悲しげに降る雨にも内緒の話を




 季節でもないのに朝から雨が降り続いていて、空気がじめりと冷たい。通りには傘の花が咲いている。これだけは昔から変わらない、らしい。ARシステムでもう一つの現実を作り出すことができるのに、空から降ってくる雨粒を、人は今でも避ける術がない。
 遊馬は中腰になり靴を引っかけながら玄関の向こうの灰色の景色を見た。時々、絵の具を落としたような鮮やかな色の傘、それから小学生のレインコート姿が集団で通り過ぎる。 小さい頃はよく、傘をさしていてもレインコートを着せられた。遊馬は落ち着きがなくて、すぐに濡れてしまったからだ。
 レインコートが半袖の腕に触れる感触の、濡れてもいないのに湿ったような冷たさ。遊馬は嫌だと言ったが、明里は無理にでも着せた。もっと古い記憶は……母にも着せられたこともあって、あの頃自分は冷たさも感じず鉄砲玉のように雨の中に飛び出していったのに。
「遊馬!」
 朝の配信で忙しいはずの明里がリビングから声を投げる。
「今日一日雨だからね。車に気をつけんのよ!」
 分かってるよ!と乱暴に返す。
 祖母も出てきて何かを言おうとしたが、遊馬は傘を掴んで雨の中に飛び出した。
「行ってきます!」
 通りは傘のせいで妙に混み合っているのに、静かだ。車を出し過ぎた車が水を跳ねる。早速、靴が濡れた。靴下までしみるのが分かった。
 じめりと冷たい。
 学校に着くまで、鉄男にも小鳥にも会わなかった。遅刻をした訳でもないのに。アストラルの姿も目が覚めた時から見ない。
 校舎玄関で濡れた傘を畳むと、自分の手も雨の滴にびっしょりと濡れた。遊馬はそれをズボンの尻で拭いながら、今日の体育は何時間目だったろうと時間割を思いだそうとする。こんな日こそかっとビングだろ? 体操服に着替えられるし、靴も履き替えるから一石二鳥、いや三鳥。
 しかし体育は最後の時間で、それまで遊馬の苦手な国数英が連続する。
 雨に打たれ波打つガラスの壁面を、遊馬はぼんやりと眺めた。眠気も訪れなかった。いつもは――右京先生には悪いけれども――居眠りしてしまうところなのだが。
 その頃から頭の奥に重いものを自覚していた。本当は家の玄関で靴を履きながら灰色の雨の景色を見ていた、あの時から居座っていたのかもしれない。脳みその中心からちょっとずれた所で、主張し続ける痛み。無視することもできず、忘れることもできない。
 頭が痛いのくらい、なんだよ。手も動く足も動く。なんにも問題ないし、申し分ない!
 しかし体育の授業が終わる頃には遊馬はすっかり無口になってしまって、心配した小鳥から顔色が悪いと言われてしまう。
「今日の遊馬、ちょっと変よ。保健室に行こう?」
「やだ」
「やだ…ってそんな子どもみたいな言い方」
「オレは大丈夫なの。構うなよ」
「そういうところがいつものお前らしくないって言ってんだ」
 鉄男が口を挟んでくるが、遊馬は二人を置き去りにするように教室を出た。
 傘はまだ湿っていた。
 一人の帰り道を遠回りした。海沿いを歩き、橋の上でなんとなく足を止めた。
 海も灰色をしている。低い雨雲の色を映しているのではなく、底の方に溜め込んでいた不機嫌を吐き出した暗さに見えた。海の中はいつも計り知れない。海面が輝いていても、その下は暗くて冷たい水を湛えている。
「遊馬」
 背後からアストラルの声がした。
「なんだよ、アストラル」
 遊馬はわざわざアストラルの名前を呼んで応える。
「帰らないのか?」
「どこに」
「君の家に」
「帰るよ」
 そう返事をしたが、遊馬は濡れた手すりにもたれかかり、動かなかった。傘がずれて、勢いづいて滑り落ちた雨の滝が制服の裾を濡らす。手すりについた腕も勿論濡れた。
「そのままでは雨に濡れる」
「分かってる」
 返事をしながらも遊馬は動かないし、振り向きもしない。
「どうしたんだ、遊馬」
「うるせえなあ!」
 少し大きな声を出した。頭の中で痛みの塊のありかがはっきりする。脳みその中心から少しずれた、でも手の届かないところ。勿論、最初から脳みそになんか触れないのだけれど、もどかしい痛み、制御できない不快感。
 視界の端を涼しげな光が横切る。アストラルが手すりの向こう側、遊馬の顔を覗き込むように現れる。
 遊馬はわざと何も言わず、そっぽを向いた。
「遊馬」
 返事もしなかった。
 傘がいよいよずれる。トラックが走り抜けて雨交じりの風が横殴りに吹きつけた。肩に挟んでいた不安定な傘は飛ばされ、遊馬の身体は灰色の雨の中に晒された。がりがりとプラスチックの柄をアスファルトで擦りながら落ちる傘。
「遊馬」
 アストラルの声。
 しかし遊馬は顔を上げない。飛ばされた傘を拾い、歩き出す。
 全身がじめじめして、冷たい。濡れてはりついた制服にレインコートの感触を思い出す。
 寒い。
 鳥肌さえ立っていた。
 祖母が濡れた肩に目を留めて、早く着替えてくるように言う。それとも先に風呂に入るかと勧められたが、遊馬は生返事をして自分の部屋に戻った。
 Tシャツに着替えると、その乾いた感触があたたかさとなって肌に触れた。少しホッとした。しかし夕食は思ったほど腹に入らなかった。もっと食べたいという気持ちが湧かず、いつものおかわりをしなかった。祖母が黙って遊馬を見つめた。
「ごちそうさま」
 食べ終えた皿を自分で流しに持って行くと、今度は明里が黙って自分を見ているのが分かった。遊馬は振り向かないようにダイニングを出て階段を上った。
 雨が降り続いている。
 屋根裏は薄暗く青い影の中に沈んでいる。窓の側だけがぼんやりと明るい。街灯のせいだ。雨が窓を打つ影が床に映る。
 今日はエスパーロビンの日だ。分かっている。しかし遊馬はテレビをつけない。黙ってハンモックに横になる。
「遊馬」
 案の定、アストラルが声をかける。遊馬は先んじて言った。
「オレ、今日頭痛いから。テレビつけねーから」
「頭が痛いのか、遊馬」
「そう言ってるだろ」
「薬を飲まないのか?」
「お前がごちゃごちゃ話しかけるから治るもんも治らないんだろ!」
 声を荒らげて起き上がると、目の前のアストラルがわずかに目を見開いている。それを遊馬は睨みつける。
 睨みつける間にアストラルの顔はいつもの無表情に落ち着いた。
「…分かった。黙っていよう」
 そして少し高いところに浮かんだ。消えはしないらしい。
 遊馬もそれに背を向け、横になった。窓の側を向くと、瞼を閉じていても少し明るい気がした。雨の中では街灯の光もくすんでいるのに。雨とガラスの影に邪魔されて青い影になっているのに。
 青い影の中に両親の写真が見えた。遊馬は不意に自分の瞳が潤むのを感じた。一瞬痛みを忘れ、心がほどかれたような気持ちを味わった。
「…ごめん」
 振り向かず、遊馬は謝った。
 しかしアストラルの声は聞こえない。遊馬は起き上がり、少し視線を上げた。アストラルは何も言わなかったが、しかしちゃんと遊馬を見ていた。
「こっち」
 遊馬はうつむき加減に手招いた。
「ちょっと下りて来いよ」
 アストラルは黙って視線の合う位置まで下りてくる。遊馬は顔を上げた。雨の青い影の中で、アストラルの姿は思いのほか目に柔らかい光だった。
「悪かったよ。アストラルも心配してくれたんだよな」
「私よりも小鳥たちや君の家族の方が心配していた」
「うん。明日謝る」
 遊馬はハンモックから下り、階段に足をかけた。アストラルは視線は投げるが何も言わなかったので、律儀な奴だと思いながら遊馬は振り向いた。
「薬、飲む」
 階下で薬を探していると、自室に戻っていたはずの祖母がいつの間にか戻ってきていて、どうしたのかと優しく尋ねる。遊馬は頭痛がすると正直に答えた。
 祖母は薬箱から錠剤を出してくれる。
「お腹は減ってないかい?」
「少し…」
 内緒じゃぞ、とチョコレートを少しもらった。それから錠剤を溶かした薄青い水を飲む。舌にチョコレートの甘さが残っていたので、くせのある苦さもそこまで気にならなかった。
「歯磨きをしてな。あとはゆっくり寝なさい」
「分かった。…ばあちゃん、ごめん」
「我慢のしすぎは身体に毒じゃ」
 椅子に座った遊馬に、祖母は子どものように頭を撫でた。遊馬は黙って乾いた祖母の手が髪を撫でるのを感じた。
 屋根裏に戻ってテレビをつけると、いいのか、とアストラルが尋ねる。遊馬はハンモックの上から答えた。
「ロビン、見たいんだろ」
「君は?」
「おとなしく寝る」
「なら今日は私もおとなしくしていよう」
 アストラルがテレビに背を向けて浮かんでくるので、少し悩んだがリモコンでテレビを消した。
 雨の青い影がアストラルの身体を透かす。アストラルはじっと遊馬を見ている。
「…見飽きねえの?」
「君の顔を見ていても考えることはたくさんある」
「例えば?」
「何故君は頭痛を我慢したのか。そして急にそれを認めた理由は何か」
 遊馬は横になった。瞼を閉じればアストラルの視線も関係なく眠るだろう。
 しかし再び瞼を開いた。
「教えてやろうか」
 指さし、声をひそめて言う。
「誰にも言うなよ」
「君以外に喋る相手はいない」
「じゃあ…忘れろよ? 聞いても、これは今夜だけのことだからな」
 耳を貸せ、と言うと、耳は取り外せない、と真面目に答えるので、耳を近づけろってことだよ、といちいち解説してやる。
 アストラルの耳は人間のそれより尖っている。透けて薄く、これが自分の声を届けるのかと思うと不思議な気もする。
 薄水色の耳に遊馬は囁いた。
「かあちゃんのこと思い出した」
「君の母親…」
 横目にアストラルが見る。
「それと頭痛がどう関係する?」
「雨の日、かあちゃんにレインコート着せられたんだ。オレ、雨の日も結構好きだった。なんでだろう…今日はその頃のことばっかり思い出したんだ。でもかあちゃんはいなくて…」
「『寂しかった』?」
 遊馬は目を伏せ、忘れろよ、と半分透けた美しい耳に囁きかけた。
 本音を吐き出した身体は妙に軽く、遊馬はハンモックに倒れ込む。綱が軋み、身体がゆらゆらと揺れる。
 アストラルが少し上に浮かんで遊馬を見下ろした。
「薬を飲まずに我慢するのも母親の影響か?」
「それは…違うぜ、多分」
「君の母親は、幼い君が頭痛に苦しんでいる時、どうしてくれた?」
 ああ、と息を吐き遊馬は思い出す。
「頭撫でてくれたよ。さっきばあちゃんがしてくれたみたいに。それに呪文があるんだ」
「呪文?」
 言っとくけどカード効果の発動には全然関係ないからな、と先に釘を刺し遊馬は中空に手を伸ばす。
「痛いの痛いの飛んでいけ、ってさ」
 飛んでいけ、と遊馬は手を振り払う。
 母の面影が蘇る。優しい微笑み。柔らかい掌。抱きしめられると、優しさとぬくもりといい香りに包まれるようだった。遊馬の表情は自然とほころび、今度こそ目を伏せようとした。
 不意に青白い指先が眉間の上に伸ばされた。遊馬は伏せようとした瞼を見開いた。
 アストラルが手を伸ばしている。唇はわずかに開いているが、無言だ。
 遊馬はくしゃりと表情を崩した。
「ありがとな」
 触れられない手に沿わせるように腕を伸ばす。
 お互い退く手が滑って、触れられない掌が掠め、離れる。
 雨音が遠ざかる。遊馬は自分が眠いことに気づかない。まだアストラルと喋っているような気でいる。しかし瞼は閉じていて、呼吸は穏やかになり、そしてとうとう雨音の届かない眠りの中に落ちる。
 アストラルは遊馬の枕元に浮かび、もう一度額に自分の手を近づけた。彼は小さく呟いたが、その声は聞いてくれる遊馬が眠ってしまった今、空気を震わせることもなく舌の上に溶けてしまった。






2011.8.29 眼鏡新調記念リクエスト、ニナさんより「頭痛でゆまアス」