永遠の思い出に須臾より愛を




「昨日もしたっけ」
 昨日がいつだかも思い出せないけれど、確かにそれは世界が終わる前の日だった。だから昨日なのだろう。
「昨日もしたな」
 アストラルが微笑み遊馬の膝の上に乗る。ふりが随分上手くなった。本当に触れるかのような距離感。真っ暗で、何もないこの世界で、玉座しか存在しないこの世界で、アストラルは遊馬にとって唯一の光源だった。
 しかしアストラルは言う。君の瞳こそ私にとって光だ。根の生えたかのように玉座から動かない――もう動けない――遊馬の上にアストラルは静かにすり寄る。掌は柔らかく遊馬の頬を包み込むように触れるふりをした。
「今日もするか?」
「したい」
 遊馬は素直に即答し、アストラルの唇に温度のないキスをする。感触もない。吐息も感じられない。しかし、これは彼らのキスだ。それだけで遊馬の息は上がり、デュエルのダメージ以外の痛覚をしらないアストラルが震える。
 あとは慣れた手順だった。ベルトを外し、ズボンの前をくつろげる。既にゆるく立ち上がりかけている遊馬のそれに、青白くほっそりとした指が這う。摩擦などこれっぽっちも感じないのにそれは硬くなり、遊馬はだらしなく笑った。アストラルが遊馬の上に腰を落とす。勃起した性器と、それを擦る自分の手がアストラルの薄青い身体を透かして見えた。
「アストラル…?」
「ああ、熱い。君のはとても…」
 アストラルは声を上擦らせ遊馬の耳に囁く。
「熱くて、私は君を感じる」

          *

 校門を出た所で明里から通信が入って、おつかいをしてきてほしいと言う。
 夕方だった。木曜日だった。陽はまだ高くて、空気には薄い橙色のベールがかかり始めていたけれども、空は水色のまま、昼の続きの放課後だった。
 姉に逆らうことなど許されないし、遊馬も文句を言いつつ逆らおうとはしない。モノレールの駅に向かった。二駅先のビジネス街に寄る。おつかいそのものは写真を受け取るだけで、こともない。
「遠回りして帰ろ」
 遊馬が口ずさむと、金色の霧が視界の端を掠めた。
「まだどこかに立ち寄るのか?」
 隣に浮かんだアストラルが腕組みをして見下ろす。
「そうじゃねえよ」
「遠回りをする、と言った」
「歌ったの」
「歌?」
「そーゆー歌なんだよ」
 再び乗ったモノレールは、流石ビジネス街の駅で、仕事を終えたサラリーマンが押し合いへし合いしている。さっきよりも混んでいた。遊馬は周囲より小柄なのを利用して、何とか身体を車内に滑り込ませる。
 遊馬は顔をしかめた。汗くさいなあ、と声には出さないが思った。今日は天気予報が外れて、ひどく暑かった。人口密度の高い車内は人いきれに噎せ返りそうだった。
 息を止めようとすると、尚のこと深く吸い込むことになる。大きく息を吐いた遊馬は思わず息を吸い込み、あ、ヤバイ、と思ったが、次に鼻をくすぐったのは汗の匂いではなかった。花の匂いだ。
 顔を上げると、自分より数人先、ドアの付近にそれはあった。ダークな色のスーツの波の向こうに、何故か花束。百合だ。多分、カサブランカ。何故名前を知っているかというと、旅先で母が教えてくれたものだからだ。
 OLだろうか、スーツの女性が花束を抱えて俯いていた。勿論デートではなく仕事の帰りなのだろうが、奇妙な組み合わせだ。モノレールがカーブする。ぐっと外側に加重し、花束が押されて潰されそうになった。遊馬はじっとそれを見ていたが、揺れが収まるとサラリーマンの間を押し分けて花束の側に立った。
 また車体が揺れる。遊馬は小さな身体を突っ張って、花束が潰れてしまわないよう、懸命に人の波を押しとどめた。
「遊馬、遊馬」
 アストラルが呼ぶ。遊馬は声のした方向へ首を向ける。アストラルは天井から逆さまになって自分を見下ろしている。
「何をしているのだ?」
「見りゃ分かるだろ」
「私には理解しづらいが」
「…いいよ、分かんなくて」
「君は花束が潰れないよう、身を挺して庇っているのか?」
「分かってるんじゃねーか!」
「何故、君がそういうことをするのか分からない」
「つめてーヤツ。知ってたけどさ」
 傍目には遊馬が独り言を言っているようにしか見えない。視線が刺さると思って首を戻すと、花束を抱えたOLが吃驚した顔で遊馬を見ていた。遊馬は、へへ、と誤魔化し笑いをした。またモノレールが揺れて、遊馬の背中に大人の男何人分か分からない重量がかかる。足を踏ん張り、遊馬は耐えた。
 小さく笑う声が聞こえた。見るとOLが笑ったのだが、何故か目にちょっと涙を浮かべていた。彼女は花束に軽く顔を埋め、のぞく目で遊馬に微笑んで見せた。遊馬もニカッと笑顔を返す。
「君のそれは、無償の奉仕ではないのだな」
 アストラルが言った。
 遊馬は俯いてボソボソと返事をする。
「は? そんなこと考えたこともねーよ。っていう困ってる人がいたら普通助けるだろ。お返しとか考えるかよ」
「いや、君は報酬を得ているのだ」
「何ももらってねーっつの」
「笑顔を」
 顔を上げると、アストラルが笑っていた。
 昨日のことだ。

          *

 浴室に溢れる光は夕焼けの色をしていて遊馬は寂しくなる。寂しいよ、と口に出すと、私も寂しい、とアストラルが応えた。
「寂しい、遊馬」
「こっちに来いよ」
 遊馬は曇りガラスのドアの向こう、ぼんやりと見える姿に向かって呼びかける。
「来いよ、アストラル」
「この扉の向こうに行くと君は裸なのだろう」
「そうだよ」
「裸を見られたら君は死んでしまうのだろう」
「あれ、嘘」
 遊馬は濡れた手で曇りガラスに触れた。僅かに透明度の増したガラスの向こう、アストラルの青白く光る手が重ねられるのを見た。
「恥ずかしくて嘘ついたんだ。あれ嘘。オレ、別に死んだりしねえよ」
「本当に?」
 その声は目の前で、急にクリアになった声音で遊馬の鼓膜を叩いた。ガラスのドアを通り抜けアストラルが目の前にいる。上半身だけを通り抜けさせて、そしてわずかに笑っていた。
「どうやら本当のようだ」
「ああ」
「君が嘘をついたという本当」
 水色の身体はするりと何の抵抗もなくドアをすり抜け、湯気に巻かれるようにふわりと中空に舞った。遊馬は初めてアストラルの前に晒す生まれたままの姿を恥ずかしがりもせず、隠しもしなかった。濡れた裸のまま浴室の真ん中に立ち、アストラルを見上げていた。
「これが君の本当の姿…」
 アストラルは逆さまになり、自分を見上げる遊馬に向かって手を伸ばす。
「遊馬」
「なに?」
「君はきれいだ」
「なんだよ、それ」
「本物の君の姿は、眩しいな」
 遊馬、遊馬、とアストラルは繰り返す。初めて見る裸…、人間の素の姿にテンションが上がっているのかもしれない。子どもみたいなはしゃぎ方だ、と遊馬は自分の年齢を棚に上げて思った。
 湯船に一緒に入るとアストラルは湯に浸かったところからまるで溶けてしまったかのように見えた。遊馬は湯の中で手を遊ばせ、ここがお腹?ここが膝?とアストラルに尋ねた。アストラルもまた触れられない手、見えない手を湯の中で泳がせ、ここが君の胸、ここが君の膝、と遊んだ。
 昨日のことだ。

          *

 歯磨きをしていると、アストラルが後ろでその真似をしていた。その姿は他の人間には見えないのに、遊馬にはアストラルが鏡に映るのも見えた。アストラルは人差し指を歯ブラシに見立てて自分の歯に触れる。白く、勿論虫歯が一本もない美しい歯。揃った歯並びが綺麗で触ってみたいと思う。
「遊馬」
 アストラルが指さす。ぼうっとしている間に歯磨き粉が垂れて顎へ滴っていた。
「ぶわっ…」
「まったく、君は何をしているのか」
「おまへのせーら!」
「私の?」
「おまへのはがきれーらから思わず…」
 見とれて、と言うのも少し気恥ずかしく歯ブラシをがりがり噛むと「それは責任転嫁ではいかね」と冷静に言われて、いっそう歯ぎしりしてしまった。うがいをし、屋根裏に戻るまで口を利かなかった。しかし。
「遊馬、遊馬」
 背後から呼ばれたら振り向いてしまうのだ。
 急に振り向いたせいで手が相手の胸をすり抜けた。あ…、と小さな声を漏らしたのが遊馬。アストラルはじっと自分の胸を突き抜けた細い腕を見下ろしている。
 遊馬はすり抜けた手をそのまま持ち上げた。胸から首へ。顎の形をなぞるように掌を広げ、不意に引き抜くとアストラルが震えた。改めて遊馬が指を近づけると、その小さな口は従順に開き無遠慮な侵略者をおとなしく受け入れた。実際に触れられる訳ではないのに、アストラルは目を細め、遊馬の指が歯をなぞるのに合わせ吐息をはいた。
「綺麗な、歯」
 遊馬は呟いた。月のか細い光の下で青白く光る身体に隠された小さな歯に触れる、ふりをした。
 昨日のことだ。

          *

 どこかでおもちゃのピアノが鳴って、遊馬は不安定な屋根の上にすっくと立ち上がる。アストラルは急に立ち上がった遊馬と頭がぶつからないように――という言い方は正確ではなくて、お互いの頭がすり抜けてホラー的な様相を呈することがないように遊馬への配慮をもって――くるりと宙返りをし、逆さまに遊馬を見下ろした。
「どうした、遊馬」
「聞こえたろ、今」
「ピアノの音だ」
 アストラルは軽く目を伏せ、音のした方向に耳を向ける。
「電子音のようだったが」
「あの音さあ」
 遊馬は手をひらりと振って指先を擦る。
「どっかの国の飛行場の音に似てる」
「場所が特定できないのは幼少時の君の記憶だからか?」
「そうだろうけど」
 遊馬が擦った指先を開くのをアストラルは見た。今、彼は架空の、あるいは記憶の中のチケットを手放したのだ。
「あちこちで聞いた気がすんだよ」
 遊馬は中天を見上げる。街明かりに押されたささやかな星の光がアストラルの身体を透かして瞬いている。
「今度はお前も連れて行こうかな」
「私も?」
「お前、嫌になるくらい何でも正確に覚えるだろ?」
 そうからかいと信頼の笑みで見上げると、アストラルは口を閉じたまま鼻先でピアノの音と同じ音色を奏でた。
「ふーん」
 遊馬も真似をする。音がズレている。もう一度アストラルが鼻歌の一音。ハレルヤの第一声。冷たく涼しげな音が、まるで未来を楽しみにするような瞳の異世界生命体の鼻先から漏れる。それは空に輝く星の秘密めいた囁きの代弁にも聞こえた。
「ふーん」
 繰り返す遊馬の音がアストラルの繰り返すそれに近づく。やがて重なり合う。またどこかで鳴るおもちゃのピアノ。三つの音が重なり合って、まるで世界がぴったり完成したかのような感激が遊馬を足下から震わせた。思わずよろめいたのを持ち前の運動神経で立て直したが、空から降ってきたのはさっきまでの感動も宇宙の彼方へ、呆れきったアストラルの声だ。
「まったく、君は馬鹿だな」
 君は危なっかしいから、今度は私がついていく必要があるだろう、とアストラルは付け加えた。
 今度、という約束をした。
 昨日のことだ。

          *

 昨日のこと。昨日のこと。昨日のこと。
 今日はいつでも今日であり、全ての過去、全ての思い出は昨日のことだ。
 紡いでも紡いでも今日は昨日にはならない。思い出が重ならない。皇の玉座の上には、常に今という刹那しか存在しない。
「寂しくないのに、寂しいんだ」
 遊馬が手を伸ばすと、アストラルがその手をとるふりをして指先に口づけをした。遊馬は透けてしまうその口づけに、温度も感触もない決して接触できないそれに溢れ出すような感情を感じた。
「アストラル」
 呼ぶと、その身体がすり寄る。ほのかに青白く輝く肢体に指を這わせるふりをして、遊馬は掌でアストラルの頬を包み込む。
 触れないことを、昨日、何度確かめただろう。
 触れないことに、今日、何度落胆しただろう。
 触れないことが、それでも尚、どれだけの想いを高めてきただろう。
「寂しいのに、物凄く嬉しいんだ」
「私も同じ気持ちだ」
「寂しい?」
「この感情の名前を教えてくれたのは君だった」
「風也は元気かな」
「彼はもう寂しくないだろう。あの世界にはエスパー・ロビンの仲間達がいるのだから」
「そうだな」
 遊馬の指が頬の模様をなぜるふりをすると、アストラルはなぜられる感触を感じているかのように軽く目を伏せた。遊馬はその顔を下から覗き込み、唇を寄せた。
 二人は小さな囁き声でお喋りを続けた。ロビンのこと、友達のこと、家族のこと。残してきた、見捨ててしまった世界のこと。昨日のこと。昨日のこと。昨日のこと。楽しかった思い出も、悲しかった記憶も全てはそこにある。ここにあるのは永遠にフラットな安寧だけ。二人を包み込む幸福だけ。その中で二人はお喋りにかこつけて近づいた唇を――決して触れ合えない唇を――透かし、重ね、キスの真似事を続けた。
「したい」
 熱っぽい声で遊馬が囁く。
 あとは慣れた手順だ。ベルトを緩め、ズボンの前をくつろげる。ゆるく勃ち上がりかけた性器に、跪いたアストラルがキスの真似をした。
「食べるなよ?」
 悪戯っぽく言うと、アストラルは口を大きく開けて性器の先端に噛みつくふりをした。自らの性器を掌で擦っていた遊馬が、ぞくりと身体を震わせた。
「感じるか?」
 アストラルが尋ねる。
「ああ」
 手の動きが勢いづき、放たれた精液はアストラルの顔に向かって飛んだ。へへ、と照れたように遊馬が笑うと、ふ、と少し余裕のある笑みを浮かべたアストラルがまた膝に乗った。
「これで終わりか?」
「…してーの?」
「したい」
「昨日もしたのに?」
「昨日もしたが、今日もしたい」
 してくれるか、と囁かれ、当たり前だろ、と遊馬は薄水色の耳に囁きかけた。
 二人は微笑みを交わし、唇を近づける。キスをするにも近すぎる距離。頬と頬を溶かしあい、遊馬とアストラルは小さな声で笑う。






2012.6.17 わがまま、ききます。けろさん。こっそり退職祝いも。