アストラルの存在が天秤に掛けられている。
「私のターン」
 無表情な声が宣言する。
 アストラル…!
 ドローしようとする右手を遊馬は止めた。
 アストラル、やめろ…。
 遊馬にはアストラルの姿が見えた。そこに二人ようやく並んで立っていた。遊馬はアストラルの右手を取り、首を振る。そして今度は遊馬が、一緒に消えてやるから、と言った。いつかアストラルが言ったように。
 オレたち二人一緒なら、こわくないだろ…?
 しかしアストラルは首を振った。
 その時何故遊馬は自分の身体の支配権を取り戻そうとしなかったのか。アストラルはアストラル世界からの使者。どういう決断をするかは分かっているのに。
 きっとアストラルもこわくなかったのだ。遊馬と二人でなら、この星を滅ぼすことも。孤独の世界に漂うことも。
 今にも消えそうな意識の中で遊馬はデュエルの結末を見届けた。
 ホープレイの剣が炎も闇も切り裂く。
 銀河眼の光子竜の消え去る光は、その主であるカイトの身体も呑み込んだ。カードが花びらのように舞い散る。そして火花を発し、光の嵐の中で燃え尽きる。
 光はなおも膨張し、そして周囲のビルも大地も燃やし尽くして白い灰に帰した。
 夜空が歪む。そこに大きな光の渦が生まれる。オーロラのように色を変化させ、揺らいでいる。その揺らぎの中に黒い渦が流れ込んだ。それは燃え尽きたナンバーズカードの灰だった。遊馬は呆然とそれを見上げていた。
 それが最後のデュエルの終わりの風景だった。
 後でアストラルから聞かされたことだが、それこそスフィアフィールドによって開かれたアストラル世界へのゲートだった。ナンバーズカードが消滅するごとにそれは歪み、閉じてゆく。
 遊馬の手元に残ったナンバーズのお蔭で完全に閉じることはなかったが、その歪みはもうアストラルを自分の生まれた世界へ帰すことはできない。勿論、彼の記憶が完全に戻ることもない。
 あの時、遊馬の身体を見捨てていればアストラルは自分の世界に帰れたのかもしれない。しかし彼はそうしなかった。
「どうしてだよ、帰りたくなかったのかよ」
 遊馬は何度も尋ねた。
「私は君を置いて去りたくはなかった、遊馬」
 アストラルは何度もそう答えた。



 朝の光が頬にさす。遊馬は瞼を開く。ぽっかりと抜けた天井からは爽やかな夏空が見えた。
 ここは遊馬の家だ。かつて姉の明里と、祖母の春と暮らした家。天井は抜け壁も半分崩れ落ちて、すっかり風通しがよくなってしまった。しかし遊馬は今でもそこに自分たち家族の営んできた生活の痕跡を見つける。そこに住み続けている。
 リビングに敷いたラグの上、遊馬は一人で横になっていた。起き出し、身体いっぱいに伸びをする。
「おはよー」
「おはよう、遊馬」
 キッチンにアストラルの姿がある。遊馬はダイニングテーブルの埃を払うと、そこに座り込んだ。
「今日の朝食は?」
「デュエル飯」
 遊馬は即答する。
 するとアストラルはテーブルの上に手をかざす。身体が一際光り、目の前に何かの物質が集まりみるみる形を変えていくのが見える。
 ものの数秒とかからず、遊馬の前には皿にのった特大のおにぎりが現れる。
「いただきまーす」
 遊馬は笑顔でそれにかぶりつく。
 食事はアストラルが用意してくれる。アストラルはもうこの星のものを全て思い通りにすることができる。人間の食べ物を作ることくらい簡単だ。遊馬が希望すればフランス料理のフルコースだって、満漢全席だって出すことができる。一度は試した。そうでもしなければ長い時間は潰せない。けれども一度で十分だった。遊馬はデュエル飯が一番好きだ。アストラルは記憶の中から忠実にそれを再現する。それでも、祖母が作ってくれた味にはならない。
 ごちそうさま、と手を合わせると、皿は最初からなかったかのように消えてしまう。
「じゃ、行くか」
 遊馬はアストラルを振り向き、笑う。
 律儀に玄関から表に出る。高い青空から射す強い日差し。遊馬の影だけが濃く、ぽつんと落ちる。
 真っ白に風化した街を遊馬は歩き、アストラルは浮かんで後ろからついてくる。人のいなくなった街は想像よりも速いペースで風化してゆく。今日もどこかでビルが崩れ、白い土煙が上がる。海と空だけが毎日綺麗になってゆく。より透明に、より美しく。
 昔ハートランドの中央に建っていたタワーの跡にスフィアフィールドの装置がまだ生きている。今これが地球の全てとアストラル世界の全てを繋いでいる。
 白い砂漠に遊馬は立ち止まり、Dゲイザーをセットする。
「今日は誰と?」
「鉄男! なかなか勝てないんだよなあ」
 アストラルは微笑み、手をかざす。すると周囲の景色が変化する。マトリクスの緑色の光が走り、ARヴィジョンリンク完了、と懐かしい電子音声が響く。
 砂漠は、緑の芝生が萌える学校のエントランスとなり、目の前には鉄男の姿がある。
「久しぶりだな、遊馬」
 鉄男の声。
「デュエルターゲット、ロックオン!」
 遊馬の声が弾む。
 このように、時々ARシステムを起動させてデュエルをする。アストラルが世界中に残ったデュエリストのデータベースをリンクさせ、使えるようにしてくれたのだ。
 彼らは生前の姿のまま、遊馬の前に現れてくれた。リバイス・ドラゴンを使うシャークと本気のデュエルをしたこともある。デュエルをしたことのない小鳥に一から教えようとしたこともある。
 今日のデュエルは久しぶりに遊馬が勝った。鉄男の巨体が吹っ飛ぶ。モンスターの姿が金色の霧となって消える。霧の後にはマトリクスの緑色の光が覗く。
 鉄男が立ち上がる。勝者を表示するウィンドウを越して遊馬を見ている。
「どうだ!」
 ガッツポーズをする遊馬を見つめる目はしかし、ふっと焦点がぼやけ、次の瞬間鉄男の姿は見えなくなる。白い砂漠に遊馬とアストラルだけが残される。
 デュエルが終われば、彼らの姿は蜃気楼のように消えてしまう。これは仕方のないことだった。ARヴィジョンの見せる幻なのだ。だが遊馬はその寂しさに慣れない。いつまで経っても。
 このシステムを使えば、カードに直接触れることのできないアストラルともデュエルはできるはずだ。しかし遊馬はそうしない。アストラルはいつも遊馬の隣にいる。アストラルもそれを望んでいる。
 デュエルをする時、二人はいつも一緒なのだ。

 毎日朝が来て、太陽が昇り、海をオレンジ色に染めながら沈み、夜が来る。
 何回も、何百回も、数えるのをやめるほどにそれを繰り返す。
 この星の命が最後の一滴までゲートの向こうに消えてしまうまで、二人はこの星のこの場所から動くことはできない。消えることもできない。死ぬこともない。勿論、その最後の瞬間にどうなってしまうかは分からないけれども。
 スフィアフィールドの影響か、あれからたくさんの時間が経ったのに遊馬は十三歳の少年の姿のままだ。ARヴィジョンの中に現れる仲間たちと一緒にいると、終わらない夏休みの中にいるような気分になる。幼い頃思い描いた永遠は、きっとこんな姿だったろう。今では遊馬も、自分から肉体的成長が奪われたことを逆に感謝している。自分だけが老い、変わらない仲間たちを目の前にするのは、更に寂しいことだから。
 アストラルはスフィアフィールドの機嫌に左右されて、時々実体化してこの星の重力に戸惑ったりする。その姿は決して濁ることのない純粋な水のようだ。
 夜の廊下をぺたぺたと足音を立ててアストラルはついてくる。
「はい、ここまで」
 遊馬は振り向き宣言する。
 ドアの向こうはトイレだ。薄い壁とドア一枚が隔てるだけだが、遊馬は今でも風呂とトイレの間だけアストラルを外に閉め出す。
 かつての生活習慣を遊馬は崩さない。眠るときも、ほとんどはハンモックで眠っている。とは言え屋根裏はあの日吹き飛んでしまったから、半分残った自分の部屋に新しくハンモックを吊している。部屋の隅には焼け焦げてしまったどこかの部族のお面、床が抜けてそのまま落っこちてきたらしい水晶の塊、屋根裏を埋め尽くしていた懐かしい品々の忘れ形見が散らかっている。
 両親の写真は見つからなかった。しかし遊馬は明里の部屋に生き残っているコンピューターを動かせばそこに両親のフィルムも、学生時代の明里や若かりし日の祖母の映像が見られることを知っている。それを見ようとは、滅多にしなかったけれども。
 風呂から上がると、脱衣場にアストラルがいつもの方法で用意してくれた清潔な下着と服があった。遊馬はそれを着てドアを開ける。アストラルは廊下に体育座りをしていた。
「お待たせ」
 立ち上がるアストラルの身体がよろめく。今回は久しぶりの実体化だったから、まだ重力の変化になれないのだろう。
「おいおい、大丈夫か?」
 水のようにつめたい身体を遊馬は抱きしめる。
 夜になると遊馬はスキンシップを憚らない。この星の運命を最後まで見届ける唯一の人間だ。これくらいのご褒美もらわないとさあ、と遊馬は笑う。
 二人は砂だらけの床に敷いたラグの上で眠る。アストラルは勿論、眠るふりだ。それでも遊馬の寝息と同調していると睡眠の安らぎを理解できるような気がする、と言う。
「君の呼吸は心地よい」
 アストラルは手を伸ばし、遊馬の頬に触れる。
 星明かりの下で体温のないキス。しかし遊馬にとってこのキスは世界で一番心地よく、また快楽の頂点に君臨する感触だ。この世界に、もうそれ以外の価値は存在しない。
「明日はさ」
「ん…?」
 遊馬は横になったまま、アストラルの頬を撫でる。
「オレが起きるまで隣にいろよ」
「分かった」
 アストラルは優しく微笑んで返事をする。
 互いの身体に腕をまわし、瞼を閉じる。このひやりと触れる感触が遊馬に安心感を与える。アストラルがいる。オレの隣にいて、眠っている。
 目覚めた時、抱いていたはずの腕が、また透けてしまった身体の中に落ちていることもたびたびだ。そんな時、遊馬は瞼を開いたまま寝息と同じ呼吸を続ける。アストラルはそれを聞いて瞼を伏せている。遊馬は再び触れることのできなくなったアストラルの頬の上をなぞり、蘇った寂しさを胸の奥に押し込め、微笑んでアストラルを起こせるようになるまで待つ。
 永遠の夏。変わらない日差し。
 今日もデュエル飯。
 シャークとデュエル。負ける。
 残った壁一枚を隔てた風呂、束の間の一人の時間。
 繰り返し見過ぎて覚えてしまったロビンの映像。
 遊馬とアストラルは、屋根裏でそうしていたように二人並んで座り、それを見る。ギャラクシー・クイーンのカードはまだ手元に残っている。崩れゆく街の探検の最中に風也の形見が見つかったら、その時は風也にあげようと決めている。



 海に向かって傾いたビルが倒れ、派手な水飛沫が上がった。遊馬とアストラルは釣りをしながらその様子を見ていた。大きな波が起きて、食いつきそうだった魚が慌てて逃げる。しかし二人とも構わず、打ち寄せる波の美しさを眺めていた。遊馬の持つ釣り竿が魚を釣り上げたことはない。バケツはいつも空っぽだ。
「君には釣りの才能がないようだな」
 夕暮れ時の強いオレンジ色の光に照らされてもなお帰ろうとしない遊馬に、アストラルは言う。
「そんなの分からないだろ。明日だって明後日だって練習できるんだから、上手くなるかもしれないじゃないか」
「君はじっとしていないから、魚が逃げるのだ」
「これでも前より落ち着いたよ」
 前より。いつのことだろう。いつと比べているのだろう。
 当然、家に明里と祖母が待っていて、扉を開けて外へ出れば小鳥と鉄男が待っていたあの頃と、だ。
 遊馬は脆くなったコンクリートに差したパラソルを畳みその先にバケツを引っかけると、釣り竿と一緒に担ぐ。
「明日は何しようかな」
 何でもできる明日が毎日、夜の向こうに待ち構えている。
 家に戻り、久しぶりに焼き魚の食事。たまに違うメニューを注文すると、アストラルも心なしか嬉しそうに食事を用意する。目の前に浮かんで、美味しいか、とわざわざ尋ねたりするのだ。ああ!と遊馬は満面の笑顔で答える。
 本当に美味しいと思ったのだ。もしかしたらアストラルも料理が――あれを料理すると呼んでよければ――上手になったのかもしれない。
 おかわりをして、魚を三尾、ご飯もいつもの倍食べた。
 満腹になったところで風呂に入ろうとし、また脱衣場に一人になって遊馬は気づいた。
 服を脱ぐと、脱いだ服は床に吸い込まれる。露わになった肌に掌を這わせる。肌はさらりとしていた。一日中潮風に吹かれていたはずなのに。いつもは風呂が待ち遠しくて仕方ないくらいなのに。
 遊馬は浴槽に身体を沈め、ぽっかり抜けた天井から夜空を見上げる。月光が斜めに差し、白いタイルの壁を明るく照らし出す。遊馬は濡れた手を伸ばす。
 その手はかすかに光を透過した。影が薄く、逆に自分の手はわずかに発光しているように見えた。
 遊馬は素裸のまま廊下に出てアストラルを驚かせた。
「どうしたんだ、遊馬」
「アストラル…」
 遊馬が手を伸ばすと、アストラルもつられたように手を伸ばす。二人は鏡像のように手を伸ばし合う。しかし今までアストラルの薄い水色の身体を通り抜けていた遊馬の手は、アストラルの指先に触れた瞬間、溶け合った。
「遊馬…!」
 スフィアフィールドの及ぼす影響で遊馬の身体がこの星と同一化し始めているのか、それとも自分がアストラルと同じ存在になろうとしているのか。
 分からない。しかし怖くはなかった。遊馬は笑って手を更に伸ばす。アストラルの腕の中を一際強い光が侵蝕する。
「アストラル」
 遊馬は腕を引くと、再び形を為した手でアストラルの手を取った。
「行こ」
 ラグの上で少しずつ溶け合った。アストラルの声に出さない感情、これまでの記憶が遊馬の中に流れ込み、遊馬の中のものもアストラルの中で強い光となって巡る。
 次元を渡り様々な記憶を持ってきたアストラルにも、それは未知の感触だった。遊馬の感情、遊馬の喜びが自分の体液のように身体の中を隅々まで循環する。自分のものが溶けて、遊馬のものと一体になり、また戻ってくる。流れ込んでくるものは遊馬自身だ。
「遊馬…」
 アストラルの声と想いが遊馬の耳に、全身に響く。
 すがりつくように伸ばされた手も、掴んだと思ったら溶け合う。
「アストラル」
 名前を呼んでするキスは、言葉どおり溶けた。
 遊馬の内部をアストラルの戸惑いと喜びがくすぐる。それが更に遊馬の喜びを生む。歓喜が芽生えては実となり溶けて、新たな歓喜を誕生させる。
 遊馬は思った。ああ、こんな快楽、宇宙のどこを探したってあるはずがない!
 夜の更けるのも知らず、眠りさえ覚えなかった。
 美しい宇宙を見た。二人の中に、確かにそれを見た。

 翌朝、遊馬はアストラルよりも先に目覚めた。アストラルはふりではなく、本当に眠っていた。その姿はもう透けてしまって、遊馬の手はアストラルの身体の中に落ちていたけれども、アストラルが貪っている眠りは本物だった。
 遊馬の身体ももう透けてはいない。昨夜のようにアストラルと溶けもしない。残念な思いで手を持ち上げる。
 すると手の中を流星のように光が流れて、消えた。
 一瞬のことだった。しかし遊馬の頬はほころんだ。
「起きろよ、アストラル」
 長い時間の中で初めて、遊馬はアストラルを起こした。
 静かな日だった。海は遠い波を運ぶだけで穏やかだ。釣り針の周囲を何匹もの魚が泳いでいる。遊馬は釣り竿を片手に頬杖をついている。隣にはアストラルが座っている。
 おしゃべりもない静かな時間が流れる。遊馬は不意に隣を振り向き、アストラルの頬に唇を近づけた。それに気づいたアストラルが顔を傾ける。
「……あ」
 お互いに触れ合った唇に驚いて、離れた。
 今日はスフィアフィールドの機嫌がいいらしい。
「アストラル」
「なんだ、遊馬」
「もう一回」
 二人は軽く目を伏せる。微笑み、唇を触れ合わせる。
 人間が生きていれば正午と呼んだ時間だった。賑やかさは遠い太古のもので、星に存在する二人きりの彼らは静かで満ち足りた時間を満喫する。
 白い砂漠と化する街。
 友達の姿は蜃気楼。
 何もなくなる世界に、望むものの何でも手に入る腕で。
 水音がする。
 釣り竿が引く。






2011.8.31 もしも闇遊馬ルートで物語の終末が紡がれたら(20話視聴後)