私の名前は神代凌牙




 オーオーオー。水の中で壊れきれなかったテレビが声を上げている。ヨーロッパで流行の歌だ。凌牙は水のように溶けた記憶の中からそれを探し出す。愛を歌った歌だ。オレはかつてそれを嗤ったのに。
 凌牙は透明な壁に手を滑らせた。合成アクリルの壁の向こうに遊馬が泳いでいる。水色の水は三つの明るい太陽に照らされて、ギリシャの神殿のような光の柱が幾つも射す。
 学校の校舎から見えるハートランドシティは水没から七十八時間、海であることを当たり前のように受け入れ始めていた。人間が疑問や躊躇いさえ持たなければ話は早かったし、そこは強制的に黙らせようという凌牙の考えは間違っていなかった。今や間違いなど起こしようもない。
 校舎をぐるりと巡る廊下はひたひたと濡れていて凌牙は裸足でそこを歩きながら、窓の外を平行して泳ぐ遊馬を見る。遊馬は昨日一日中怒っていたが、今は黙って凌牙を見つめるだけだ。遊馬の視線を独占するのは心地良く、世界の全図を知らなければこの気持ちさえ知らなかったのだと、凌牙は穏やかな幸福感を感じる。
 同級生や幼なじみだけではない、天城カイトとかいう男や、他にも、とにかく遊馬は誰にもあの笑顔を振り撒きすぎなのだ。かつて自分は愚かであり遊馬が懸命になり涙を浮かべてまで引き留め、問題解決の際には笑顔を浮かべる相手は自分だけだと信じていた。疑いもしなかったし、疑いようもなかった。凌牙は自分達を取り巻く世界を知らなかったし、遊馬のことを深く心の底から信じていたからだ。前者は愚かさに起因するが、後者については誤りはない。
 今でも凌牙は遊馬のことを信じている。今はもう、遊馬は自分のものだった。
「わたしのものだ」
 感情のない声が呟く。それは凌牙の口からこぼれた凌牙自身の感情も含む言葉だったが、凌牙はまるで意識をしていなかった。
 視線は絶えず遊馬を追う。深い水色の水の中、遊馬は息継ぎさえすることなく泳ぎ続ける。
「ゆうま」
 声がぶれる。凌牙は立ち止まり合成アクリルの壁に両手をついた。掌は壁の向こうを満たす水色の水に反応してじんわりと溶け、壁の内側に青く筋を作って垂れる。凌牙は軽く目を伏せ、透明な壁に額を寄せた。
「遊馬」
 懐かしい自分の声音だ。壁の向こうで遊馬が口を開く。シャーク、と呼んでいるのがきっと人間なら聞こえなかっただろう。しかし凌牙には聞こえた。水色の水に包まれた遊馬の声なら、どれだけ離れた場所にいても、どんなに小さな囁きだったとしても聞こえるはずだ。
「オレはお前のものだからな」
 凌牙は凍った表情をほどく。引き攣る目元や口の端がいびつな笑みを作り上げた。痙攣的な笑みを、しかし遊馬は笑うこともなく軽蔑するでなく、見据えて動かない。
 お前が何を考えているか分かる。
「わかる」
 囁き、凌牙は唇を近づける。
 水色の雨が降った日、凌牙は決めた。水色の雨がバルコニーに流れ込み私がオレを見た。私はオレに取引を持ちかけ、オレはそれを飲んだのだ。遊馬を手に入れるためならばどんな犠牲も払うし、自分さえどうなってもいいと。胸の奥の棘がどろりと溶けて身体の中を水色に変えた。その瞬間全てが見えた。世界そのものである意志の、遊馬を見守り続けた記憶の全てが。オレは遠い場所からやって来て遊馬と出会った。それはまるでオレのことだった。オレは人間の世界にいながら、遊馬とはあまりにかけ離れた世界に生きていたのだ。しかし凌牙にはもう記憶がある。遊馬と、この世界をどうすればいいか分かっている。だから人間を溶かし尽くした。その意志を持ってハートランドシティに流れ込み、遊馬が執着するもの全てを。だってそれは遊馬に必要ないものだと私は考えるからだ。遊馬が自分と共に使命を果たすための、あれは障害でしかない。もしモチベーションが上がらないと言うならば…でももうオレがいるから君は安心して私と世界を…オレと…世界を…。
 ずるずると手の痕を引きずり、凌牙は壁にもたれてしゃがみこむ。
「オレ、は…」
 壁の向こうでは遊馬が寄り添い、同情の眼差しを注いでいた。しかし凌牙はそれを惨めとは思わなかった。私が使命を果たすためにオレがあるとしたら遊馬の視線でオレは生きていくことができるから…。
 満たされた笑みは凌牙の歪んだ表情を束の間人間らしく戻したが、目の端からは深い青の涙がどろどろと流れ続けていた。涙は足下をひたひたと満たす水に溶け、廊下を流れ落ちてハートランドシティを沈めた水色の海に流れ込んだ。海の中にたゆたう涙を、遊馬はくしゃりと握り潰した。






2012.6.11 跳ね箸さんのお誕生日祝い。